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晩夏⑦

晩夏⑦


父の絵で、僕が一番気に入っていたのは夕日の絵だった。それは、父がいつも描くキャラクターのイラストではなくて、彼が思いついたようにやっていた趣味の水彩画だった。

 ――いい絵が描けたんだ。

 父は絵をどこかに持って行って、売ってしまった。

 絵描きは絵を売ってお金を手に入れる。僕や母はそのお金で、食べるものにありつく。

そのことに僕は首を傾げた。

 もし、父が本当に絵が好きなら、「いい絵」を自分のものにしたいとは思わないのだろうか。売ることなんてせず、自分や妻子が飢えようとも、暗い部屋の隅でこっそりと独りで楽しむ宝物にするのではないだろうか。

 父にそのことを聞くのはどことなく気が引けて、通っていた絵画教室の先生に聞いたことがあった。

 ――先生は、絵が好きですか?

 彼は「好きだよ」と頷いた。普段の先生――つまり、絵を描いているときの彼は「職人」という言葉が相応しい堅固な岩のような男ではあったけれど、子供を前にするときは精一杯の笑顔を僕たちに向けてくれた。

 ――なら、描いた絵を自分だけのものにしたいと思いますか?

 けれど、僕がその問いを投げかけたとき、彼は岩に戻った。

 ――思うよ。手放したくないとね。売るのはどうでもいいだけの絵にしたいと。けれど、筆を持つとそれができない。

 絵を描く度に、彼の言葉を思い出す。誰にも見せてもいい下らない絵を描こうと。

 けれど、筆を手に取り、キャンバスを目の前にすると、不思議な感情が身体から沸き起こる。

 創造主としての感覚だ。自分が全能の力を手にしたような錯覚。できないことはない。無能が掲げたがるような信念を、本気にしてしまう。

 その全能が実現するのは、極々稀であるのだけれど。



 筆を置く。

 劇のポスターが完成した。集中していたらしく、日が落ちていたことに気づかなかった。美術室から見える風景は暗闇の中に沈んでいる。

 美術室に空調はない。虫が入ることを嫌って窓を閉め切っていたから、昼の間に蓄えられた熱気が教室内にこもっていた。額を袖で拭うが、吸水性の悪いワイシャツのせいで、汗が肌の上で伸びただけだった。

 長く息を吐く。

 正直なところ、絵を描くことに楽しみを感じたことはない。僕にとって、半分くらい贖罪を含んでいるからだろうか。

 父も先生も、絵を描いた。僕が絵を描くのは、少しでも彼らを知りたいからかもしれない。

 他人を意識しながら何かをすることは、とても疲れる。「意識」を「理解」にまで高めようとすると、余計に。「取り込む」なんて、さらに余計に。絵を描く度にそれをやってしまう彼女は異常なのだ。

 それでも、完成させた喜びはある。喜びというより、束縛から開放された安堵といった方が正しいかもしれないけれど。

 幸いにも、下らない絵だ。

 完成したらすぐに有川に見せることになっていたが、彼に渡したところで澄ました顔で事務的に「ご苦労様」と言われるだけだろう。

 それは僕としては面白くない。提出を急かされてはいるが、誰かに見せびらかしてからでも、作業の進行に問題はないだろうし。

 それに、今は有川と友好的に話す気分にはなれない。

 ポケットから携帯電話を取り出す。アドレス帳から華音の電話番号を選ぶ。いつもなら、図書室で新聞記事に目を通して、近隣で起きている自殺の記事を探している時間だ。

 僕の携帯電話に登録されている連絡先は数件しかない。同級生の多くは携帯電話にたくさんのアドレスが登録されていることを誇っているけれど、僕は探しにくいから数人でいいと思うのだ。彼らの携帯電話に登録されているほとんどが、どうでもいい相手のものなのだろうし。

 数コールしたところで、後ろでキイイとかん高い叫び声を上げながら、扉が開いた。慌てながらも冷静に通話を切る。

 振り返る。由季の姿があった。

 彼女は僕を見ると、向日葵の花が咲くように笑ったが、室内の熱気を受けて顔をしかめる。

「探してたの」

「何を?」

 由季は僕の質問に答えず、机の上に置かれていた完成したばかりの絵を手にとる。

「千歳が描いたの?」

「うん」

「へえ、いいじゃん」

 いいじゃん。

 声に出さず、口の中で由季の言葉を反芻する。乾いた笑みが顔に浮かぶのを感じた。頬の片側だけが偏って持ち上がる。

 それを上手くいつもの当たり障りないものに塗り替えようと、努力をする。楽しいことを考えよう。楽しいなんて感じたこと、ここしばらくなかったけど。

「ありがとう」

 でも、失敗したらしい。由季の表情が陰る。

「千歳って、私が考えているより、私のこと好きじゃないよね?」

「ん?」

「友達くらいには好きかもしれないけど、恋人としては、女としては、見てないよねってこと」

 首を傾げる。曖昧で薄い笑みを返した。

 誤魔化そうとしたり、馬鹿にしたりするわけではなくて、僕は本当に分からなかった。友達くらい好きということも、恋人というものも。

「もしかしたら、私がこんなちんちくりんだから?」

 だから、立たなかったの、と彼女は言いたかったのだろうか。

「違うよ」

 台風の日、由季の家に逃げ込んだとき、僕の家で起きていたことを、僕はまだ、彼女に伝えていない。伝える日は来るのだろうか。

「私、東野くんから告白されたの」

「うん」

 知っている。

「千歳はどう思う?」

「いいじゃん」と返したら怒るだろうから、それはやめておいた。でも、本当のことを言ったら、もっと怒るだろうから、できるだけ表情を変化させないで黙ることにした。

 由季は苛立ちを感じたらしく、語気を強くする。

「私と東野くんが手を繋いで歩いていたら、どう思う?」

「どうって……そりゃあ、残念に思うさ。悲しい気持ちになる」

「残念? 悲しい? それだけ?」

「それ以上に何があるのさ」

「あるよ。千歳がそれを知らないだけで、あるのよ」

 もし、愛というものが束縛や独占から生み出されるものだとしたら、僕は由季を愛していないのだと思う。

 僕は由季が怒るようなことはしたくないし、彼女を悲しい気持ちにさせたくない。由季が勝手にそうなるのは別として、僕自身がわざわざ彼女を突いて不安定にさせる気はない。

 それくらいには、由季のことが好きだと思う。由季と一緒にいて、魚の小骨が喉を通るときの痛みに似た小さな苛立ちを何度も感じたとしても、彼女の人格や存在を否定しようなんて思ったこともない。

 でも、由季が別の男と仲良さそうにしていても、それが東野だとしても、誰だったとしても、何とも思わない。

 腹の中で黒い獣が爪を立て、牙を剥き出し、暴れ狂うようなあの感情は起こらない。

「私は他の女と千歳が、そうやって一緒にいたら」

 由季は手に持っていたポスターの絵を机に戻す。安心した。今にも彼女は八つ裂きにしてしまいそうだった。

「殺してやりたいって思うの」

 僕は由季に感謝したい気分だった。

 あの夜、有川に感じた猛毒の名前はまさにそれだ。僕はその言葉を探していた。

 殺してやりたい。

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