死を纏う者
明星のレイリア。
それは女神より遣わされた天使たちの中で最も勇ましく悪魔たちと戦った天使であり、彼女の振るう神器『薙ぎ払う銀翼』は山を砕き、地を裂き、嵐を巻き起こしたと言われている。
彼女が舞う戦場において悪魔はその身の一片すら存在することを許されず、彼女が訪れた地には穏やかな夜明けが訪れる。故に彼女は『明星』をもたらす者と畏れ、崇められた。
そして、幼き頃より彼女らの物語を聞いて育ったリリィにとって、どんな苦境にあっても気高く、決して挫ける事のないその姿は正しく憧れであったのだ。
「ほら、どうしたオッサン、もうバテちまったのか? 前戯ぐらいはしっかり付き合ってくれよ」
「おのれ……!」
そんな彼女が、今目の前で戦っている。
打ち下ろし、切り上げ、薙ぎ払い。
まるで嵐のような斬撃が飛び交う中を、レイリアと名乗った銀の少女が舞い踊る。
リリィとはまた違う、跳ねるような軽い足運びで大斧を躱し続けるその顔には嘲笑を貼り付け、顔を真っ赤にしたベルガラがさらに激しい攻撃を浴びせかけるも、振るわれる大斧は彼女の髪の毛一本すら断ち切る事が出来ないでいる。
「モノは立派だが、力任せに振ってるだけじゃあ宝の持ち腐れだな。それに――」
振り下ろされ、強かに床を打ち付けた大斧の刃の上にふわりとレイリアは腰を下ろし、どこか呆れを含んだ瞳でベルガラを見上げた。研ぎ澄まされた白刃の上だというのに、彼女の柔肌には傷一つ付く事はない。
「アンタの目には迷いが見える。故に解せん。俺に武器を向ける事を躊躇うなら、何故あんな下種と一緒にいる」
「だま、れッ!」
ベルガラの豪脚が、レイリアの頭蓋を砕かんとうねりを上げる。
しかしレイリアは軽く右手をかざし、迫りくる丸太のような脚を溜息交じりに受け止めると、掴み取ったそれを、まるで小枝でも振るような気軽さで振り払った。
たったそれだけで、彼女の倍はあろう大男が宙を舞い、床に打ち付けられる。苦悶の声を漏らし、口から血を吐くベルガラを傍目に、レイリアはその場に取り残された大斧をおもむろに持ち上げると、その場で二三度振って見せた。轟音。ベルガラが振るっていた時の比ではない暴風が吹き荒れる。
レイリアはその感触を確かめるように斧を握り直し、ぺたりぺたりと素足で床を叩きながらベルガラの前まで歩み寄り、その前に膝をついた。
真っ赤な瞳が、ベルガラをじっと見つめる。その瞳に覗き込まれた途端、ベルガラは背筋に冷たい物が走るのを感じた。まるで心の奥底まで覗かれているかのような、不気味な感覚。
きし、とレイリアが歯を軋ませながら笑った。
「決めた、お前は奴隷として飼ってやろう。ひとまずは、そうだな、そこで腰を抜かしてるお嬢さんの面倒でも見てもらおうか」
「ふざ、け――!?」
突然奴隷扱いされたベルガラは当然怒りを露わにし、彼女を噛み殺さんばかりの勢いで睨み付ける。しかし伸ばされた細い指が彼の太い首を掴み上げ、その巨体を床に叩きつけた。
ベルガラが血反吐を吐き、苦悶の表情を露わにするその腹の上に、レイリアが馬乗りになり睨み付ける。宝石のような瞳が妖しく揺れた。
「勘違いするな、オッサン。お前の命はもう、お前のものじゃない、俺のものだ。生かすも殺すも俺次第。まあ、せいぜい役に立てるよう尽くす事だ」
手を離し、斧を担ぎ直すレイリアを見上げベルガラは力なく項垂れた。彼は決して無能ではない。その実力、経験はリリィが下したゼイゼルに勝る。その経験が告げていたのだ、彼女に逆らう事は、荒れ狂う大海へ船を出すより無謀だという事を。
