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悪の華は深淵に咲く

大変お待たせしました。


 聖アウレア学園の野外訓練とは、入学したばかりの生徒たちへ最初に訪れる試練であり、その厳しさから“ふるい落とし”とも呼ばれ畏怖される学園の恒例行事である。

 期間は五日。首都より東へ少し離れた東バルラキア平原、そしてその奥に鬱蒼(うっそう)と広がる“ノックスの森“にて、生徒たちは座学をはじめ武術や馬術等の訓練を始め、集団演習や行軍訓練を行う。

 内容は過酷にして苛烈。されども卒業後は士官として精鋭部隊揃いの王国騎士団に配属される者たちである。生半可な訓練では騎士団に相応しい人材など育つはずもなく。

 しかし、前提として、聖アウレア学園に通うのはその大多数が貴族の子息子女ばかりで、平民から合格者が出ることは極めて稀だ。

 それは入学に必要な学力、教養を得るために高度な教育が必要であり、また学費、母体である女神協会に支払う金額もそれなりの額になることから、貴族や商家でないとそれらの条件を満たすことができないからである。

 

「はぁっ、はぁっ……!」


 さてこれらを踏まえたうえで、何故野外訓練が“ふるい落とし”と呼ばれるか。

 その理由は単純明快。これまで貴族として甘い蜜を吸いに吸い、箱に入れられ蝶よ花よと愛でられ続けて育った一部の温室育ち、歯に衣着せぬ言い方をしてしまえば実家のコネだけで入ってきた惰弱、あるいは単に実力が足りない落伍者は、ここであっという間に振るい落とされる。

 その割合は全体の三割から四割。これが全体でも五十人に届かない狭き門の中でのことであるので、最終的にその人数は三十人前後にまで絞られる。

 さらに、当然のことではあるが訓練中は実家から引き連れてきた従者の手は借りられない。

 どれだけ重い荷物を背負わされようと、どれだけ足が棒になり肉刺(まめ)が潰れようと従者の手を借りる、どころか肩を借りて行軍など許されないのだ。

 何度も言うが、当然である。

 彼ら、彼女らは未来の士官候補、つまりは何百、何千という兵を率いる立場になるべく学園の門を叩いた者たちなのだ。

 それが、少しばかり辛い目にあっただけで助けを求めるなどあってはならない。

 強者であるからこそ苦境を打ち破り、踏破する者にこそ兵は従い、死地を駆けることができるのである。


「なぁんか、暇だなぁ」


 ともあれ、それは実際に訓練を受ける生徒側の事情。

 護衛として傍に控えることを余儀なくされたレイリアにとって、あまつさえこの程度の訓練など児戯に等しい死線をくぐってきた彼女にとっては、目の前の光景は退屈極まるものであった。

 隣では同じく護衛であるベルガラが真剣な表情で訓練の様子を眺めているが、彼も元々傭兵であり、南方よりその身一つでここまで旅を続けてきた強者であるので、この程度では息を乱すことすらない。

 ちなみに彼女たちも自分たちの荷物を背負い、主人である生徒と同じ道程を進んでいる。

 しかし生徒たちに雇われた従者たちの中でも、レイリアたち二人組は随分と目立っていた。

 片や仮面を被った黒ずくめの少女、片や異国風の肌をした大男。

 さらには他の従者たちがそれなりに、それぞれが武芸者らしい服装をしながらも主人の品格を落とさない程度に整えた身なりをしているのに対し、彼女らは自然体。主人の意向など知ったことかと言わんばかりに己が好む服装をしているのだから当然である。

 とはいえ、侮られている訳でもなく。

 貴族の子息子女に雇われるに十分な実力を備えているが故に、ある者はベルガラの隙のない立ち姿に感嘆し、またある者はレイリアの底の見えない不気味さに恐怖していた。

 だがそういった奇異の目を向けられつつも、彼女の興味は行軍を進める生徒たちの列、その先頭を行く者たちに向いていた。

 

