初春⑤
初春⑤
目を覚ますと、雨は止んでいた。
布団から這うようにして出る。睡眠導入剤の副作用で喉が酷く渇いていた。
ここ最近、眠れない日が続いている。
死霊のように廊下を歩き、台所へと辿り着く。コップ三杯の水を飲んで、ようやく渇きは治まった。それと同時に、軽い吐き気を覚える。
洗面台で顔を洗う。鏡を見ると酷い顔をしていた。これから人に会うというのに、こういうとき男は不便だ。化粧で誤魔化すことができない。
父の顔に似てきたな、と自分で思う。これから鏡を見る度に父のことを思い出すことになるのかもしれない。僕が見殺しにした男のことを。
しばらく、僕はどうして、父が母を責めるのか理解できなかった。けれど、成長して性についての知識がつくと、今度は自分の女を奪われた父が情けなくて仕方なかった。
――私、本当は女の子が良かったの。ちょうどいいわ。あの人の子供、女の子だし。
あのとき、そんなことを言われて、何も言い返さなかった父を恨めしく思うようになった。
でも、本来、僕が父を理解しなければならなかったのだと思う。女を奪われた情けない男の息子として。
けれど、僕はそれを放棄した。情けない父を受け入れることで、自分までそうなることが嫌だったから。
父は孤独だったと思う。最期まで。死んでからも。
自殺者が死んだ場所で幽霊となって現れるという話があるけれど、僕はそれをあながち的外れな考えではないと思っている。
魂というものがあるとすれば、自殺者のそれは、墓や仏壇の前には現れないと僕は信じている。彼らは、死んだ場所にあり続ける。
そこから見る風景が少しでも美しいものであればいいと、華音の絵を見る度に願ってしまう。
自殺する直前に見る風景なんて最低に決まっているのに。
だから、僕の願いは奇跡を望むのに等しいのだと思う。
手早く寝癖を直して、身支度を済ませる。
窓から外を見ると、よく晴れていた。空は憂鬱になるくらい透き通った青い色で、今日も冷たい風が吹いているのだろうと考えると、外に向かおうとする足が重たい。
祖父母は外出中らしい。「夕飯までに帰る」という書き置きを残して、外に出た。行き先は「友達の家」と書いた。
何かの言い訳をするとき、『友達』という単語を使う。子供を保護する立場の人に安心感を与えられるだろうという浅ましい狙いがあるのだけれども、意外と効果はあるらしく、祖父母は僕のことを明朗な男児と信じているようだ。
友達。僕にそれらしい間柄の人間はずいぶん前からいない。
小学生のころにはいたような記憶がある。母親に「友達と遊んでくる」と玄関から居間に向かって叫んだ。
けれど、記憶の時系列が現在に近づくにつれて、『友達』という存在が薄れていくように思える。
人の好意や厚意に疑心を抱くようになって、純粋な感情、単純な思考に対して失望のような嫌悪感を抱くようになった。
それはいつごろからだろう。
両親の離婚や、父の自殺。
それらが僕の人格形成に大きく影響を与えているわけではない。
そのはずだ。




