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初春⑧

初春⑧


「自分のせいで誰かが死んだって考えたことはありますか?」

「考えたことはあるけれど、そう信じたことはないよ」

 来栖さんは右手でくるくると器用にペンを回す。丸ペンというのだったと記憶している。漫画や劇画を描くのに使われるものだ。文字書きのはずの来栖さんが持っている理由は分からない。

 ギシギシと椅子の背もたれを鳴らしながら、彼女はペンの先を僕に向ける。この部屋の唯一の椅子は彼女が使っているから、僕は得体の知れない紙を座布団代わりに床に座らされていた。

「例えば、このペンを君の首に突き刺して」

「せめてナイフにしてくれませんか。死ぬのに時間かかりそうです」

「使い慣れているものの方が良くない?」

 口を尖らせながら、「ともかく、殺すとするじゃない?」と来栖さんは言う。

「そしたら、君が死んだのは私のせいかもしれない」

「かもしれないじゃなくて、来栖さんのせいですよ」

「そこの状況だけ切り取ればね。でも、私が君に執拗に殺してくれとせがまれていたら、どうなる?」

「法律的には、殺した側の責任ですね」

「法律なんて、意味はないさ」

 来栖さんは、「人は本当に都合がいい。政治家の批判はするくせに、権利とか自由とか、自分に都合いい法律を見つけると急に強気になる。法律を作ったのは政治家なのに」と早口に言う。

「世の中にはうっかり人を殺しても許される人間なんて、いくらでもいる」

 ちょうどブラウン管から、駐車場で子供を轢き殺したタレントが、罰金刑で済んだというニュースが流れていた。

「まあ、何だ。原因を一言に決めるのは難しいってことを、私は言いたいわけだ。法律という基準があればいいけれど、人間の感情は人それぞれだし、その時々だろう? そして、原因を求めるのは基準でなくて人間の方だ」

 来栖さんは回していたペンを机に置く。



 華音の部屋にいたら、来栖さんからノックをされて彼女の部屋にお邪魔することになった。正規のノックのようにドアを叩いたのではなく、壁を叩かれたのだが。

「華音ちゃんの遺作があるなら見たいのだけど」

「ありますよ。でも、部屋に上げるのは無理です」

「じゃあ、うちに来て」

 人の部屋に上がるのにも、もちろん抵抗は感じるが、何かまた話が聞けるかもしれない。そう考えて、彼女の誘いを受けた。

 来栖さんの部屋を一言で表現すると、ゴミ捨て場だった。無数の紙が床を覆っている。書き損じた原稿なのだろう。「木下死ね」という文字がちらほらと見えた。やり取りをしている編集さんだろうか。

 仕事場らしい隅の机と椅子でさえ、粗大ゴミに見えなくもない。それ以外の家具らしいものといったら、床に転がっている電気ケトルと小さな冷蔵庫くらいだ。冷蔵庫の扉には、水道修理のマグネット広告がいくつもべたべたと貼り付けられていて、珍妙なコレクションのようになっている。

「ここで生活しているんですよね」

 人の形をした粗大ゴミに聞く。

 ゴミを見るような目で見ないでよ、と彼女は笑う。相変わらず酷い顔で、捨て猫のような見窄らしさと愛嬌があった。

「絵、持ってきた?」

「カメラで撮りましたよ」

 僕は携帯電話の画面を来栖さんに見せる。

「現物じゃないんだ」

 彼女は拗ねた顔をしながら、僕の携帯電話を覗き見る。

 来栖さんと話すのは喫茶店のとき以来だ。

 あの日、僕は彼女に「一番大事なこと」を話した。無関係で、僕のことを何も知らない誰かに。

 そのことを、まだ、後悔しないで済んでいる。



「で、君のせいで誰が死んだのさ」

「自分の父と、華音の父親。それと、有川宏一という同級生――華音の恋人です」

「ずいぶんと君は罪深い人間なんだね」

 来栖さんはケラケラと愉快そうに笑う。

「その人たちは自殺?」

「はい。華音は――」

 大きく息を吸い込んで、静かに吐いた。

「あなたに自殺のことを話したんですか?」

「私に話したわけではないよ」

 来栖さんはノックをするように、二回壁を叩く。

「話し声が聞こえてしまったものは仕方ない」

「誰か来ていたんですか?」

「来ていたわけじゃない。電話だよ。いつも決まった時間に、誰かと話していた」

 彼氏だろうね、と来栖さんは邪悪な笑みを向ける。

「そうでしょうね」

 有川だろう。

 華音と有川は外での接点が驚くほどなかった。もし、恋人らしいことをしているなら、同じ学校の誰かの目についても不思議ではない。二人は別々の理由で目立つから。

 でも、彼女たちに噂話は立たなかった。きっと、電話以外での接点がなかったからだろう。華音はここの隣の部屋で、有川はあの独房のような部屋で、言葉だけの二人の時間を過ごした。自殺の話をした。

