初春⑩
初春⑩
「寒い」と向かいの席に由季が小柄な身体をさらに小さくする。
「暖房利いてないんじゃないの、この店」
二月になって、気温が氷点下を下回る日が増えた。
それなのに由季は太股を出すくらい短いパンツルックスで、華奢な骨格が透けて見えるくらいの薄着だった。上着を一枚羽織っていればちょうどいいくらいの空調だったから、店が悪いとは一概には言えないけど、それを彼女に指摘するのはナンセンスだろう。
東野の趣味かな、なんてことを考えながら、上着を貸すことを提案する。由季は首を振る。僕と一緒にいたころよりも長く伸びた髪がふわりと揺れる。
「気を利かせなくていいから」
「気を利かせているつもりはないんだけど」
「いい。我慢する」
「一人で我慢大会をされても、僕は楽しくないよ」
店員さんを呼んで、暖房を強めてもらうように頼んだ。由季がこちらを睨んでいる気がしたけれど、気づかないふりをした。
僕はワッフルとカフェモカ、由季はローズヒップティを注文した。
「ワッフルが美味しいお店だったんだけど、飲み物だけで良かったの?」
「楽しい話と一緒なら食べてみたかったけれど、そうじゃないんでしょう?」
「少し聞きたいことがあるだけさ。有川と華音のこと」
分かりやすいくらい由季の表情が強ばった。
店員がお盆にワッフルとカップを乗せてこちらにやってくる。由季の前にワッフルの皿を置いたので、店員さんがカウンターに戻るのを見計らってこちらに引き寄せる。
「甘いものは女の子が好きなものっていうのは、偏見だと思うんだ」
「千歳は女の子っぽい趣味があるけどね」
「名前とか?」
僕は笑う。由季は笑わない。けれど、こちらの表情につられたのか、少し頬の上の筋肉が動いた。
「僕の母親は、女の子が欲しかったんだ。だから、子供ができる前から、『千歳』って名前を用意していたらしくて」
けれど、生まれたのは男の子だった。僕だった。もう一人作ればいいのに、と思わなくもないけれど、経済的な理由とか、色々とあったのかもしれない。
ガチャガチャのように、「出るまで回す」ということができたら、母はそうしただろうか。その場合、僕は『不要なカプセルはこちらへ』の回収ボックスに捨てられていたに違いない。
「僕が絵を描くようになったのも、そういう理由かもしれない。ボールを追いかけるよりも、女の子っぽいし」
「その話、前も聞いた」
「あれ?」
まったく覚えがない。
「いつ?」
由季は目線を僕の方から横に逸らす。
「小学生くらいのときよ」
「ああ、はい」
申し訳ないような、恥ずかしいような曖昧な気持ちになる。
意識して、息を長く吐く。
「うん。でね、僕は自殺を暗いものだって決めつけるのも、あまり好きじゃないんだ」
「明るい気持ちで飛び降りる人っているの?」
由季はきつく僕を睨む。
君だって、楽しそうに飛び降り自殺について語ったじゃないか。自殺するなら飛び降りがいいって。
そうたしなめたい衝動をぐっと堪える。話が進まなくなるから。
「何事にも例外はある」
カフェモカで唇を湿らす。
「カモノハシは哺乳類だけど卵から生まれるし、正常位でセックスするのは人間とボノボだけだ。いや、もしかすると、定義をするから、例外が生まれるのかもしれない」
「今日の千歳はおしゃべりだね」
確かに、そうかもしれない。
ともすると、あの日、有川の家を初めて訪ねたとき、彼女が先生について、饒舌に話していたのも、今の僕みたいに気持ちが高ぶっていたからかもしれない。
あのときすでに、華音は飛び降りることを決めていたのだろう。
「僕は本来おしゃべりなんだ」
「知らなかった。恋人だったこともあるのに」
「恋人が一番の理解者というのは、コミックと映画だけの話だ」
ともかくね、と本題に入る準備をする。
「君が、有川の自殺に興味があると思ったんだ」
「……どうして?」
僕は右のポケットから封筒を抜き出す。そこから、写真を取り出して、由季に見せた。くしゃくしゃだった写真は、僕が丁寧に引き伸ばしたおかげで、幾分かまともになった。
