暴力
食人表現があります。
苦手な方はご注意下さい。
夜空が赤く燃えていた。
紅蓮の炎がまるで赤い絨毯のように大地を覆い、天を焦がさん勢いで燃え盛っている。
散乱するのは焼け落ちた家々。悪臭を放つ家畜の死骸。人の亡骸。
そして、そのどちらでもない、異形の肉塊であった。
炎に焼かれ、身体の殆どが炭になって崩れ落ちていくなかで、ソレは身の毛がよだつ悍ましい呻き声をあげながら、辛うじて形を残した剥き出しの眼球を動かした。
人の拳大はあろうその眼球が映し出したのは、炎に照らされながら佇む美しい少女の姿。
あどけなさの中に妖しさを宿したその顔立ちに感情は一切なく、少女は目の前で焼け死んでいくソレらを硝子玉のような瞳で眺めながら、手にした凶器を振り上げる。
月夜に掲げられたのは、少女の身の丈を超える巨大な銀の戦斧であった。
轟音。
叩き切るでもなく、打ち砕くでもなく、少女の細腕で振り下ろされた戦斧は、燃え盛る異形の肉塊をその肉の一片すら残さずに爆散せしめた。
舞い上がる血煙が、少女の戦斧へと吸い込まれていく。
それはまるで、乾いた大地が水を吸い上げるように。その刃は血を、肉を、魂を貪る。
――もう、終わったのね
少女の背後から声がかかる。
美しい金髪を伸ばし、腰に長剣を帯びた肌の白い少女であった。
その少女は悲痛な表情を浮かべ胸で手を組み、祈るように戦斧の少女を見つめていた。
戦斧の少女は応えない。ただ無言で振り返り、まるでその少女など眼中にないかのように呆気なくその横を通り過ぎていく。
――ごめんなさい
歯を食いしばり、俯きながら少女が漏らしたのは、懺悔の言葉であった。
――ほんとうに、ごめんなさい
家屋が焼け落ち、紅蓮の炎が天を焼く。
炎が爆ぜる音の中に、少女の慟哭が響いた――
――爛々と輝く月に照らされながら、辺境伯邸の前で二人の男が話し込んでいる。
この二人は屋敷に誰も立ち入らないよう、門前での見張りを命じられたならず者たちであり、レイリアたちが正面からではなく、隠し通路を利用して屋敷内に直接乗り込んだことで、その襲撃から逃れることが出来た数少ない人間であった。
今の今までくだらない雑談を交わしていた二人であったが、今は揃って眉をひそめ、少しばかり神妙な表情を浮かべている。
原因は、先ほど屋敷の方から響いた大きな物音であった。
まるで何かが打ち倒したような、雷でも落ちたような音に二人はぎょっとして、何事かと訝しんだ。
「屋敷の方で何かあったのか?」
「お前、ちょっと屋敷に行って見て来いよ」
幸いこの屋敷は街の外れに建てられているので、街の者が屋敷の異変に気付いた様子は無い。
だが下手に騒ぎ続けて感づかれたら厄介だと、男は相棒の肩を小突いた。
「おいおい俺が行くのかよ……ったく、また酒でも奢れよ」
「わかったわかった、また一杯奢るから、さっさと行けって」
溜息を吐き、小突かれた男がやれやれと門を開こうとした、その瞬間だった。
門の向こうに見える屋敷の正面、その二階部分が轟音と共に弾け飛んだのである。
突然の出来事に二人は飛び上がり、反射的に屋敷の方へと目を向けた。
そして視界に映ったのは、降り注ぐ無数の木片や瓦礫、そして飛来する巨大な影。それはまるで流星の如く一直線に門へと激突し、今まさにそれを押し開こうとしていた男もろともに木っ端微塵に吹き飛ばした。
あっという声すら上げる間もなく、扉に手をかけていた男は一瞬で物言わぬ肉片へと変わり、その凄惨な光景にもう片方の男は呆けたようにその場に立ち尽くすばかりであった。
「オノレェ、人形ごときガァ……!」
やがて、立ち昇る土煙の中から悍ましい声が響くと、そこでようやく男ははっとして腰に帯びた剣を引き抜き、震える手を押さえつけながら声の方へと向ける。
そして、切っ先の向こうから現れたソレを見るや否や、男はその場に尻もちをつきそうになった。
人ではない。
牛や馬ほどはある巨体は皮が爛れ、魚が腐ったような強烈な悪臭を放っている。
まるで巨大な蝦蟇のようなこの化け物こそが男を雇い、辺境伯暗殺を目論んだギルバートの変わり果てた姿であった。
男も人間であった頃のギルバートとは面識があるが、まさかこのような化け物があの紳士風の男だとは気づこう筈もない。
そして化け物――変貌したギルバートの頭部にある、人の頭ほどの大きな目玉がぎょろぎょろと動き、男の方を向いてぴたりと止まった。
