晩夏⑤
晩夏⑤
鍵を閉めた。
部屋はダブルサイズのベッドがあるだけの簡素な内装だった。
「普通ね」
「まあね」
全面を鏡で覆われた部屋とか、拷問具を模したジョークグッズが備えられたホテルもあるにはあるが、ここは普通のホテルとほとんど変わらない。
アメニティグッズと一緒に避妊具が備えられていた。華音がそれを手に取り、バッグに入れる。
「記念」
大きいベッドに大の字になってみたり、テレビをつけてかがわしいビデオを見たり、一通りホテル気分を満喫したのち、僕たちは女子学生の自殺のことを思い出した。
「彼女はお風呂で手首を切ったの」
ソックスを脱ぎながら、華音は言う。ソックスの色よりも、スカートから伸びる素足の方が白いことに、ちょっとした感動を覚えた。
彼女に倣って、僕も靴下を脱ぐ。
バスルームはベッドルームより広かった。本来、「身体を洗う場所」であるはずの部分が必要以上にスペースを設けられているように思えるのがこの手のホテルらしさだ。
当たり前だが、血痕などは残っていない。
華音は蛇口をひねり、湯船にお湯を溜める。しばらく、その様子をじっと見ていた。
半分ほどお湯が溜まったところで、着衣のまま湯船に入った。
「……何をしているのさ」
「彼女はこうしたと思うの。手首の傷が固まらないようにお湯につけて。裸を見られるのは嫌だから、服を着ていたと思う」
ワイシャツがお湯で塗れて、肌が透けて見ていた。ブレザーを着ているから下着は見えない。
「着替えは?」
「ジャージがあるわ。あとでバッグごと持ってきて」
「下着の換えは?」
「…………」
しばらく彼女を眺めていた。
華音は特別な演技をしていたわけではない。でも、彼女の言うように、自殺した女子大生はこうやって死んでいったのかもしれないと思わせた。
華音の手首に傷はない。けれど、今にも白い肌に一本の赤い線が現れて、そこから血があふれ出てくる……そんな幻覚を見てしまいそうだ。
自殺者の感情を想像することは、僕もする。けれど、あくまで客観的に考えるだけで、自分と自殺者の影を重ねるようなことはしない。
華音は自分に投影する。いや、自殺者を自分に投影させるのだ。彼女は自殺者を演じる。そこから得たものを、主観的な世界として描き表す。
僕と華音の違いは、そういう視点であるように思えた。
外にいるから気が済んだら呼んでくれ、と伝えると、彼女は小さく頷いた。
まだ生きている、と妙な安心感を覚えた。
華音はいつか死ぬ。いや、人間は誰しもいつか死ぬものだ。でも、華音はその「いつか」を近い時期として感じさせる。
探しているのだろう。自殺をするに相応しい場所を。そんな気がするのだ。
ベッドで横になる。すると、急速に眠気が襲ってきた。
昨日の夜、有川と遅くまで話していたからかもしれない。寝不足だった。
目を閉じる。
湯船はもう満たされているはずなのに、水の流れる音はまだ続いていた。
気がつくと、夢を見ていた。
母に覆いかぶさる男の背中の映像が、目の前に広がっている。
こんな夢を見るのは、水が地面に落ち、破裂する音を聞きながら眠ったせいだ。
男の背中は広く大きく、大地のようだった。いつも見ている小柄な父の背中とは比べものにならないほど。それが躍動する度に、母の悲鳴が上がる。
悲鳴。幼い僕は、悲鳴と嬌声の違いが分からなかった。
でも、今なら分かる。
大きな背中が僕は怖くて、音を立てずに玄関から外に出た。
雨が降っていたから、由季の家に行ったのだと思う。そこで温かいミルクを飲んで、彼女と話した。何ごともないように振る舞った。由季の向日葵のような笑顔と、台所から聞こえてくる食器同士がぶつかる音、水が流れる音を、心の中で憎悪した。
日が暮れて、恐る恐る家に帰ると、母が僕を笑顔で出迎えた。
――お帰りなさい。由季ちゃんのところにお邪魔したの?
その日のことを、僕はしばらくしてから、父におぼろげな言葉で話した。
風呂場でのことだ。
背中を流す父に、僕は湯船から言った。
――お父さんの背中って小さいんだね。
彼は不思議そうに首を傾げて、「鍛えた方がいいかな?」と笑う。そして、僕の顔を見て、笑顔を引きつらせた。
それがきっかけになったかは分からない。ただ、しばらくして、あの日のことが父に知れた。
父は自分の女を別の男に奪われた。何らかの法的手段に打って出れば良かったはずなのだが、父は「仕様がないね」といって弱々しく笑うだけだった。背を向けて、僕に「もう寝なさい」と言って、母が出て行ったことの説明を終えた。
その日以来、父の背中が余計に小さく見えるようになった。
もちろん、子供だった僕に離婚協定や慰謝料なんていう難しいことは分からなかったけれど、彼が酷く情けなく見えたのは確かだ。
考えてみると、彼の背中を見る機会が多かった。父は自室で絵の仕事をする。父の部屋の扉を開けると、まず目に入ってくるのが彼の背中だった。ゆっくりとした緩慢な動作で振り返り、「千歳、どうしたんだ?」と彼は優しく微笑む。
その背中が、酷く貧相に見えた途端、彼が浮かべる笑みも、描かれた絵も、僕自身も、何もかも惨めで情けないものに思えてしまった。
華音に「雨が好きだ」と言ったことがあったけれど、あれの半分は嘘だ。
本当のところ、雨が嫌いだった。
雨が降る度に、胸の奥を酸で焼かれるようにじくじくと痛む。




