初春①
初春①
僕は金庫を開けていた。
「金庫」に「閉じた心」を掛けた比喩表現ではなく、ホームセンターで数万円ほどしそうな、なかなか厳重なそれだ。
大家の月島さんから「金庫は開かない」という説明を受けていた。「余程見られたくないものを入れたのね」と彼女は肩をすくめていた。
けれど、僕は難なくそれを開ける。
魔法の類を使ったわけではない。金庫を開けるのに必要なのは、暗証番号と鍵と、開けようとする人だ。
鍵は持っていた。暗証番号は、誕生日だった。
カチッという乾いた音がロックの解除を知らせる。
あとは僕が開けるだけだ。
金庫に入っていたのは、たくさんの紙と一枚のキャンパスだった。金品の類を期待していたわけではないから、落胆はない。
部屋の主が残した絵と、それに関する資料、写真と分類することができた。
絵を画架にかける。
風景画――ではなさそうだ。彼女にしては珍しく、明確な被写体があった。ピエロの人形が地面に横たわっている。無機質な建物。四階の窓際に立つ少女は幼さを感じさせるおかっぱ頭だ。柔らかい秋の日差しがそれらを照らしている。
描きかけなのかもしれない。完成を示す黒猫のサインが見当たらない。
資料や写真は、壁に残っているピンの穴を頼りに並べて行く。
有川宏一の自殺に関する資料だ。彼は十月中旬……つまり、今から三ヶ月ほど前に死んだ。この絵は有川に関するものなのだろう。絵の建物に見覚えがある。すみれ野高校の校舎に似ているが、所々違う。もっと昔の、幼いころの記憶がくすぐられる。
筆や絵の具を並べる。それと、画架に向かうための丸椅子。
カーテンで窓を覆う。強く差していた西日が遮られ、部屋は薄暗くなった。
目を閉じる。
髪の長い少女が、白い手で筆を取り、無機質な瞳でキャンバスに向かう姿が再生された。
月島華音の部屋が復元されたのだ。
*
主を失った部屋は想像していたよりも掃除が行き届いていた。
華音がこの部屋に暮らしていると知ったとき、母親からの拒絶を感じた。大家である彼女の母親――月島さんは管理人室に住んでいる。そこからこの場所は最も遠い位置にあるからだ。
華音が死んでから、月島さんはここに足を運んだのかもしれない。
ほとんどの私物と家具がそのままの形で残っていた。部屋を譲り受ける代わりにそれらの片付けを頼まれたが、「自由していいから」とも言われている。
――私より、あなたの方がずっとあの子のことを知っているでしょう?
何も知りませんよ、と返す。僕は華音について何も知らない。本当に何も。どうして飛び降りたかさえも。
彼女は寂しそうに笑って、「なら、知ってあげて頂戴」と言った。
――誰にも理解されないなんて、寂しいわ。私はあの子のこと理解できないから。
酷い親よね、と月島さんは言う。「そうですね」と僕は返した。
部屋を出る。
間の悪いことに、同じタイミングで隣の部屋の扉が開く。
野暮ったい女性で、年齢が分かりづらいけれど、僕と年が大きく離れているわけでもなさそうだった。
近視なのか、睨みつけるように僕の顔を伺っていた。けれど、丸顔のせいかどこか愛嬌がある。不思議な人だった。
「千歳って名前だって聞いていたから、てっきり女の子だと思っていたんだ。この前見かけて、驚いた」
「誰から僕のことを?」
「華音ちゃん」
彼女は来栖と名乗った。本来美人なのだろうが、目の下の濃い隈と、鼻炎のせいか真っ赤になった鼻が彼女の全てを台無しにしていた。華音から聞いていた「お隣さんの作家さん」とは彼女のことで間違いなさそうだ。
神林千歳と名乗り返す。
「学生?」
「高校生だから、正確には児童です」
「その返し、華音ちゃんにもされた」
来栖さんは僅かに目を細める。眠たそうにも見えたし、目の粘膜の痒みを訴えているようでもあった。
「大家さんとはどういう関係?」
「……どう、とは?」
「この前話しているのを見かけてさ。なんか親しそうだったから」
「親しくはないです。親類みたいなものですよ」
嘘は言っていない。親しくはないが、血は繋がっている。
「なら、華音ちゃんのイトコ?」
そんな感じです、と頷く。
「華音ちゃん、残念だったね。いい子だったのに、たぶん」
「はあ」
ため息のような相槌が自分の口から出た。
「彼女から借りていた本あるんだけど、君に返せばいい?」
「お好きにどうぞ」
「そう。それじゃあ、まだ借りておくね。読み途中なんだ」
鼻を啜りながら彼女は部屋に引っ込んだ。それを聞くためだけに部屋から出てきたらしい。きっと、壁越しに気配を察知して。
少し、壁の薄さに問題があるような気がしないでもない。
僕はここに住むわけではないから、どうでもいいのだけど。華音は気にならなかったのだろうか。
二ヶ月前――十一月のことだ。
彼女も有川と同じように、飛び降りて、死んだ。