4.トレーネ・グレスラーの決意1.
アルウェイ公爵がオリヴィエたちとの話を終えて帰路につく時間になると、ハンネローネとイェニーは見送りに向かった。
トレーネは片づけがあるため残っており、プファイルは言うまでもない。
「ハンネ様は屋敷に戻ろうとは思っていないのか?」
「どうしました、プファイル。急にそんなことを?」
プファイルからの突然の問いかけに、トレーネは無表情ながらに疑問を浮かべる。
「いや、気になっただけだ。捕縛こそされていないが、コルネリア・アルウェイはもう終わりだ。ならば、正室であるハンネ様たちはいるべき場所に戻るべきではないのか?」
「ハンネローネ様はもちろん、オリヴィエ様も、今の暮らしを捨てる気はないそうです」
「なぜだ?」
「ハンネローネ様を脅かしていたコルネリア・アルウェイが今後なにもできなかったとしても、他にも側室がいます。さすがにハンネローネ様を害そうとする愚か者はもういないでしょうが、快くは思わないでしょう。お二人もそのことがわかっているので、本家へ戻っていらぬ波紋をたてるつもりはないのですよ」
そう言うトレーネもハンネローネとオリヴィエが本家に戻ることを望んでいた。本来いるべき場所へ戻るのは正当な権利なのだから。
しかし、当の本人たちが望んでいない。
ハンネローネは、やむをえぬ事情があったとはいえ、正室としての義務をせず、別宅で暮らしていた負い目もあった。なによりも、自身が本家へ戻ることでいらぬ波風を立てたくないとも思っている。なによりも、苦労をかけたオリヴィエにまた苦労をかけるかもしれないことを嫌がっていた。
オリヴィエもそうだ。彼女自身も公爵家の長女としての役割を放棄して母を守り続けた。事情を知れば誰もがしかたがないと言ってくれるかもしれない。
だが、他ならぬオリヴィエ自身が責任を感じているのだ。そんな彼女に本家へ戻れとは言えない。
なによりも、今のオリヴィエは幸せそうだった。ジャレッド・マーフィーというようやく出会えた信頼できる異性と婚約し、少しずつだが遅い青春を取り戻している。
日々、ジャレッドとの関係に一喜一憂しているオリヴィエはトレーネから見ても、実にかわらしく、微笑ましかった。
「ハンネローネ様が本家に戻り、オリヴィエ様が公爵家長女としての立場をお求めになれば、ジャレッド様との婚約も白紙になる可能性があります。お二人はそれを望まないでしょう」
「おそらく、アルウェイ公爵も望まないだろうな」
オリヴィエは公爵家令嬢として最低限の務めはしている。だが、本当に家のためを考えるならば、いくら忠臣とはいえダウム男爵の孫であるジャレッド・マーフィーとの婚姻は難しい。
宮廷魔術師候補に選ばれる魔術師を取り込むという理由を含めても、オリヴィエじゃなくてもいいのだ。
年齢的に行き遅れであるオリヴィエだが、家同士の繋がりを強化するにはやはり長女という肩書は大きい。
エミーリアが流した悪い噂と、噂に便乗したオリヴィエ自身のおかげで、彼女との結婚を望む変わり者は今のところいない。しかし、形だけ結婚してうまい汁を吸おうとする者もいるのだ。
もうオリヴィエにとってジャレッドは必要不可欠な存在となっている。公爵もそのことを知っているので引き離そうとはしないが、人生なにがあるかわからない。ゆえに、オリヴィエは本家に戻ることなく、母とトレーネ、そしてジャレッドたちとの生活を選んだのだ。
「ええ、ジャレッド様のような方は貴重です。不遇――と言ったら失礼になるでしょうが、長男でありながら家督を継げず、父親とも不仲、新たに正室となられた義母との関係は良好のようですが、側室との関係は最悪と聞いています。そんな中、誰かのために傷つくことを厭わず、守ろうとしてくださる心意気は素晴らしいと思います。ジャレッド様になら、安心してオリヴィエ様をお任せできます」
トレーネの方がオリヴィエよりも年下だが、まるで姉が妹を思いやるような印象をプファイルは受けた。
そもそもプファイルはトレーネがどういう経緯でオリヴィエたちと一緒にいるのか知らない。
「多少、年齢差はありますが、ジャレッド様は気にしていないようですし、問題はありません」