「うちのお嬢様は別として、あの牛女も随分と頑張ってるじゃねえか」


 最も先頭を歩くのは、ローズ・フォン・ヴァレンシュタイン。

 幼い頃より厳しい訓練を受け育てられ、体格ではリリィに勝る彼女はその額に汗こそ流し疲労の色を浮かべてはいるものの、その足取りは力強く、後ろに続くリリィに僅かな差をつけてずんずんと先へ進んでいく。

 リリィもレイリアに鍛えられその力を伸ばしてはいるものの、やはり体格の差は覆り様がない。

 さらにその後ろ、先行する彼女たちにこれ以上離されまいと必死に食らいつく一人の男子生徒の姿に、レイリアはその赤い瞳を神妙に細めた。


「あの野郎……」


「知ってる、顔か?」


「いんや。だが誰なのかは調べてある。アーサー・ヴィア・グレンツェン、勇者の血を引く、それはもう尊い尊いお家のお坊ちゃまさ」


 その声にはどこか血の滲むような、染み出すような陰が感じられたが、何が潜んでいるかわからない藪を突く程ベルガラという男は愚かではない。冷や汗を一筋、早く彼女の興味が他に移ることをただひたすらに祈った。

 やめろよお前、絶対にやめろよ、と。

 そしてそういう場合は往々にして悪い方へと転がるもので、彼女はいかにも不機嫌そうな、あるいはこれほど機嫌が悪いのは初めてなのではないかという程の酷い顔をしたまま、汗だくになりながら歩を進める少年の元へと向かっていく。

 それだけで、ベルガラはもう頭を抱えてしまいたくなった。

 これがただの小娘であれば脇に抱えて遁走してしまえばいいところだが、残念ながら彼女にそんな真似をすれば、その瞬間己の首が胴と泣き別れてしまいかねない。

 不機嫌な彼女というのは、それほどまでに恐ろしいのだ。

 しかし、それはあくまでレイリアという少女を良く知る人間からの視点であり、傍から見れば彼女は小柄で華奢な、言ってしまえば場違いともいえるただの少女である。

 何が言いたいのかといえば、そんな彼女が貴族の、王族の会食にも呼ばれるような名家の者におもむろに近づけば、黙っていない者がいるということ。


「待て。それ以上近づくな」


 立ちはだかったのは、銀の胸当てを付けた女であった。

 背が高く、編み込んだ金髪と気の強そうな青いつり目が印象的で、年の頃はリリィより少し上ぐらいだろうか。妙齢の女らしい色気と凛々しさが同居した、いかにも剣が似合いそうな雰囲気をしている。

 件の生徒、アーサーの護衛として雇われた者だろうか。否、そうであってそうではない。

 彼女こそはこの野外訓練における教官、つまりは教会から派遣された学園の教師の一人であるアルミラ・マビノギオンその人である。

 現在は教会からの要請により教師とアーサーの護衛を兼任する彼女であるが、元々は国王直属の近衛騎士団の一員であり、その剣の腕前は国内でも屈指のものであった。

 が、今回ばかりは相手が悪い。

 並の男であればひと睨みで竦みあがってしまうような彼女の眼光をもってしてもレイリアの歩みを止めることはできず、それどころかまるで意に介していないかのようにアルミラの横をすり抜けようとする始末。

 そのあまりの態度に一瞬虚を突かれたアルミラであったが、すぐ我に返るとそのままずんずん進んでいこうとするレイリアの腕を後ろから引っ掴んだ。

 そこでようやく歩みを止め、アルミラの方へ意識を向けたレイリアであったが、その表情はまるで少女のそれではなかった。

 例えるならば牙を剥き出し、外敵に飛び掛からんとする獣の貌。不機嫌を通り越し、もはや殺気近いものを滲ませながら睨み付けてくる紅い瞳に、アルミラは思わずたじろぎ、息を呑んだ。

