40.エミーリア・アルウェイの心情3.
ジャレッド・マーフィーは王都を全力で駆けていた。
目的地であるアルウェイ公爵の別邸のひとつまで、ジャレッドの脚力なら二十分ほどでたどり着くことができる。王都の外れにある別邸だが、オリヴィエの屋敷からそう離れていない。あと五分もしないうちにたどり着くだろう。
ジャレッドは内心、オリヴィエたちを狙う側室と、雇われたヴァールトイフェルに強い怒りを抱いていた。なによりも無関係なイェニーを狙ったことだけは許せそうもなかった。
幼いころから兄と慕ってくれる年下の従妹が暗殺組織に人質にされたという事実は、間違いなくジャレッドの逆鱗に触れていた。
怒りに身を任せながら当たり散らすように、地面を蹴り砕いて走り続ける。
すでに周囲の景色から建物が消え、木々が目立つようになった。イェニーの捕らわれている場所までもうわずかだ。
本来ならこの生命を差し出しても、イェニーを助けてくれと懇願するべきなのだろう。しかし、ジャレッドには死ぬことができない。守りたいと思う人がいるのだ。大切な人がいるのだ。
イェニーが大切ではないとは言わない。生命を差し出せば助けることができるのなら、自分の生命など惜しくない。そう思っても、ジャレッドがいなくなればオリヴィエたちが危険に晒されてしまうことがわかりきっているため、できない。
残された手は、プファイルが言ったようにローザ・ローエンを倒すしかない。
魔力はあまり残っておらず、ナイフも一本しか持っていない。戦闘衣に着替えず学園の制服であるため、防御に関しても不安が残る。ドリューとの戦いで負った怪我も応急処置しかしていないため、走るだけで痛む。正直、プファイルと同等の相手と戦って勝てる保証はない。
それでも勝たなければいけなかった。
「ジャレッド様っ」
走り続けていたジャレッドを呼ぶ聞き覚えのある声に、咄嗟に足を止める。
背後を振り返れば馬車とすれ違っていたようだ。声の主は馬車から自分の名を呼んだのだろう。
「誰だ?」
「お待ちください。今、姿をお見せします」
馬の手綱を握っていた老人が馬車の扉を開けると、中からエミーリア・アルウェイが現れた。
「屋敷でお会いしたとき以来ですね。もしかしたらお会いできるかもしれないと思っていましたが、本当によかった。わたくしは、ジャレッド様にお伝えしたいことがあります」
「いったいなにを……申し訳ありませんが、私は今急いでいるんです。お話なら後日――」
「イェニー・ダウムの安否とローザ・ローエンに関することですので、後日ではなく今お伝えすることが最良かと思うのですが?」
「あんた、まさか……」
ハンネローネとオリヴィエを狙う者がヴァールトイフェルに依頼し、そして邪魔なジャレッドを亡き者にするためにイェニーを人質にした。そのことを知っているのは当事者たちだけだ。
祖父たちでさえ、ヴァールトイフェルが関わっていると知っていたとしても、ローザ・ローエンという名は知らない。
つまり、
「エミーリア・アルウェイ――お前が黒幕か」
「ああっ、ようやく本当のジャレッド様とお会いすることができましたね。ですが、あなたの考えていることは少し違います。ハンネローネ様たちを狙っているのはわたくしではなく、母のコルネリアです」
「お前の母親がすべての元凶なのか?」
「その通りです。そして、わたくしはオリヴィエに対する嫌がらせをしていました」
「どうして、今さら俺にそんなことを言うんだ?」
ジャレッドはエミーリアの意図がわからなかった。今、この場でジャレッドに彼女の母親がハンネローネを狙っていると教えて、エミーリアに一体なんのメリットがあるというのだ。
まさかローザ・ローエンに殺されるから構わないと思っているのなら、随分と舐められたものだと思う。
「わたくしはもう、疲れてしまいましたの」
しかし、ジャレッドの予想に反したエミーリアの答えに、内心驚いた。