「君のだろう?」
「……」
遠目に僕と華音が写っている。
背景はラブホテル。
目の部分に黒い線が引かれていたら、週刊誌のスクープっぽく見えるかもしれない。
有川の上着の右ポケットから出てきたものだ。
「なんで……千歳がこれを持っているの?」
由季は怒り狂いそうな、泣き出しそうな顔を僕に向ける。やめて欲しい。女の子のそういう顔は好きではない。
あの日、父から浮気を問い詰められ、開き直った母を思い出すから。
相手にしているのが華音だったらもう少しやりやすかったのに。彼女なら、目だけを輝かせて、写真に見入っていただろう。子供が宝物を見るように。
死んだ人間の「もしも」を考えても仕方ないのだけど。
「千歳に、あなたに……私を責める資格はないでしょう……」
「責めているつもりはないよ」
できるだけ、静かな口調を心がける。
「なら、何でッ?」
周りが僕たちに注目している気配を感じる。
できるだけ、静かな口調を心がける。
「君の疑問に一つずつ答えよう」
答える――そう、二人の自殺についての答えを、僕なりの答えを、僕はすでに持っていた。それは金庫の中にあって、厳重に暗証番号と鍵がかけられていた。
だから、今から行うことは、謎解きよりも答え合わせに近い。
僕にとっては、飛び降りよりも、大事なことを口にすることの方が難しいのだろう。
静かに息を吐く。それでも、話さないと、いけない。
「まず、写真の入手について。これは冬美さん――有川のお母さんから渡されたんだ。何か知っていることがないかってね。有川の上着のポケットに入っていたらしい」
もちろん、馬鹿正直に何もかも答える気はない。真実なんて、それっぽく語ればいい。
由季が僕の言葉を待っているようだったので、続ける。
「僕と華音の写真だ。この日のことについて、弁明するつもりはないよ。僕と華音はラブホテルに入った。理由は、君が想像しているものと違うけれど」
そういえば、ワッフルに手をつけていなかった。手遊びも兼ねて、ナイフでワッフルの生地を切り分ける。ザクザクと小気味良い感触がナイフから手に伝わって、少し楽しくなってきた。
「君は偶然、僕たちを見ていたんだね。もしかすると、後をつけたのかもしれないけど」
忙しそうな蟻や蜜蜂は、本当のところ、仕事をしていない。でも、残り一割の「働き者」も、実は働いていないことの方が多かったりする。意味もなく外をうろうろと散歩したり、巣の中で休んだり、実際のところ彼らは暇をしている。
学園祭準備期間、働き者の由季にも暇な時間はあったのだろう。
「ともかく、写真に撮って、有川に渡した」
「……」
彼女の無言を僕は肯定と捉えて、頷く。
「写真を撮ったのが君かと思ったのは、半分くらい勘かな。有川の自殺を気にしているようだったから」
「そう、千歳と月島さんが浮気なんてするから……」
「勘違いさせることは罪だ」
生地にホイップと果実を乗せて口の中に入れる。バターの香りと、ほどよい甘さのホイップ、果実の酸味が口の中に広がる。
楽しい話と甘いものは確かに良く合う。そう感じるのは、僕に少女趣味があるからだろうか。
ワッフルの味に頷きながら、「僕と華音が好き合っていたというのを、君の勘違いだと言っているわけではないよ」と注釈を入れる。
僕たちに分かりやすい恋愛の情はなかった。でも、お互いを心の拠り所にしていたと思う。それは勘違いではない、と信じたい。でも、それを他人に説明するのは難しいし、無意味だ。
大切な相手の、何が大事であるかをもし口で説明することができたら、それは全部、嘘なのだから。
口では上手く言い表すことができないし、文字に起こしたら陳腐な詩になりかねない。でも、僕は彼女のことを大事に思っていた。
「君は告発のつもりだったんだろう? その告発のせいで、有川が絶望して、自殺した。君はそう考えた。そう考えると、僕をつけ回していたのも説明がつく。君にとって僕は犯人捜しをしているように見えただろうから、やめさせたかったんだ。でも、やめてなんて言えない。怪しまれるから」
