初春④
初春④
トン、と肩に手を乗せられた。
振り返ると見知った顔があった。
「今一人?」
僕の返事を待たず、来栖さんは向かい側の席にすとんと落ちるように座る。そのとき、テーブルの上のファイルを一瞥した。鞄の中にしまっておけば良かったと後悔した。まさか、知り合いに会うとは思っていなかったから。
「知ってる? ここの店のワッフル、すごく美味しいんだ」
来栖さんはメニューを僕の方に向けながら言う。外に出るにあたって、身なりに気を使うという感覚は多少あるらしい。シャワーを浴びて薄化粧をしたらしく、いくらかまともに見えた。シャワーを浴びたのだとすぐ分かるくらいに、髪が湿っていたけれど。
「お腹は?」
「入れれば入るくらいですかね」
「なら入れちゃおう、奢るから。その代わり、私の暇潰しに少し付き合って」
「まあ、いいですけど……」
強がってみたけれど、実は朝から口にしたのは一杯のコーヒーだけだった。来栖さんが指を差したメニューのワッフルは果物とホイップがたくさん乗っていて、僕好みのデザートだ。
「じゃあ、これとカフェモカでいいのかな?」
「……何で僕の好み知っているんですか?」
「何でだと思う?」
「華音から聞いたんですね」
失望が顔に出ないように努める。僕は華音のことを誰にも話したことがなかったのに、彼女はそうではなかったのだ。
来栖さんが店員を呼んで注文を伝える。
「君と華音ちゃんって恋人関係だったのかな?」
「違いますよ」
「あれ」
来栖さんは当てが外れた顔をした。
「違ったのか。てっきりそうだと思っていた。彼女から、何かあったら君のことよろしくって言われたから」
本当にそうなのかと疑う気持ちと、そうであったら嬉しいことだと信じたい気持ちがあった。どちらも悟られたくないから、「それはどうも」と表情を変えずに流す。
「華音には別に恋人がいました」
「ああ、なるほどね」
「来栖さんは華音について調べているんですか?」
「調べてるってほどでもないけど、気にはしている」
「作品のネタにしようとか?」
「もしそうだったら勤勉に聞こえる?」
首を振る。
店員がやってきて、僕たちのテーブルにワッフルの乗った大きな皿を並べる。
「人間が起こす行動の大半は欲求から生じている」
耳を傾けながら、ナイフでワッフルを切り分ける。
「僕がワッフルを食べるのは食欲ですね」
「性欲でワッフルを食べられても困るけどね」
来栖さんは喉の奥を鳴らすようにして笑う。
「私が華音ちゃんについて知りたいのは好奇心だよ。それと、私は彼女の絵のファンなんだ」
「そうだったんですか。華音の絵はどこで?」
「絵画展があっただろう? 月島さんが教えてくれたんだ」
切り分けたワッフルにホイップクリームとフルーツを乗せて、口に運ぶ。焼き立ての生地にホイップがほどよく染みている。甘過ぎず、少し苦めのカフェモカとの相性はいい。
「美味しいです」
「でしょう? 原稿が描き上がるといつもここに来るんだ」
生き返る、と大げさに両方の頬に掌を当てる来栖さんに苦笑いを返す。少女っぽい仕草は彼女に似合わない。
「死人について調べること、不謹慎って思わないんですか?」
「私は調べることも思い出されることもなく、忘れ去られてしまう方が可哀想だって思うね」
「感情論は、あまり好きではないです」
「そうかな。人間、イコール、欲求。つまり、感情だ。何ごとも感情だよ」
華音にも感情はあったのだろうか。なかったということはないのだろう。ただ、恐ろしく希薄なものだったと思う。彼女の欲求のほとんどが自殺に向けられていたからかもしれない。
「君は華音ちゃんの事故について調べてるの?」
何故知っているのだろう、と思ったが、月島さんと僕が話しているのを聞いていたのだった。
「調べていますよ。事故ではなく、自殺ですけれど」
ああ、やっぱり、と来栖さんは頷く。
「どうして君は華音ちゃんの自殺を調べているんだい?」
「どうしてって……」
その問いに対する答えを用意していなかった自分に驚いた。聞かれることはないと思っていたし、聞かれたとしても何も答えないつもりでいたからだ。
例外は、華音と有川だけだった。二人は僕と同じような人間だと思っていて、他言しないだろうという予測――いや、期待があったからだ。
けれど、その二人は事実として、僕のことを他の人に話していた。契約を交わしていたわけではないから、話されることに裏切りを感じることはないけれど、虚しさはある。
その虚しさの積み重ねが、「大事なこと」を僕に口にする気にさせているのかもしれない。
それに、二人は死んでしまっている。
もういいでしょう、と誰かが僕に言った。酷く抑揚のない女性の声だ。
そうだね、と返す。もう、大事なものは全て、失ってしまったのだから。
「自殺を調べる趣味があるんです」
それは独白に近かったかもしれない。異様に心臓の鼓動がうるさく、それでいて頭は静かだった。
有川が家族のことを僕に話したとき、もしかするとこんな気持ちだったのかもしれない。僕の何かが、有川の閉じた金庫の鍵となって、彼の口から言葉を吐き出させた。
今になって、有川と向き合う時間をもっと持つべきだった、持ちたかったと後悔する。僕と有川が真正面から向き合ったのは、結局、あの電話のほんの数秒だ。
「変わってるね」
「そうなんですかね。少なくとも、もう一人身近に同じ趣味の人がいましたけど」
「華音ちゃん?」
「はい。彼女は」
迷いは一瞬で融解した。
「自殺の絵を描いていました。自殺者が最期に見た風景を描いていました」
来栖さんは感嘆の声を漏らした。
「なら、私が見た絵も自殺の絵だったのかな?」
「ここ数年の間に描いたものなら、そうだと思います」
「夕日の絵だ。それと、お風呂かな? その絵を見た。日常を切り取った絵だと思ったけど……ああ、あの赤いお湯は血だったのか。あまりに澄んでいたから、入浴剤かと思った。薔薇の花もあったし……」
全く分からなかったよ、と来栖さんは何度も頷く。
「ただの綺麗な絵にしか見えなかった。どこか寂しい感じはしたけれど。いや、遠いというのかな」
来栖さんはそう感じたのか、と意外さを感じた。僕はあの絵を見て、どこまでも澄んだ気持ちになった。
考えてみると、華音の絵について、彼女以外の誰かと言葉を交わしたのは初めてだった。
「君はその趣味で、華音ちゃんを調べているわけか」
「そうです」と答えても来栖さんの納得を得られたかもしれない。でも、僕が納得できなかった。
「違います、たぶん」
「たぶん、違うのか」
「もちろん、自殺を調べるのは趣味です。でも、全てを調べるわけではない。自殺は多いですから、興味を持ったものだけ、調べて、記録して、ファイルする」
「君が華音ちゃんの自殺を調べているのは、好奇心ではないんだね」
「興味というより、強迫です。調べないと、知らないと、押し潰される気がするんです」
「それは、どうして?」
来栖さんの声は酷く平坦で、機械的だった。感動もなく、同情もない。
彼女が相手で良かったと、少し思った。どうでもいい相手だから口にできる。
頭の中に思い浮かべたのは黒い壁だった。
ポケットに入れるには少しばかり大きい罪を告げるために、僕は目を閉じた。