 まるで底が見えない谷底を覗き込んだような不気味さ、恐ろしさに震え上がりそうになったが、その程度で怖気づく軟弱に近衛騎士が務まるはずもなく、彼女は鍛え抜かれた強靭な精神にてそれを捻じ伏せると、確固とした意志をもって少女の瞳を睨み返した。

 直後、アルミラの両肩を圧し潰さんとしていた重圧が消え、レイリアの紅い瞳に光が戻ってくる。代わりにその瞳に宿っていたのは、興味の色であった。

 

「すまない、失礼をした」


 ようやく生まれた隙に、ベルガラはその大きな体を滑り込ませた。

 二人の間に割って入り、レイリアがこれ以上余計なことをやらかす前にアルミラに頭を下げる。

 背後から響いた舌打ちは全力で無視した。


「すまないが、訓練中は生徒との接触はできるだけ避けて頂きたい」


「なんだ、勇者様の情婦風情が随分と偉そうじゃないか」


 背後から聞こえる、音色だけで言えば鈴を転がしたような心地よさの、しかしその内容はとてもとても目を向けられないようなその声に、ベルガラはそっと自分の腹を撫でた。

 ついでに言うと、遠くの方からうら若い乙女の悲鳴も聞こえた気がする。


「噂通りの毒舌家だな。それさえなければ多少は可愛げもあるだろうに勿体ない」


 だがやはり元王宮勤めの者からすればその程度の罵詈雑言など慣れたものなのか、アルミラは軽く肩を竦めた程度で、深々と溜息を吐いた。

 その言にベルガラは内心同意しつつも、外見だけ見れば可愛げがあるどころではないというか、口の悪さを補って余りある顔の良さである為なんとも複雑な心境であった。

 

「あ、貴女また何をして……! も、申し訳ございませんマビノギオン先生、家の者がご迷惑を!」


「いや、何も問題はない。君は早く訓練に戻りなさい」


 やがて顔を青くしたリリィが駆け寄ってきたが、アルミラはこれを即座に処理。

 行軍に影響がでないよう、毅然とした態度で送り返した。

 塩対応されたリリィは随分と物言いたげな表情をしていたが、教官にはっきりと言われてしまえば従うほかない。

 

「貴女たちも、早く離れなさい。事前に説明した通り、訓練中はこちらの指示に従うように」


「なんだよ、面白くねえな。ま、しゃあねえか、行くぞオッサン」


 意外にも、レイリアの対応は素直だった。

 先程まで浮かんでいた不機嫌極まった顔も既になく、日頃の彼女を知っている者からすれば逆に不気味なほどの様子であったが、まさかアルミラとの問答がそこまでお気に召したのだろうかと、軽やかな足取りの彼女の背中を追いながらベルガラは訝しんだ。

 たしかにアルミラはどこか冷たさを感じる、冬に咲き誇る花のような美しい女性ではあるが、いくら女好きなレイリアといえどそれだけで機嫌を直すほどのものだろうか。

 そも、彼女のお目当てはアーサーだった筈。

それを邪魔されて機嫌を損なうことはあれど、ああまであっさり引き下がるとなると、ベルガラとて気にはなる。

 ともあれ、機嫌が良いのであればこれもまた、藪を突く必要もないか。

 全く、何とも扱いにくい。

 ベルガラは静かにため息を吐いた。

 そう彼が肩を落とすその向こうで、去っていく女騎士の姿を紅い瞳が追っていたことに、そしてその口元に妖しい笑みが薄く張り付けられていたことにはついぞ気付くことも無く。

 そうして少なくない脱落者を出しつつも、生徒たちは初日を過ごし、舞台は東に広がるノックスの森へと移っていく。


「あぁ、お姉様は喜んでくれるかしら。私たちが大切に、大切に用意した贈り物」


「きっと喜んでくれるさ。丁寧に、丁寧に作ったのだから。ボクたちの愛するお姉様なら、きっと喜んでくれるとも」


 ああ、楽しみね――

 ああ、楽しみだね――


 静謐に見えるその森の奥、深い深い闇の底で、悍ましい悪意が蠢いていた。


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