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初春⑨

初春⑨


「殺してやりたい」と口にした由季の表情を思い出したのは、昇降口で東野に捕まったときだった。あのとき、彼女は壊れそうな笑みをしていた。ひび割れたガラス細工のようで、少しでも手が触れたら崩れてしまいそうな。

 あの表情をいつも見せてくれるなら、僕は由季を愛おしく思ったかもしれない。東野に奪われたことも、少し惜しく思ったかもしれない。

 周りに他の生徒がいたけれど、お構いなしに僕に詰め寄る。背丈の差もあって、僕が脅されているようにも見えなくもないだろうが、助けてくれるような親切な人はいない。心配そうにこちらを横目に見るのがせいぜいだ。

 知った顔もあった。同級生の集団の中に、山田の姿もある。彼らは僕たちを指差して、「喧嘩かよ」と笑うだけで去っていく。薄情だなんて思わない。見て見ぬふり。それが僕の求める人間関係だから。

「最近、由季がお前のこと気にしている気がするんだよ」

 由季の携帯電話から、僕に対するメールを見たのかもしれない。捉えようによっては、熱烈なアプローチをしているように勘違いさせなくもない。

 事実、由季が僕を気にしているのは本当なのだ。

 僕が華音と有川の関係を知ったとき、彼女に対する感情が特別なものであることに気づいた。

 恋愛感情は分からない。恋愛というものの先に行きつくものが母と先生のしていた『アレ』であって、『アレ』の結果、自分のような人間が生まれるとするなら、僕はそんな感情を持ちたくない。

 キスでもされそうな距離だった。「心当たりがないか」と東野が僕に聞く。尋ねるというより問いただす口調で、「おいおい、情熱的過ぎやしないか」なんて冗談でも言ったらすぐに殴られそうだ。

 東野も殺してやりたいと思っていたのかもしれない。自分の好きな人が笑顔を向ける僕に対して。今はどうなのだろう。彼の中の毒は、僕を殺すほどのものなのだろうか。

「有川と月島さん」

 東野の表情が変わった。怒りから怯えに近い恐れに。けれど、すぐに憤怒のそれに変わる。

「馬鹿にしているのか?」

「していないさ。二人は死んだ。同じように死んだ。それについて調べている」

「あれは事故だ」

「そうかもしれない」

 自殺でなくて、事故でした。

 自殺というものは、どうしようもなく残された人たちに波紋する。「生きている間に何かできたのではないか」とか、「自分があんなことを言ったから死んでしまったのではないか」なんて考えさせる。

『自殺は周囲を不幸にする』なんて言う人もいるけれど、僕はそれを嫌というほど理解している。少なくとも僕は、誰かが自殺して幸せを感じたことはない。

 だから、「事故でした」と結論づけるのは、生きている人にとって都合がいい。負担がない。

「でも、違うかもしれない」

 華音は、その希望を潰した。踏みにじって、唾を吐いた。彼女自身があそこから落ちることによって。

 一人なら事故と誤魔化せるかもしれないけれど、二人ならどうだろう。そこに関連性を感じる人の方が多いはずだ。客観的に考えられる立場であればあるほど、「一人目も本当に事故だったのだろうか」と。

 東野の圧力が弱まったのを感じて、距離を取る。

「知らないだろうけど、僕は有川とそれなりに仲が良かった。月島さんともね。二人が付き合っていることも知っていた」

 知らない事実に、有川が虚を突かれたのを感じる。

「あいつらのこと調べてるのか?」

「そう言っただろう。趣味が悪いって言われたよ、由季……白倉さんに。彼女が僕を気にしているのは、そういうことだと思う。気にしているというか、目障りなんだ。彼女、正義の人だから」

「…………」

 嘘に事実を交ぜると、それっぽくなる。どのみち、東野に真偽を判断するだけの材料はない。

「君も趣味が悪いと思う? 友人について、本当のことを知りたいって思うのは」

 相手を攻撃するとき、弱点ではなく良心だ。「事故だった」と結論づけた東野と、真実を追求しようとする僕。どちらが正しく見えるだろう。

 彼はしばらく黙っていた。唸るように吐き出したのは、「俺は、今後由季に近づくなって言いたかっただけだ」という言葉だけだった。

「分かった」

 頷くと、東野はすんなりと引き下がってくれた。彼の僕を見る目が。仇敵に向けるものから、嫌悪と軽蔑を含むものに変わっていた。

「じゃあ、明日また学校で」

 何事もなかったように、挨拶をしたけれど、彼は無視して校内へと消えていった。

 やれやれ困ったものだ、と周りにアピールするように大げさなため息をつく。

 承諾したけれど、これから由季と会う約束を反故にするわけにもいかないから、「今後」というのはその後ということにしよう。

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