「ひぃ、ば、化け物!」
男はその瞬間、全身の毛が逆立つような寒気に身を震わせ、悲鳴をあげた。
だが、ギルバートの意識が男に向いたのはほんの一瞬。次の瞬間には化け物はその二つの大きな目玉を屋敷の方へと向け、まるで何かを警戒するように身を起こしていた。
直後、屋敷の二階にあけられた大穴、先程化け物が飛び出してきたそこから、小さな人影が一つ飛び出してくる。褐色の肌は闇に溶け、しかしその美しい銀の髪を翼のように広げながら夜空を飛ぶ少女、レイリアの姿に男は目を奪われた。手にした銀の戦斧も相まって、まるで天上から舞い降りた戦乙女のようである。
だが、それこそが命取りであったと、男はすぐ後悔することになる。
横からぬっと伸ばされた巨大な腕が、男の胴を掴み上げたのだ。
「ひぃ、ひぃぃ!」
男は情けない悲鳴をあげ、ギルバートの腕に剣を振り下ろす。
しかし剣を何度打ち付けようとも強靭な表皮を切り裂く事は叶わず、やがてギルバートは男を頭上高く掲げると、粘着質な音と共にその大きな顎を広げた。蝦蟇に似た口には、鋸のような不揃いな鋭い牙が所狭しと並んでいる。
眼下に広がった奈落の穴に自身の末路を察し、とうとう失禁までした男は顔を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしながら言葉にならない悲鳴をあげた。
みちり、と肉を引き千切る音。
まずは男の上半身が化け物の腹に収まった。
ぐちぐち、ごりごりという寒気を催す咀嚼音のあと、化け物は腸がぶら下がった男の下半身もその口内に放り込み、ぶるりと一度身震いをする。
そうして化け物は男をすっかり喰らい尽くすと、傍でそれを眺めていたレイリアにぎょろりとその目玉を向けた。
退屈を誤魔化そうともせずレイリアは欠伸をすると、杖代わりにしていた戦斧を担いでぐっと伸びをした。
「餌の時間は終わりか? ったく、手当たり次第に食い散らかしやがって。飢えた野犬の方がまだいくらか行儀がいいぜ」
「ググ……私は、ヒトヲ、超えタのダァ……!」
腐臭と共に化け物の口元から汚泥が漏れる。
どういうわけか、化け物の身体は先程よりも一回りは大きく膨れ上がっていた。
巨大な目玉は白濁し、背には新たに魚類のような背びれが並んでいる。
増えすぎた体重を支える為に両手足を地面につき、左右に裂けた口の隙間からだらりと鞭のような舌を垂らしたその姿は、正しく蛙のようであった。
「もう意識もはっきりしてねぇだろ。楽にしてやるよ」
じゃらりと鎖を鳴らし、レイリアがゆっくりと戦斧を構える。
一瞬の硬直。
直後、レイリアの姿がかき消えたかと思えば、先程まで彼女が立っていた場所を化け物の舌先が強かに打ち据えていた。
円形に窪み、轟音を響かせる一撃を躱し、レイリアが現れたのは化け物の懐。その顎先。
戦斧がうねりをあげる。
嵐のような風切り音を伴って放たれた一撃は化け物の腹を横一文字に切り裂き、その切り口から夥しい量のどす黒い体液が吹き出した。
地の底から響くような、化け物の悲鳴が響く。
「ちっ、思ったより分厚いな」
刃が皮と肉の奥、臓腑まで達していない。
両手に伝わったその感覚にレイリアは舌打ちし、自身の頭上にその巨大な刃を掲げる。
地面が、大気が震え、その刃に化け物の右腕が振り下ろされた。しかし、地を割る化け物一撃であってもその銀の刃を打ち砕く事は出来ず、逆に自身の腕の半ばまでを切断されて化け物はまた悲鳴をあげた。
「グギ、ギギ、オンナァ、テンシィ、アノオカタノタメ二ィ……!」
「黙れよ、駄犬」
固く握られたレイリアの拳が、化け物の顎をかち上げる。あろうことかその一撃は化け物の巨体を易々と宙に浮かせ、化け物は土埃をあげながらどうと仰向けに倒れた。
顎を砕かれたのか、だらりと垂れ下がった下顎から体液を撒き散らしながら化け物が起き上がる。
ぎょろりと巨大な目玉が向いたその先には、月光に照らされ空を舞うレイリアの姿。
繋がれている鎖を伸ばし、まるでスリングのように振り回される戦斧がごうごうと嵐のようなうねりをあげていた。
その時、化け物が感じたのは圧倒的な恐怖。
抗い様のない、絶望的なまでの力の差。
それこそは、暴力の化身であった。
「じゃあな、また地獄で会おうぜ兄弟」
大地を砕く、神の鉄槌が振り下ろされた――