「……多少か?」
「多少です。それに、若い方がいいならイェニー様がいらしたので、オリヴィエ様は姉さん女房として今後成長してくださればいいんですよ」
「なんだか違う気がするが、まあいい。それよりも、トレーネ・グレスラー、お前に聞きたいことがある」
「わたしに、ですか?」
周囲を伺い誰もいないことを確認すると、問う。
「なぜお前のような人間がこの屋敷でメイドをしている?」
「質問の意図がわからないのですが……」
「ジャレッドが現れるまで、お前がこの屋敷をひとりで守っていたと聞いている。いくら敵が格下の冒険者だったとはいえ、戦う技術をどこで身につけたのか気になっていた」
表情こそ変えないが、トレーネから警戒するような雰囲気を感じる。だが、プファイルは続けた。
「先日、お前の戦いを見て確信した。トレーネ・グレスラー、お前の戦い方は――ヴァールトイフェルのものだ」
「まさか。そんなことはありえません」
「本当か? 私は、お前と似た戦い方をする者を覚えている。数年前、任務で死んだとされている者だ。名前こそ、別人だが、お前はどこか彼女に似ている」
「残念ですが、人違いです。わたしは、ヴァールトイフェルに属したことはありません。いえ、それ以前に誰かに戦いを教わったことはないのです。わたしはオリヴィエ様とハンネローネ様をお守りしたく、独学で戦いを学びました」
トレーネの言葉に、プファイルがわずかに驚いたように目を見開く。
「独学?」
「はい。屋敷にある書物から、戦闘の基礎を学び、あとは必要に駆られて実戦で学びました。幸い、魔力に恵まれていましたので、力押しの戦い方ですが、ジャレッド様がきてくださるまでオリヴィエ様たちをお守りすることができたのです」
「そうか……」
トレーネの戦い方は、実戦の中で的確に知識を生かしたものだった。確かに、彼女の言うとおり力押しの一面もあったが、冒険者を複数人相手にして生き残れていたのはまごうことない事実だ。
そして、プファイルの目から見ても、恵まれた魔力と技術を持っているように見えた。
「ジャレッド様に魔術の基礎を習うことになりましたので、今後はよりオリヴィエ様たちをお守りできると思います」
「ならば、私も戦闘技術を教えよう」
「……よろしいのですか?」
「構わない。ヴァールトイフェルの技術ではなく、戦闘者ならば必要不可欠な技術を教えるだけだ。お前の戦い方は、どこか荒く危うい。もっとも、荒く危ういのはジャレッドも同じだが、お前はより危うく見える」
「ありがとうございます」
「ジャレッドが魔術を、私が戦闘技術を教えれば、お前の実力は間違いなく上がるだろう。そうなれば、守りたい人間をより守ることができるはずだ」
気まぐれなのか、そうでないのかわからないが、プファイルの申し出にトレーネは感謝して深々と頭を下げる。
ジャレッドがいるから戦わなくていいという選択肢は彼女の中には存在しない。
今までオリヴィエたちを守っていたように、これからもトレーネは守り続ける決意をしている。
そして、できることなら、自分のことを守ってくれると言ってくれたジャレッドさえを守りたいとも思っていたのだ。
かつて三人で慎ましく生活していた屋敷での日常はもうない。
ジャレッドが現れ、屋敷の中が明るくなった。オリヴィエが初恋をし、ハンネローネが娘を微笑ましく見守っている。ジャレッドの従姉妹であるイェニーも一緒に暮らすようになり、屋敷により光が増した。そして、敵だったはずのプファイルまでがこうして一緒に暮らしている。
ハンネローネやオリヴィエだけではなく、トレーネもまた今の生活を手放したくないのだ。
「礼はいい。訓練は時間を見つけて行おう。ジャレッドとも相談しておく」
「よろしくお願いします」
頭を上げれば、背中を向けて屋敷へ戻ろうとしているプファイルがいた。
「あの」
「なんだ?」
思わず声をかけてしまったのは、なぜさろうと思いながら、トレーネは胸の中にある疑問をぶつけた。
「わたしと戦い方が似ている人物とあなたの関係は?」
プライベートに踏み込むつもりはなかったが、気になってしまったトレーネに、プファイルは懐かしむような笑みを浮かべた。
「――私の姉だ」