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二巻発売記念SS イェニー・ダウムの新たな日常.



 イェニー・ダウムはカーテンから覗く日差しを浴びて、ゆっくり目を覚ました。


「――ん」


 昨晩はあまり寝付けなかったため、まだ寝ていたい気分だ。だが、そんなことをしていたら祖父に命じられた姉が小言とともに起こしにきてしまう。

 顔を合わせる度に喧嘩腰の姉と、朝から言い合いをするつもりはないためイェニーは重い瞼をこすって体を起こした。


「……そうでした。昨日からオリヴィエさまのお屋敷でお世話になっていました」


 誘拐事件から数日が経ち、兄と慕うジャレッドのそばにいたいと願った少女は実家の家族を説得してアルウェイ公爵家別宅であるここで昨日から暮らし始めた。

 祖父母と父は、もともと兄と結婚させようとしていただけあり両手放しで喜び、送り出してくれた。しかし姉だけは最後まで納得できないと苛立ちを隠さないままだった。


 二言目にはジャレッドを悪く言う姉を嫌いになりたくないが、素直になることなく、悪態ばかり、それでいて自分の気持ちに気づいて欲しいと願う姿はイェニーの目にはわがままに映る。だから姉のことを考えフォローすることも、兄に姉のことを教える気もない。

 イェニーが姉のために行動すれば、姉は甘えたままなのだから。


「剣の稽古を……ではなく、朝食の支度を手伝いましょう」


 この屋敷に家人はいない。できることは自分でする。手があまれば助け合う。決まりではないが、兄と兄の婚約者だけではなく、公爵夫人までもがそうしているのだから、イェニーだってしなければならない。

 爵位の低い男爵家とはいえ家人はいた。何不自由ない生活をしていたが、少女は幼い頃からなんでもひとりでやってきた兄を見習い、自分でできることは自分ですると決めている。


 武人である祖父も、しっかりものの祖母もそうだ。父は体が弱いため、母を亡くしてから専属の家人がついているし、姉は自分でできることも他人にやらせようとするので論外だ。

 イェニーは家事の類が好きでもあり、学校では手作りのお菓子を持参して友達と交換してもいる。兄が屋敷に戻ってくるときには自らの手で料理を作ることもあり、好きであり、得意でもあるのだ。

 ベッドから起き上がり、夜のうちに用意していた寝巻きに着替えると、部屋の外へ出る。慣れない屋敷の廊下を音を立てずに歩き、すでに人気のある厨房を覗く。


「あの、おはようございます。なにか手伝えることはありませんか?」

「イェニー様?」


 イェニーに気づいたのは手際よく厨房で食事の支度をするトレーネ・グラスラーだった。彼女は家人ではなく家族なのだが、メイドを自称し屋敷の家事全般を取り仕切っている。彼女のおかげで、住人たちは自分のことをすればいいという最小限ですんでいた。


 だが、彼女が進んで家事を引き受けてくれるからとはいえ、すべてを丸投げにするわけにもいかない。そこでハンネローネはもちろん、オリヴィエも厨房に立つことは多い。

 もっとも、トレーネの意地なのか家事を手伝おうとすると「わたしにお任せください」となかなかやらせてくれない。現在では、渋々手伝わせてくれるが、毎日だと拗ねてしまったりするのだ。


「トレーネさま。わたくしはこちらのお屋敷でお世話になるので、どうかお手伝いをさせてください」

「……ですが」


 無表情ながらメイド服をきちんと着た女性がわずかに迷う。彼女としては、まずこの屋敷での生活に慣れて欲しいと思っていた。だが、少女の事情も知っている。押しかけるとまではいかないが、望んで屋敷にきた少女なのだからなにかしら手伝いをしなければと考えているのだろうと察した。


「いえ、でしたら、お野菜を切ってもらえますか?」

「はい!」


 喜んでとばかりに、厨房の中に入り、手をしっかり洗った少女は用意されていた野菜を手に取り、トレーネからどのように切ればいいのか聞く。そして、なぜか包丁を持たずに手刀を作り、