「どういうつもりですか、レイリア様」
しかし満足げに鼻を鳴らし立ち上がるレイリアに対し、異を唱える者があった。言わずもがな、リリィである。
彼女はようやく毒が抜けきった身体を引きずるようにしてレイリアの前に立つと、その澄んだ蒼い瞳でレイエルを睨み付けた。
「そう畏まらなくていい。どうもこうも、あのオッサンはまだまだ利用できる、だから生かした。それに、あれほど体格の良い奴隷はそうはいない。荷物持ちや、庭や畑の手入れ、何だったら夜の相手をさせても十二分に遊べるだろう。まさに掘り出し物だ、なんの不満がある?」
「そうではなく、何故私が賊の面倒を見なければいけないのですか! 奴隷だと言うのなら、貴方様が所有者となるのが当然でしょう!」
食って掛かるリリィに、レイリアは鼻を鳴らす。その背後ではようやく落ち着いたベルガラが、どこかばつが悪そうな顔で息を吐いていた。年端もいかぬ少女が夜の相手だのと言い出した事もあるが、二人の会話から、自分がいよいよ奴隷として扱われるのだと実感が沸いてきたからである。
無論、奴隷とはいえ犬畜生のような扱いを受ける事は稀だ。
奴隷とは貴族の財産であり、高級品だ。これを粗末に扱えば、他の貴族から品位を疑われる程度には扱いに気を遣っている。使い潰して殺してしまうなど、以ての外だ。
故に奴隷には最低限の生活は保障されるし、美しい女ならば側室として取り入る事も可能だろう。尤も、貴族に買い取られた場合の話ではあるが。
特に自分は少女の言う通り体格に恵まれているし、病気にもなっていない。農奴程度の扱いは受けられるだろう。
「ああ、アイツの所有者は俺だ。だが、誰かさんが勝手に目覚めさせてくれたおかげで、俺には行く当てがない。そこで取引だ。お前が今巻き込まれている面倒事を、俺が解決してやる。代わりにお前は、俺の面倒をみろ。着るものと、食い物、酒、温かい寝床、あとは金だな。この要求を呑むのなら、俺はお前の一切合切を救ってやる」
腕を組み、傲慢ともとれる態度でレイリアは言う。
先程のベルガラとの一戦。あの体捌きは、明らかに尋常なものではなかった。彼女の助力を得る事が出来れば、これ以上頼もしい物はないだろう。
しかし、とリリィは唇を噛んだ。
「貴方様は、かの女神リアディア様が使わした天使、明星のレイリア様では無いのですか。何故、そのような事を……」
天使とは悪を滅ぼし、人類を守護する者、高潔な存在ではないのか。それがこんな、救いに対し見返りを、それも金銭を要求するなどと。
憧れ続けた存在が心の奥底で崩れていくのを感じ、リリィが涙をこぼす傍らでレイリアは顔を顰めた。彼女の零したその言葉の中に、決して見逃せないものがあったからだ。
「女神リアディア様、明星のレイリア、ねぇ……? ホント、千年の間にどこがどう歪んでそうなったんだか、まあ、だいたいの見当はつくが。とりあえず、その小奇麗な伝説は忘れちまった方がいいぜ、あの戦争は、聖戦なんてご立派なもんじゃあなかった」
そう言って、その瞳に憂いの色が浮かぶ。そしてどこか遠くを見つめるその姿はつい先ほど大男を手玉に取り、大斧を振り回していた少女とは思えないほど儚げで、リリィはその姿につい目を奪われてしまう。
しかしそれも一瞬のこと。次の瞬間にはその表情は先程までと同じ、自信に満ち溢れたものに戻っており、見間違いだったのかとリリィは目を瞬かせた。
「とにかく、だ。今はとりあえず、最低限必要な物だけ頂くとしよう」
