晩夏④
晩夏④
信号待ちをしている間、華音はガードレールに立てかけるように置かれた花を見下ろしていた。
そこで死んだ人のことを考えているのかもしれない。
僕が考えるのは、「どう生きて、どういう最期を迎えたか」ということだ。
でも、彼女が考えることは違う。
その人が最期に見た風景。そのときに湧き出た感情。
ただ、その一瞬。
交差点の名前を手帳に記録する。便利な世の中になったもので、インターネットで検索をすれば、ある程度の情報が得られる。少なくとも、事故か自殺かくらいは。
冷たい雨が降っていた。二週間前の八月には暑さに苦しんでいたというのに、嘘のように過ごしやすい気温になったものだ。もう少し湿気がなくなると、なお良いのだけど。
「こういう日に死ねたら幸せかもしれない」
「雨が好きなの?」
華音の声はか細くて、風と一緒に流れていってしまいそうだった。
「まあね」
「曇りが好きなのかと思った」
「雨音が好きなんだ」
「落ち着くから?」
頷く。
「動物的な本能だと思う。理由を考えてみたのだけれど、雨の日って外に出るのが億劫だろう?」
「濡れるし、傘が必要だものね」
「きっと人間以外の動物もそうなんだ。雨の日は、外に出る気にならない。洞穴か、木の葉の下で休んでいたい。雷が鳴っていたら、なおさらね」
「だから、敵に襲われる心配もないってこと?」
「そう。雨は休戦協定の狼煙なんだ」
「もしそうなら、毎日雨でいいのに……」
僕は小さく笑い声を上げる。
「それはそれで面倒臭いし、有り難みがない気がする」
「千歳、我が儘よね」
「こだわりが強いんだ」
肩をすくめる。
華音から「付き合って欲しいところがあるの」というメールを受けて、僕たちは駅前の喫茶店で待ち合わせた。チェーン展開されているリーズナブルが売りの店だ。コーヒーの値段が百九十円でも、ノスタルジックな音楽が店内に流れていなくとも、「コーヒーを飲む」ということに変わりはない、というのが僕と華音の共通の認識だ。
適当に雑談をしてから、店を出ようとすると雨に降られた。秋雨前線が発達しているらしく、ここのところ天気が不安定だという気象アナウンサーの声が脳内で再生される。
僕は傘を持っていた。けれど、彼女は持っていない。会計を済ませてしまったし、店に戻ってもう一杯コーヒーを飲む金銭的余裕は、高校生の僕たちにない。
以上の方程式から導き出された解は、「相合い傘」だった。
幸いなことに、僕が持ってきた傘は、祖母が買ってきた機能性重視の面積が広いもので、二人入るには十分なものだった。けれど、華音が髪を濡らすのを嫌ってこちらに身体を寄せるものだから、ほとんど腕を組むような形で歩いている。
誰宛てでもない弁明をすると、僕と華音は交際の関係にあるわけではないし、今後その予定もない。
そもそも、僕たちはお互い許せない過去があって、本来であれば並んで歩ける関係にない。
けれど、僕たちは同じ目的を持っている。それに、「雨だから」という休戦条件も揃っている。なら、同じ傘を共有するくらい、許されてもいいはずだ。
それに、一つの傘を奪い合って相手を雨に濡れたアスファルトに叩きつけるほど、嫌い合っているというわけでもないから。
ホテル街に来た。
「ファッションホテル」や「レジャーホテル」など呼称は色々あるけれど、カップルがセックスを目的として利用する施設が集まる場所だ。
「同級生に見つかったら大変ね」
いつも通りの仏頂面だったけれど、華音の声は童謡を歌うかのように軽やかだった。
「みんな学園祭の準備で忙しいだろう」
「暇してる人の方が多いとおもうけど」
「どうして?」
僕は締め切りさえ守ればいいからかなり自由だけど、クラスメイトには閉校時間ぎりぎりまで残って作業をしている人もいる。
「蟻や蜜蜂って忙しそうなイメージあるじゃない?」
「あるね」
「でも、本当のところ、九割は仕事をしていないで何をすべきか分からずにウロウロとしているだけなの」
「つまり?」
「人が動いていると忙しそうに見えるけど、実際働いている人はごくごく一部ってことよ」
華音が指を差す。
その先に、青い建物があった。
「一ヶ月ほど前、女子大生がそこで自殺したの」
もちろん、僕はそれを記録してファイリングしてある。
「次の絵の題材にするのか?」
「収穫があったら、そうするわ」
すでに日が傾いていた。
ホテルの中に入る。
幸い、女子学生が自殺したという部屋には「空室」が表示されていた。
「人が死んだ部屋を当たり前のように貸すんだね」
当たり前じゃない、と華音が呆れた顔をする。
「この世に人が死ななかったところがあるとするなら、人類未到達の場所よ」
それもそうだ。
以前、同級生の連絡網の住所を見て、自殺、殺人や孤独死が過去に起こったか、つまり事故物件であるかを調べたことがある。インターネットに、新聞記事や投稿によるデータをまとめたサイトがあるのだ。
今、生きている人たちのすぐ側で人が死んでいるのは、意外でもない。それを意識するかしないかの問題であって、僕と華音は意識する側の人間だ。
無人のカウンターで部屋の内装が表示されたパネルを操作して、「休憩三時間」を選択する。前金を払うと、機械から鍵が吐き出された。「自動販売機みたい」と華音が呟いた。
「こういうホテルってだいたい無人なのかしらね」
「普通のホテルみたいに、受付嬢やホテルマンがいるところもあるよ」
「へえ……千歳はこういうところに来たことがあるの?」
「まあね」
「あらら、少し意外。誰と?」
「恋人」
「ふぅん。何をしたの?」
彼女は小さく微笑んだように見えた。
「……こういうホテルですることと言ったら決まっているだろう」
からかわれていたのかもしれない。
そういえば、華音は人のことを「さん」や「くん」を付けて呼ぶけれど、僕のことは下の名前を呼び捨てだ。『神林』という名前に抵抗があるからかもしれないが、正確な理由は知らない。聞いても、答えてくれないような気がした。
部屋は九階だ。エレベーターに乗る。
エレベーターに乗ると、防犯カメラの位置を確認する癖がある。防犯の名目があったとしても、誰かに自分を見られているのは気分のいいものではない。
どちらがいいだろう、と自問する。
自分を、その他多数の人間と同じと思われるか、それとも、その他多数より動物として劣っていると思われるか。
華音を横目に見る。彼女は無機質な目で、階数を示す数字が変化するのを眺めていた。
「何もなかったんだ」
自然と言葉が出た。不思議なもので、華音と一緒にいると口が軽くなる。有川とは別の理由で。
例えば、ここで僕が華音の頬を拳で殴ったとしても、彼女はその暴力を受け入れるだろう。華音はどんなことも、その無機質な目と温かみのない表情で受け入れてくれるような、不思議な母性があった。
きっと華音はこう思っている。いつ死んでもいい。だから、彼女は誰に対しても無関心という優しさを向けられる。
「何も?」
華音が首を傾げる。
「何をしたかと聞いただろう? 何もなかったんだよ。恋人とホテルに来ても、何もなかった」
そう、と彼女は呟いた。