「ふっ」


 一呼吸で野菜を全て言われたままに切り刻んだ。


「……あの、イェニー様の技術がすごいのはわかりましたが、包丁を使ってください」

「あっ。すみません! つい、癖で」

「……癖、ですか? なるほど、ダウム男爵家では手刀が基本、と」

「違います! 誤解です! いえ、確かにわたくしは包丁を使うよりも手刀のほうが楽ですけど、お婆さまや家人は普通です!」


 一応、自分が普通ではない自覚があるらしいイェニーではあるが、彼女の屋敷の家人の多くが武人であるためやろうと思えば手刀で野菜くらい切れるだろう。少女のように規格外ではないため、一呼吸で全ての野菜を切ることはできないだろうから、包丁を使ったほうがきっと早い。


「そういうことにしておきましょう。野菜が終わりましたら、次はこちらをお願いします」


 トレーネの視線の先には鶏肉がある。


「ご助言させていただくと、手刀を使うと手が汚れるかもしれませんのでお勧めしません」「……包丁を使わせていただきます」


 変わった癖を披露してしまったイェニーは、羞恥で頰を染めながら静かに包丁を手にとって鶏肉の下ごしらえを始めるのだった。



 ※



「おはよう、トレーネ。あら、イェニーもいたのね。おはよう」

「おはようございます、お嬢様」

「オリヴィエさま、おはようございます!」


 鶏肉のスープを煮込んでいると、オリヴィエが現れ挨拶を交わす。


「ごめんなさい、手伝おうと思っていたのに遅れてしまったわ」

「いいえ、本日はイェニー様がお手伝いくださったのではかどりました」

「ありがとう。でもね、あなたはこの屋敷に来たばかりだし、まずは生活に慣れるところからはじめてほしかったのよ」

「わたくしの勝手で押しかけてきましたので、せめてお手伝いさせてください」

「あなたって本当にいい子ね。わかったわ。無理をしないと約束してくれるなら、お願いするわ」

「ありがとうございます」


 嬉しそうに微笑むイェニーに、つい抱きしめて頬ずりしたくなるオリヴィエだったが、年長者としてグッとこらえた。

 三人はその後、朝食の支度と昼食、夕食の簡単な下準備を終えると、朝食をとるべく配膳の準備をする。


「さてと、ねえ、イェニー。裏庭でジャレッドが瞑想していると思うから食事だと呼んできてくれるかしら?」

「わかりました。お任せください!」


 元気よく返事をしたイェニーは、一礼して厨房を後にすると、ぱたぱたと足音を立てて、兄のもとへとかけていく。

 そんな年下の可愛らしい少女の後ろ姿に、オリヴィエは吐息をもらす。


「若いっていいわねぇ」

「……あの、オリヴィエ様。その発言はさすがにいかがかと」


 年寄りみたいな言葉を発したオリヴィエに、トレーネは珍しく引きつった表情を浮かべたのだった。



 ※



「お兄さ……」


 裏庭で地面に足を組み目を閉じている兄を見つけたイェニーは、声をかけようとして慌てて自らの手で口を閉じた。

 集中を乱してはいけないという思いと、いたずらめいた感情が胸に湧いたのだ。

 少女は呼吸と気配を殺し、足音を微塵も立てることなく、軽く地面を蹴るとジャレッドの背後に回り驚かそうと声をかけようとする。


 だが、少女が声を変えるよりも早く、目を瞑ったままの少年が拳を突き出してきた。

 驚きはしたが、目で追えぬ速さではない。先日の、ローザ・ローエンとの戦いで披露したイェニーの身体能力は、剣を握らなくてもある程度発揮することができる。

 ジャレッドの動きは、十分に反応し、対処できるものだった。

 迫りくる拳を手ではじき、バランスを崩す。そのまま手首を掴んだまま、兄の背後に回り、膝裏を蹴って地面に押し倒した。


「ぐへっ」


 情けない声をあげて、地面に倒れた兄の姿を見て、イェニーは慌てた。


「ごめんなさいっ、お兄さま!」

「痛い痛いっ、手を離して!」


 腕を捻ったまま謝罪するイェニーに、ジャレッドが降参の声をあげた。


「ああっ、ごめんさいっ。お兄さまが攻撃してくるので、つい」


 腕を解放されたジャレッドは涙目になりながら、背後に立つ少女を見た。


「なんだ、イェニーだったのか。気配を殺して近づくからプファイルの奴かと思ったよ」

「驚かそうと思いまして。ほんの出来心だったのです」


 兄を驚かすことは成功したが、組み伏せてしまったことを反省するイェニー。


「うん。すごく驚いたから。まさか、イェニーがこんなに速いなんて。いや、ローザとの戦いで身体能力がすごいことはわかっていたけど、見るのと実際に体験するのじゃ全然違うね」