そう言ってレイリアは、何を思ったのか既に事切れて冷たくなったゼイゼルの亡骸へと歩み寄ると、その傍らに膝をつき背負った大斧を自身の前に置くと、胸の前でそっと手を組んだ。
その姿はまるで天へと祈りを捧げるようで、そこには目を奪われる程の、犯しがたい神聖さがあった。瞳を閉じたレイリアが、そっと言葉を紡ぐ。
「Siutrom xe sicsonga de irud rep siutrom ed」
古代帝国語で唱えられたそれが何を意味しているのか、リリィとベルガラには理解できない。しかし、それはきっと死者を弔う祈りの言葉なのだろうと、漠然とそう感じた。
そして次の瞬間、もたらされた異変に二人同時に言葉を失う。
まずはゼイゼルの亡骸が不思議な光に包まれ、浮き上がった。粉雪のような、儚げな光である。
しかし、二人が真に目を疑ったのは、次なる変化だ。光に包まれたゼイゼルが、その末端から光となって崩れ始めたのだ。それはまるで、織物が一本の糸へと解けていくような、あるいは降り積もった雪が春になり溶けて消えていくかのような、不思議な光景だった。
ゼイゼルから溶けだしたその光は目の前のレイリアへと吸い込まれるかのように集まり、その身体を包み込む。
やがてゼイゼルの身体全てが光へと変わり、レイリアの身体を包む光がより一層その輝きを増したとき、彼女はその瞳をゆっくりと開き、大斧を手に立ち上がった。うねりを上げて大斧が振るわれ、纏っていた光が爆ぜる。
二人がたまらず目を瞑る輝きが収まった時、そこには先程までと変わらぬ表情を浮かべ、しかし少しばかり異なった趣の少女が立っていた。
胸と腰には細長い布が巻き付き、耳には銀の耳飾りを、足には木で拵えた靴を履いている。そして手にした大斧は水銀につけたような銀色に変わり、その柄には武骨な鎖が巻き付いていた。
鎖を鳴らしながらレイリアはその大斧を担ぎなおし、二人を見やる。
「さて、それじゃあ行こうか。千年ぶりの大暴れだ」
きし、とレイリアは犬歯を露わに凶暴な笑みを浮かべる。
しかしいざ出陣せんと部屋の出口へと向かったところで、再びリリィが待ったをかけた。怪訝な表情を浮かべレイリアが彼女の方へ振り向き、その隣でベルガラが息を吐いた。
「いちいち水を差すなよ、面倒な女だな」
「も、申し訳ありません……って、そうではなくて!」
先程の現象はいったい何なのか。あの男の死体はどこへ消えたのか。そもそも、伝説の天使ではないと言うのなら、貴女は何者であるのか。
口角泡を飛ばす勢いで食って掛かるリリィにレイリアはさも鬱陶しそうに眉を寄せ、羽虫を払うような仕草をした。かつかつと木靴で床を叩きながら彼女は溜息交じりに口を開く。
「万物魔素理論を知っているか?」
「……ある程度なら」
少し前に歩いた道を引き返しながら、やや不満げにリリィは答えた。
万物魔素理論。それは古代帝国が誇った超文明、それを支えた魔科学技術の根底にあったとされる考え方であり、この世の全ての物質は〝魔素〟と呼ばれる目に見えないもので形作られている、という考え方である。
しかし現代においては、この理論は徐々に否定され始めていた。
その原因は遺跡から関係資料や遺物が発掘されてはいるものの、それを正しい形に復元し、その理論を実証できる者が誰一人として現れていない事が大きい。
果たして本当に古代帝国はこの理論を用いて文明を発展させていたのか。もしや現代人たる我々は、何か大きな思い違いをしているのではないだろうか。
そんな疑念を抱かれ始めているもの、それが万物魔素理論であり、古代帝国の魔科学技術である。
