学び舎
話が進まないオブザイヤー2019
バルラキア王国。
大陸の西側、その三分の二を占める巨大国家の首都リアディエルは、反り立つ断崖絶壁を切り崩し建築された天然の城塞都市である。
堅牢な城壁の最奥にあるのは、都に住まう民たちの誇りでもある難攻不落の王城。
崖と半ば埋もれるようにして建てられたそこを起点にして、崖を切り崩した際に出た石材を利用した灰色の街並みが扇状に広がっている。
そしてその中でも異彩を放ち、圧倒的な存在感を示す建造物があった。
聖アウレア学園。
国内最高峰の士官学校であり、さらには国教としても定められている女神教会――伝説の女神リアディアを信仰する者たちが本部とする場所である。
正面には天を衝く四つの尖塔。
大きく曲線を描く巨大な半円形の門の上部には信者たちが崇める、慈愛に満ちた微笑みを浮かべる女神リアディアの像が彫られ、その傍にはそれぞれ剣や槍を携えた美しい天使たちが彼女を守護するように左右二体ずつ配置されている。
そして、見る者すべてが思わず跪いてしまいそうなほどの荘厳な佇まいのさらに奥、正面の尖塔よりもなお高く伸びる塔の最上階に、彼女たちはいた。
「いや、無事でなにより、なにより。実は先日、君のお父上から早馬が届いてね。かの地で何が起こったのか、すべて聞かせてもらったよ」
使い古された机の向こうで、老人が唸る。
灰色の頭には大きなとんがり帽子が乗っかり、小さな丸眼鏡のその奥で、不思議な光を宿した青い瞳が真っすぐに正面を射抜いていた。
胸の前で枯れ枝のようになった手を組んで、老人は深くため息を吐く。
漆黒のローブに女神教の紋章である絡みつく蔓の輪と光――二本の線で描かれた円の中に五つの玉がはめ込まれた首飾りを下げたこの老人こそ、この学園の最高責任者であり、女神教会の最高指導者、大司教マーレイ・アルスその人である。
「まさか彼の領地で暗殺を企む者が出るとは、実に嘆かわしいことだ」
「はい、父も悲しんでおりました。ですが貴族たるもの、何があろうとも常に民の規範であれと。学を疎かにし、礼節を欠くようなことがあってはならないと。そう申しておりました」
「なるほど、なるほど。実に高潔で、誇り高い。東方の獅子らしい心のありようだ」
にこりと、そのしわくちゃな顔に笑みが浮かぶ。
そしてそのまま、彼の視線はリリィの後ろ、そこに控える二つの影へと投げられた。
「そしてそちらが、獅子が認めた精鋭たちか。うむ、うむ。たしかに只者ではないようだ。こうして目を向けるようで、この老骨が震えるようだ」
そこに立っていたのは、褐色の大男と、その半分ほどの小柄な少女であった。
言わずもがな、ベルガラとレイリアである。
ベルガラは特別にあつらえた麻の服に革の胸当てと比較的身軽な恰好をしていたが、鍛え抜かれた分厚い胸板がそれを押し上げ、二の腕などは今にも弾け飛びそうなほどであった。
さらに目を引くのは、隣に立つレイリアである。
身体をすっぽりと覆う闇色の外套に、顔の上半分を覆い隠す烏の面。
フードの中から零れ落ちる銀髪とわずかに覗く口元からかろうじて彼女がレイリアであることだけはわかるが、その見てくれは疫病が流行り始めた際に現れるという黒い医者の姿そのものである。
だがマーレイはそれを少しも訝しむ素振りを見せずにうむ、うむと二度頷くと、蛇を模した杖をつきながら立ち上がり、リリィの元へ歩み寄った。
「よろしい。そちらのお二人も、護衛として学園に入ることを許可しよう。部屋はリリィ殿の隣を使うといい。ただし、生徒たちが授業を受けている間は、お二人とも教室の外で静かにして邪魔をしないように」
ちっ、とレイリアが陰で舌打ちをする。
彼女の身体から不穏な空気が立ち上り始めたところで、リリィが二人の間に滑り込んだ。
「感謝します、マーレイ大司教。それでは、明日からの準備もありますので、私たちはこれにて失礼致します」
朗らかに笑うマーレイに頭が振り落とされそうなほどの勢いで礼をすると、リリィはレイリアの手を引っ掴み、慌てて部屋を飛び出していった。
そしてまんまと置いてきぼりを食らったベルガラが開け放たれた扉とマーレイを何度か見比べた後、気まずそうに一礼してそのあとを追いかけていく。その背が随分と小さく見えたのは、きっとマーレイの気のせいだろう。