 内心、ジャレッドはショックを受けていた。

 まさかかわいがっていた妹に遅れをとることになろうとは思いもしなかったのだ。

 口には決して出さないが、鍛錬のし直しを決意する。


「素晴らしい身体能力だ。恵まれた才能を持って生まれたことに感謝するべきだな」

「プファイル」

「プファイルさま、おはようございます」

「ああ。それにしてもローザを倒したと聞いた時には耳を疑ったが、その速さを目にすれば納得できる。さらに剣鬼をも超える剣技があるのだから、なるほどな。私ともぜひ、相手をしてもらいたいものだ」


 音もなく現れたプファイルから、イェニーに賛辞の言葉が送られた。

 先日の誘拐事件からこの屋敷で暮らしているプファイルは、時間を見つけてはジャレッドにちょっかいをだしている。本格的な戦いにはなったことがないが、鍛錬として手合わせすることをはじめ、奇襲めいた攻撃をしてくることもしばしある。

 彼なりのコミュニケーションなのかもしれないが、狙われるほうは気が気ではない。

 そのせいで、イェニーをプファイルと勘違いした挙句、あっさり敗北したのだ。


「お二人ともお食事の準備ができましたよ。わずかながらお手伝いさせていただきました」

「イェニーが?」

「はい。トレーネさまとオリヴィエさまとご一緒に。楽しかったです」

「そっか。ならよかった。この屋敷でうまくやっていけそう?」


 兄として心配していたジャレッドは、少女の返事を聞かずとも答えがわかった。

 なぜならイェニーは笑顔を浮かべていたからだ。


「オリヴィエさまもお優しく。まだ姉とは呼び慣れませんが、もっと仲良くしたいです。きっと皆様とうまくやっていけると思います」


 前向きに頑張ろうとする妹に、ジャレッドの表情も緩む。


「なんだ。私はてっきり、オリヴィエ・アルウェイが小姑のようなことをすると思っていた」


 プファイルの言葉にジャレッドはおおいに呆れた。


「……お前な。本や舞台じゃないんだからあるわけないだろう」

「そうだろうか? 公爵家の側室が正室の命を奪おうと暗殺者を雇うくらいだ。行き遅れの女がようやく得た婚約者を若い娘に奪われまいと躍起になることも珍しくあるまい」

「それ、絶対にオリヴィエさまの前で言うなよ!?」


 そんなことを言えば、屋敷に血の雨が降ることは間違いない。


「ふふっ」

「イェニー?」

「ごめんなさい。お兄さまとプファイルさまがまるで昔からのご友人のように仲がよろしいので、つい」


 妹の「ご友人」発言に、ジャレッドはなんとも言えない表情をしてプファイルを見た。


「俺たち友達だってさ」

「私は自分よりも弱い相手と友人になりたくない」

「おい、こら。この間、負けたのはお前のほうで俺じゃないだろ」

「ふん。だが、その前に私が勝っている」

「あー、毒を使って勝ちましたねー。そういう勝ち方で嬉しいですかー?」

「貴様っ、今ここで勝敗を決してもいいのだぞ!」

「返り討ちにしてやるよ!」


 なぜか額と額と打ち付けて睨み合いはじめた少年二人を、イェニーは微笑ましく思う。

 ジャレッドは気づいていないようだが、プファイルは自分より弱い相手は友達になりたくないと言ったのだ。ならば、同等かそれ以上の兄と友達になりたいと、少女の耳には聞こえた。

 だが、せっかく楽しそうなのでそっとしておくことにしようと思う。


「お兄さまも、プファイルさまも、喧嘩の前にお食事にしましょう。オリヴィエさまたちがお待ちですよ」


 慣れ親しんだ実家を離れ、新たな生活を始めたが――きっと楽しい日々が待っている。

 イェニー・ダウムは、確信に近い思いを抱き、これからの日々に思いを馳せるのだった。




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