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晩夏⑧

晩夏⑧


 華音について聞きたいことがあった。

 彼と彼女がどういう関係なのか、どれくらい親密なのか、どこまで進んだのか。

 でも、聞いたら答えなければいけない。僕がどうして華音を気にするかを。

 誰にも知られたくなかった。恥ずかしいとか、みっともないとかいう理由ではなくて、ただ秘密にしておきたかった。

 大事なものを誰かに教えたら、その瞬間、あの日のように全てが壊れてしまう気がして仕方なかった。

 自分や他人の中のものを金庫から出さなければ、少なくとも今のこの現状は守られる。



 不眠症が酷くなっていた。

 夜の散歩の回数が増えた。

 けれど、足が向かう先はコンビニの反対方向だった。

 駅に近いこちらは人が多い。地面に座る「行き場のない若者」や吐しゃ物をまき散らす酔っ払い、肩を寄せて歩く男女。

 それらを避けながら、行く宛てもなく足を進める。

 本当にどうでもいいことばかり頭の中に浮かんだ。漫画の続きを妄想したり、起こるはずのない「もしかしたら」を考える。そして、時々、現実的なことを考える。華音のこと、由季のこと、有川のこと、自分のこと。これから何かが起きそうで不安だったが、結局、日常が繰り返されるだけだという諦観に似た楽観もあった。

 歩きながら、夢を見ている気分だった。

 描き終わった絵を有川に渡したのが、彼と最後に言葉を交わしたときだった。それ以来、僕は有川を避けている。僕が有川を避ける理由を、彼は気づいているのだろうか。知っているのだろうか。もし、そうなら、堪らなく嫌だ。

 今すぐ、彼を殺してやりたいくらいに。

 有川を殺す方法を考える。殺す方法は限られる。鈍器で撲殺するか、刃物で刺殺するか。突き飛ばして自動車に轢き殺させるのもいい。高い場所から突き落とすのは現実的ではない。警戒心なしにそんな場所に来る人は、実際のところ少ないだろうから。

 明日にでも、彼が自殺すればいいのに。

 そしたら、僕はまた華音と『二人』だ。

 ポケットの携帯電話が鳴る。ディスプレイに表示された名前と番号に、少し呆気に取られた。連絡先を交換したものの、一度も連絡を取ったことはなかった。

 通話のボタンを押す。

「どうしたんだ。かける番号間違えたのか?」

『どうしたはこっちの台詞だよ』

 電波に乗った有川の声は平坦だった。教室で聞くような無理に抑揚をつけたものではない。夜にいつも聞いていた、淡々としたものだ。

『あんた、どうしてコンビニに来なくなったの?』

「どうしてって、別に約束していたわけじゃないだろう」

『答えになってねえよ』

 喉の奥を鳴らすような笑い方が耳障りだった。

『どうしてもあんたに言いたいことがあったんだ。なのに、あんたは来ない。俺としてはえらい迷惑をしている』

 時間がないんだ、と有川は言う。もう寝るのか、と返したが、返事はない。

「それは申し訳ないことをした」

『別にいいよ。大したことじゃない』

 少し間が空いた。

『俺があんたに話しかけた理由』

 華音のことが気になったからだろう、と僕が言う前に、有川が言葉をつづけた。

『あんたなら、分かると思ったんだ』

「何を?」

 また少し間が空く。ざらついた呼吸音が聞こえてきた。

『母親を奪われる気持ち。あんたなら分かるだろう?』

 どういうことだよ、と聞き返したが、電話はすでに切られていた。

 何のことか、さっぱり分からない。

 僕は有川に身の上の話をしたことはある。母が家を出て、父が自殺した。でも、それ以上のことを語ったことはない。

 有川は、どこで僕が「奪われた」と知ったのだろう。

 それに、有川も「奪われた」とはどういうことだろう。

 有川の母親が死んだのは、十年ほど前のことだ。彼女の死の原因となったのは、彼の父親と姉の性関係だろうと想像していた。自分の夫と娘の関係に気づいた有川の母親は、苦悩して、死んだ。そう考えるのが自然だろう。

 でも、それなら「奪われた」という言葉はしっくりと来ない。「殺された」という方が適切なように思える。

 ふと、頭の中に一つの仮定が思い浮かんだ。その仮定を基に、僕の中にある情報をパズルのピースを合わせるように、組み立てていく。

 一つの絵が出来上がった。

 誰かに言わなければならない。でも、どうやって。どう口にすればいいのだろう。

 携帯電話を取り出す。けれど、その「誰か」を僕は持っていない。アドレス帳は数件しかない。家と有川と山田と、あとはその場の流れで交換した誰かの名前。

 華音は、もう寝てしまっているだろう、

 携帯電話をポケットにしまう。

 気がつけば一時間も歩いていた。もちろん帰るのにも一時間かかるわけで、寝るのがすっかり遅くなってしまう。

 歩きながら繰り返し頭に浮かべたのは、母親に覆いかぶさる男の背中だ。

『アレ』を見たとき、僕は何を感じたのだろう。

 今それを見たとして、何を思うのだろう。

 もし、『アレ』で子供ができたとして、何をどうすればいいのだろう。

「――――」

 湧き出したのはどこかへ逃げ出したくなる衝動と、死にたくなるような強い吐き気。

 こんなこと、考えるだけ意味がない。目を背けて、遠ざけて生きるべきだ。

 明日、有川と話そう。何でもいいから、何かを。

 吐き気を収めようと強く息を吐いたが、酸欠に似た息苦しさは消えてくれなかった。

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