「男女の関係って、何をもってして成り立つんでしょうね」

「ん?」

「もちろん身体の関係もあるでしょうけど、それだけではないですよね? 身体の関係だけで成り立つなら、動物と同じだけど、人間はそれだけじゃ満足できない。外から測れない、感情的な繋がりというものがあって、男と女は男女という単位になるんでしょうか」

 不思議だった――というより、悔しかったのかもしれない。

 僕と由季の間に、身体の関係はなかった。僕たちは離別して、今は何も残っていない。

 けれど、それよりももっとプラトニックな間柄だった華音と有川は、二人とも死んでしまっても、残っているものがあるように思えた。陳腐な言葉を使うなら「絆」とか。

 そういうもの、僕は信じていないけれど。信じていないからこそ、大事にできている人たちを不可思議に、疎ましく、憎らしく思うのだ。

「分からないな。私は宗教を信仰したことがないから」

「恋愛か、もしくは愛情の話をしているんですけど」

「そうだよ。相手が自分のことを好きだって信じる宗教だ。相手が神様から人間になっただけだ」

「そんなことを言ったら、友人や家族も宗教になりますよ」

「全くもってその通りなんだよ」

 何が面白いのか分からないが、来栖さんは楽しげだ。身体を左右に揺らしている。

「愛情っていうのは、一方的なものなんだ。自分が相手のことを愛していても、相手が自分のことを愛しているかなんて、どうやっても確かめられない。愛情の証明は、神様を見つけるのと同じくらい難しい」

 愛情の証明。それは、由季が時折、僕にやっていた「試す」行為とは別物なのだろう。きっと、もっと哲学的で、頭を抱えたくなるような難題なのだ。少なくとも、喫茶店でメニューを選ぶくらいで証明されるものではない。

「自殺について、彼女が話していた内容は覚えてますか?」

「いいや」

 来栖さんは首を振る。

「自殺っていう単語が拾えただけで、内容までは聞こえないよ。私も仕事していたし。仕事部屋なんだよ、ここ」

「分かりますよ。ここに住めるのは、ダニかゴキブリくらいです」

「失敬だな」

 失敬でもない。実際、人間が生活できる環境とはかけ離れている。有川の部屋とは別の意味であまり長居したくない。

 きっとここは、来栖さんの頭の中を具現化したものなのだ。他人の頭の中で生活はできない。

「でも、内容なんてないようなもんだったよ」

 ダジャレじゃなくてね、と彼女は最低な笑みを浮かべる。

「本当に、思いついたことを話しているようだった。脈絡がないというのかな。それこそ雑談だ。当人二人しか分からないようなジョークを聞かされるのは、正直なところ私に対する虐待かと壁に頭を叩きつけたくなる衝動にかられる」

「ご愁傷様です」

 華音も言っていた。「思い出せないくらいどうでもいい話」と。そのどうでもいい話とは、自殺のことだったということしか分かりようがない。知っても仕方ない。

 華音にとって、「自殺」は僕と彼女だけのものではなかったということだ。それだけ分かれば十分だ。

 ――千歳は一番大事なものを閉じこめたがる。

 軽い偏頭痛と共に、彼女の声が頭を過ぎった。

「そういえば、華音ちゃんの飛び降りを目撃した人はいるのかな?」

「いますよ」

「ああ、やっぱり。有川宏一くんのときも?」

「そのときは、華音でした」

 あの絵の少女の人形は華音を表しているのかもしれない。それにしては、髪が短かったけれど。

「その目撃者の子と、華音ちゃんは何か共通点は?」

 華音と由季の共通点――びっくりするほど思い当たるものがない。性別くらいだろうか。

「ないような気がします」

 来栖さんは何かに不満なのか、下唇を噛んで頷く。

「自殺好きの女の子とその彼氏が自殺してしまったのか。何だか、考えてしまうよね」

「何をです」

「本当に自殺なのかなって」

 僕は来栖さんに乾いた笑みを返す。

 華音は有川を自殺させたのではないか――ということは僕も考えた。

 目的は絵だ。僕が託されたあの絵。その題材にするため、有川を絶望させ、自殺させた。

 来栖さんも同じことを考えたらしい。

「華音ちゃんは恋人を自殺に追い込んで、絵の中に閉じこめた」

「詩的ではあるけれど、陳腐です」

 いつか、華音と並んで歩いた日のことを思い出した。

「自殺させたなら、それは他殺ですから」

 それに、あの絵は完成していない。

「それもそうだ。自殺は自殺だ」

「本当にそう思います」

 窓を見るとすっかり日が落ちていた。

 夕日が見られなかったのを、僕は少し残念に思った。

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