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晩夏⑥

晩夏⑥


 ぽつぽつと雨が降り始めた。

 それにつられるように、有川が言葉を漏らす。

「雨の日って休戦らしいぜ」

 湿気で前髪が額に貼りついて不快だった。投げ出していた足を引っ込める。コンビニに備えられた屋根はせいぜいベンチが濡れないくらいの広さしかない。

「何かのことわざ?」

「そうなのか?」

「雨降って地固まるってことわざあるから、そういうものなのかなって」

「ああ、なるほど。もっとロマンチックな意味が込められているのかって期待してたんだけど……。風水がどうとか、パワーがどうとか」

 風水はロマンチックなのだろうか。

「さあね。外に出るのが面倒臭いくらいしか思いつかない」

 長く息を吐く。どうしようもなく、吐き気がした。

「そういえば、学園祭のポスター、進行はどうだよ」

「順調なんじゃないか。イメージが最初から固まっていたから、やりやすいよ」

「東野がさっさと仕上げさせろってうるさいんだ。集客のためにホームページを立ち上げる、それにポスターが必要だって」

「集客もなにも、学園祭に来る人なんて限られているんだから、そんな張り切る必要はなくないか?」

「頑張ったところで、あるのは自己満足だけだしな。でも、女子が乗り気だから、面倒臭い。最近流行ってるみたいでさ、個人のホームページ」

 見栄半分、あんたへの嫌がらせ半分だと思うけど、と有川はため息をつく。

「神林と彼女の由季ちゃんって仲良いの?」

「何でさ」

「東野から、『いけるかな』って聞かれたんだ。分からねえと返したけど、個人的にあんたが女と仲良くしている姿、上手く想像できなくて」

 東野の僕に対する当たりが強い理由は、何となく想像がついていたから、驚きはなかった。由季の方か、と思った程度だ。彼がどうしようと、由季がどんな返事をしようと、僕には関係のないことだ。

 それよりも気になることがあって、どうでも良かった。

「僕も、君が女の子といちゃいちゃしているところは想像できないね」

「いちゃいちゃは無理だな。話すのとヤるのくらいなら、どうにでもなるけど」

 有川は眉間にしわを寄せて難しい顔をする。

「君はセックスが嫌いなのに、ヤることができるのはどうして?」

 有川は唇の端から乾いた笑いを漏らす。

「アレを穴に入れるだけだろう」

「性欲がなくても立つもんなのか?」

「性欲はあるよ。セックスっていう行為に対して、愛情だとかそういうものを求めるのが嫌いなだけだ」

 有川の方が強い。人型の動物として。そう思った。

 僕はそこまで割り切れなかった。ベッドの上で、仰向けになって寝て股を開く由季を前にして、吐き気を堪えるのに精一杯だった。

「それなら、有川にとって、性欲は暴力みたいなものなんだな」

「そうだな。あれは人間が持つと毒にしかならない」

「そうかもね」

 想像したのは巨大な蜂だ。裸の女に、巨大な蜂が覆いかぶさって、毒針を突き刺す。女の顔は、あのときの母だった。

「そういえば、この前の手紙の女の子、結局のところどうなった?」

「手紙?」

 有川は顎に拳を当てて、「ああ、あの女か」と頷く。

「どうもなにも、何もないよ」

「何もない」

「そう、何もない。数回ヤっただけで、相手のこと好きになるっていうのは、俺には分からねえ」

 有川が両足を投げ出すように広げる。彼のボロボロのスニーカーが雨に晒されていたが、気にする素振りはない。

 けれど、僕は気になった。彼の性に対する投げやりな気持ちが、彼女にも向いているのかどうなのか、気になって仕方がなかった。

「君は女の子を好きになることがあるの?」

 有川は少しの間、口を閉ざした。「あるよ」と拾った小石を指で弾くように言葉を吐き出す。

「どんな?」

「性欲のない女がいい。ついでに、身体がない方がいい。SF漫画みたいに、大きなフラスコの中で、培養液に脳だけが浮かんでいる存在あるだろ。そういうのが理想だ」

 僕は苦笑いを浮かべたと思う。「なかなか特殊な性癖だね」と当たり障りないコメントをしておいた。要するに、彼が求めている愛欲というものがプラトニックなものであるなら、この男は純情そのものだ。

 それと、安堵したのだ。彼女がまだ奪われたのではないと。

「あんたはどういう女が好みなんだ?」

「僕?」

 思い浮かべた女の子は、由季ではなかった。

「趣味が合う女の子かな」

会話が途切れる。携帯電話のディスプレを見ると、もうずいぶんと夜が更けていた。有川に帰ることを告げて、立ち上がる。

「じゃあな」

「うん」

 歩きながら考える。

 性欲が猛毒というのは、なるほど、そうかもしれない。

 でも、毒なのは性欲に限った話ではない。人間の感情は全て毒になりえるのだと思う。

 愛情や敬意も、肥大すればただの暴力だ。自分や相手を傷つける毒だ。それも致死性の。

 もしかすると、父や先生はその毒にやられてしまったのかもしれない。自分の中にあった毒袋が何かの拍子で破裂して、死んでしまったのだ。

 僕にも、その毒袋はあるのだろう。

 その毒で、誰かを死なせてしまったこともあるのかもしれない。

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