しかし少女は、レイエルはリリィのそんな話を鼻で笑い、その長い銀髪を乱暴な仕草で掻き揚げた。
「情けないな、お前たちは。まあ、千年も経てば多少はオツムもゆるくはなる、か」
むっとするリリィをしり目に、レイエルはぴんと人差し指を立てながら続ける。
「この世の全ては魔素と呼ばれる、小さな小さな粒子で構築されている。そして魔素の性質は一つではなく、お偉いさん方が発見したその数は百と十八。万物はこれらが複雑に絡み合って出来ている、らしい」
俺は学者ではないからな、詳しい事は知らん。
言葉を一度区切り、レイエルは咳払いをする。
そんな彼女の言葉を一言一句たりとも聞き逃すまいと、リリィはじっと耳をそばだてた。実際に千年前の古代帝国時代を生きた、正しく生き証人の言葉である。王都にいる学者たちが大金を叩いてでも聞きたがる程の価値が、彼女の言葉にはあるのだ。
「そして知っているだろうが、俺たちはこれを利用する。さっき俺があの下種の死体に使ったのがこれの応用だ。特殊な術式によって人間の身体を構築している魔素を分解し、任意の形に組み直す。しかしこの術式は意識がある生物には使えない。己が己であらんとする意志の力が働いて、魔素の結合が解けないからだ」
「無理、分解すると、どうなる」
そう疑問を呈したのは、隣を歩くベルガラであった。
言葉を遮られ、レイエルの眉間にほんの少し皺が寄るものの、僅かに視線を彷徨わせるだけで特に嫌味を口にする様子も無い。よほど彼を気に入っているのかと、リリィは少しばかり胸が痛くなった。
「……無理矢理組み替える事も可能ではあるが、それは禁忌とされ行われた例は無い」
「しかし、それならば床や天井を用いてもよかったのでは? 何故遺体を弄ぶような真似を……」
「人間の身体が一番都合が良いんだよ。肉、骨、血、人間の身体を構築する魔素の種類、数は他の物質を遥かに凌ぐ。それに、武具として利用しない余剰分は全て俺の動力へと回しているからな、死して尚大量の生命力を残す人間の死体はその点でも好都合なのさ。何より――戦場において、最も手軽に入手できる素材でもある」
レイエルの深紅の瞳が妖しく光り、口元に裂けるような笑みが浮かぶ。
それを見た瞬間、リリィはぞっとして身を震わせた。そして自身の中の疑念が、確信へと変わる。
彼女は決して、伝説に残る天使などではない。もっと怖ろしく、邪悪で、悍ましいもの。
そう、これではまるで――
「無駄話はここまでだ。着いたぜ」
床を叩く木靴の音が止まる。
通路をずっと進んだ先にある行き止まり。リリィが初めてこの遺跡に降り立った場所に、三人はやってきていた。
「扉、ない。どうする?」
磨き上げられた壁に手を付き、ベルガラが首を捻る。その様を見て、レイエルが呆れたように肩を竦めた。
「お前ら、まさかろくに調べずに転がり込んできたのか。よかったなあ、俺が目覚めて。でなけりゃお前ら、全員仲良くここで飢え死にしてたぜ」
そう言ってレイエルはおもむろに壁へと手を伸ばし、ぐっと力を籠める。
「Maunai irepa,oge Lyall」
そして彼女が古代帝国語でそう唱えれば、鏡の様な壁面に光の線が走り抜け、三人の足元を覆うほどの巨大な魔法陣が出現した。リリィが遺跡に入る際に現れた、あの魔法陣である。
「下らない事で時間を使ったな。さあ行くぞ、美味い飯と酒と、柔らかい寝床が俺を待ってる」
じゃらりじゃらりと鎖を鳴らし、大斧を肩に担いだ少女は不敵に笑う。
神話の時代を生き抜いた修羅が、現代に解き放たれた瞬間であった。