「……」
大げさに首を振る。強い否定の意味を込めて。
「でも、それは勘違いだ」
由季が目を見開く。
「僕と華音の仲は、君も知っていた。周りもたぶんね。僕たちはお忍びで行動していたつもりはないから、偶然、僕と華音が二人でいるのを見た人もいるだろう」
「有川くんも知っていたの……?」
「うん。たぶんね」
――どっちが、最初だったのかしら。
ある秋の日、華音が僕に聞いた。僕と華音、どちらが先に相手の「自殺収集」に気づいたのか。順番はどちらなのか。
有川にも同じことが言えた。僕は、自分と有川が知り合ったあと、華音と彼が知り合ったと思っていた。何故なら、華音が僕のことを有川に話すなんて、あり得ないと思っていたからだ。
だけど、本当のところは違ったのだと思う。
僕が有川の過去を事前に知っていたように、有川も僕のことを知っていた。だから、僕に声をかけたのだ。話し相手として選んだのだろう。華音が、有川に僕のことを話したから。
二人がどこでどうやって知り合ったのか、もちろん僕は知らない。少女趣味らしいロマンチックな推測をするなら、美術室と化学室は二人にとっての思い出の場所だったのかもしれない。
「すごくびっくりしていたから、知らないと思ってた……」
「え、直接渡したの?」
てっきり、有川の自宅のポストにでも入れたのかと思った。
「だって、家知らないし、そうするしかないじゃない」
「ああ、そうか……でも」
由季は顔を赤くする。
いや、色々やりようはあると思うよ。別にいいけど。
「たぶん、びっくりしたふり、だったんだよ」
「何でそんなことするのよ」
数瞬考える。言っても伝わるだろうか、ということを考えた。彼女に伝わりやすい言葉を考える。
「八つ当たりのつもりだったんだろう」
「私に対して? どうして? 恨まれることは何もしてないよ」
由季は苛立ちと困惑の言葉を僕にぶつける。由季は十分悪意を向けられる位置にいると思うけど、それは今回は置いておくとしよう。
「君というより、周囲に対してかな。由季にはないだろうけど、意味もなく誰でもいいから不幸になれって願うときがあるんだよ」
「ないわね」
「君は正義の人だからね」
皮肉を込めたつもりだったけれど、彼女は「そうね」と真剣な顔で頷いた。僕はちょっと噴き出した。
「ともかく、有川の絶望はこの写真にないんだ」
死ぬ前の有川は明るかった。それはきっと、周りを不幸にするためだ。
目立たない誰かより、日常の中心にいるような人物が死ぬ方が周囲にダメージを与えられる。有川は死ぬ前に、やり返してやりたかったのだと思う。先生のように。
それこそ「復讐」という言葉がしっくりとくる。
自分だけがじっとりとした絶望の中にいると、周りがやけに明るく見える。人の談笑が腹立たしく聞こえる。
自分が死ぬことで、彼らの明るい日常を破壊してやりたい。
普通の人なら、そんな感情で自分の命を捨てたりはしない。
でも、有川は普通の人ではなかった。彼にとって、自分の人生の価値なんて、無に等しかったのだろう。
特に、十七年よりも先の人生は。
「十七年前、有川は生まれたんだ」
「それがどうしたの?」
由季が眉をひそめる。
「そのとき、有川の母親は十七歳だった」
「私たちと同じ年だね」
「そうだね。今、三十四歳だ」
それがどうしたの、と由季はもう一度僕に聞く。
「どうもしないよ。君は有川の自殺の原因を作ったわけではない。それは、十七年も前からあったんだから。ただ、それだけが伝わってくれればいい」
由季の表情がわずかに和らぐ。
「それを私に言いたかったの?」
首を振る。
「聞きたいことがあるって言っただろう」
息を長く吸う。そして、ゆっくりと吐く。何を聞きたいの、と由季が怪訝な顔をする。
もう二度と、由季と話すことはないだろう。関わりを持つこともない。それは、死別と同じだ。
「華音はどこから飛び降りたんだい?」