はてさて場面は移り変わる。
塔の最上階、学園長室を飛び出したリリィは額に汗しながら階段を駆け下り、廊下を早足で進み、事前に割り当てられた寮室へと飛び込んだ。
ちなみにこの学園の右半分が学生寮として使われており、中庭を挟んだ反対側が教室になっている。リリィが今回割り当てられたのは学生寮の三階、その一番奥の部屋だ。
板が打ち付けられた壁に、簡素な勉強机と棚。
煌びやかさ、華やかさなどとは無縁な士官学校の気風故か、室内はひどく殺風景に映った。
「はー、随分と息苦しい場所だなあ、おい。昔放り込まれた豚小屋を思い出すぜ」
真っ白なシーツが敷かれたベッドに足を投げ出しながら、レイリアは心底うんざりした様子で天井を仰ぎ見た。一人用ながらもしっかりとした作りのベッドが軋み、彼女のしなやかな肢体が沈み込む。烏の仮面が宙を舞い、机の隣にある帽子掛けに引っかかってくるくると躍った。
「そんなことより、学園の中にいる間ぐらいは自重してください! それも、よりにもよって大司教様に。まさか噛みつくんじゃないかと、生きた心地がしませんでしたよ!」
猫のように毛を逆立てながら、リリィはまくし立てた。
しかし当の本人はどこ吹く風。さっさと外套を取っ払ったかと思えば、腹も足も露になったその格好で窓を開け、涼み始めてしまった。
ぐぬぬ、とリリィが唸り、その後ろでベルガラがため息を吐く。
風になびき、長い銀髪を躍らせるその姿は実に絵になっていたが、今後もこの意地の悪い天使に振り回され続けるのだろうなと、そう思うとリリィは頭が痛くなった。
ため息。
「もう、せめて素顔を晒すことだけは、極力避けて下さいね。伝説の天使と同じ顔をした人間が歩き回っていると知れたら、いったいどれほどの騒ぎになるか……」
「呵々ッ。そういえば、あれは傑作だったな。どいつもこいつも、這いつくばってまで熱心にあーだこーだ阿呆みたいに祈ってやがんの。そんな御大層なもんかよ、あの阿婆擦れが」
「……人がいる場所では、絶対にそういうことは言わないで下さいね。本当に、ほんっとうに、お願いします」
「わーってるよ。やれやれ、本当に息苦しいったらありゃしない」
ぐちぐちと小言をこぼす彼女の指先に火が灯る。
そうしてどこからともなく取り出した煙草を咥え、火をつけると独特の香りとともに細長い紫煙がゆらりゆらりと立ち上った。
なんてことのない、リリィ自身も見慣れた何気ない光景。
しかしこの数秒の間に、いったいどれほどの奇跡が、今はもう失われてしまった技術が秘められているのだろうか。
少なくとも、今もなお古代帝国の遺跡で発掘作業に当たっている学者たちが見れば卒倒してしまう程度には異常な光景なのだろう。
「ま、金はたんまり貰ってるからな、契約中はしっかりきっかり守ってやるから安心しろよ」
紫煙を吐き出しながら笑うその瞳はまるで獣のようで、リリィは思わず身震いする。
が、その肌を刺すような鋭い雰囲気を一瞬のこと。レイリアはおもむろに吸い終わった煙草を握りつぶすと、よっこらせと両足を窓の外に投げ出した。ぎしり、と窓枠が音を立てる。
あまりに突然の奇行にぎょっとするリリィをよそに、彼女はひらりひらりと手を振った。
その顔にはいつの間にか、先ほどと同じ烏の面が。
じとりと、リリィの背を冷たい汗が伝った。
「それじゃあ、ちょっくらその辺ぶらついてくるわ。そいつは置いていくが、もし俺様に助けてほしい時は呼べ。十ほど数える内には駆けつけてやる」
じゃ。
可愛らしく片目をつぶってそう言い残すと、まるで猫のような身のこなしで彼女はふわりとその身を躍らせた。
あっとリリィが手を伸ばすも、時すでに遅し。
残されたのは唖然として立ち呆けるリリィと、やれやれと頭を掻くベルガラの二人。
開け放たれた窓に小鳥が舞い降り、ちゅんと鳴いた。
「あ、あの人は本当にもうー!」
晴れ渡った空に、少女の慟哭が響く。
驚き、飛び立つ小鳥たち。
ひらりひらりと舞い落ちた羽とともに、小鳥のような笑い声が聞こえた気がした。
多数のアクセス、ブクマありがとうございます。
今後とも本作を宜しくお願い致します。