「ずっとわたくしはオリヴィエが嫌いでした。お父様のお気に入りのオリヴィエ。わたくしがどんなに頑張っても、二言目にはオリヴィエと比較され続け、オリヴィエ、オリヴィエと言われる日々。嫌いになるのもしかたがないと思いませんか?」
エミーリアは自嘲するわけでもなく、淡々と語っていく。
「だから嫌がらせをしたのです。悪い噂を流した程度ですが、わたくしが驚くほど尾ひれ背びれがついてしまったので困ってしまいましたわ」
「ハンネローネさまを狙ったことに関わりはないのか?」
「そうですわね……まったくないとは言い切れません。薄々は知っていました。ハンネローネ様を憎んでいる母が嫌がらせを始めたことに。そして、嫌がらせが襲撃という危険なものへと変化して、気づいたときには母には殺意しかありませんでした。でも、わたくしは止めようとは思いませんでした」
「どうして?」
「だって、家族が憎み合うなんて貴族では珍しくないのですよ。それに、オリヴィエに痛い目にあってほしかった。必死で守ろうとしている母親を守れなかったら、あの女がどんな顔をするのか――と、考えていたらわたくしも母と同じなんだと自覚したのです」
エミーリアは悲し気な表情を浮かべて、諦めたような笑みを浮かべた。
「わたくしはオリヴィエが羨ましかった。お父様に愛され、ハンネローネ様との関係も理想の母子、トレーネという信頼できる味方もいて、そしてジャレッド様まで現れた。わたくしにはなにひとつ持っていないものを、オリヴィエは全部持っていたのです。だから、母がヴァールトイフェルを雇い入れたと知ったときも利用してオリヴィエからすべて奪おうとさえ考えました。でも、もう嫌になりましたの」
「ヴァールトイフェルになにかされたのか?」
「いいえ、そうではありません。単に、わかったのです。お母様のように誰かを排除しようとして躍起になったとしても、なにも得られないのだと。お金を使い、人を雇ってでも誰かを亡き者にしようとするお母様を父は許さないでしょう。きっとお母様だって気づいているはずです。でも、もう止められない。なら、娘であるわたくしが止めなければいけません。ずっと見て見ぬふりをしていた愚かなわたくしのけじめです」
うっすらと涙を浮かべながら、どこかすっきりした表情を浮かべているエミーリア。
「きっとオリヴィエがハンネローネ様を守ったように、わたくしもお母様を支えればもっと違ったのかもしれません。わたくしはわたくしで父の権力を使って好き勝手にやっていたので、お母様のことを真剣に考えなかった罰ですね」
「どうして君が自分の間違いに気づいたのかまで俺にはわからない。でも、間違えたと気づけて、それを正そうとしようと行動することができる君を尊敬するよ。君の母親は許されないことをしてしまったけど、君はまだやり直せる。オリヴィエさまとだってきっと仲よくできるはずだ」
「……今さらですわ」
「オリヴィエさまから君と一緒に遊んだ思い出を聞いたよ。大丈夫、オリヴィエさまは君を嫌っていない。少々、口が悪いところがあるから文句はたくさん言われるだろうけど、きっと仲直りできるよ」
「ですが、お母様はハンネローネ様を……」
エミーリアには母を止めなかった負い目がある。一言父親に言うだけで母を止めることができたにも関わらず、オリヴィエを嫌っていたため見て見ぬふりをしていた。
「確かに君にも責任はあるかもしれない。でも、君は君で母親は母親なんだ。ヴァールトイフェルは俺が倒す。全部終わらせたら、一度だけでも勇気をだしてオリヴィエさまたちと向き合おう。溜め込んでいた君の心のすべて打ち明けるんだ」
「……ジャレッド様はどうして、そこまで言ってくださるんですか? あなたはオリヴィエの婚約者、わたくしが憎くないのですか?」
「きっとオリヴィエさまの影響かな。あの人は、色々言われているけどとても優しい人だから。彼女の優しさから俺は学んだんだよ」
「……やはり、オリヴィエが羨ましい」
小さな声でエミーリアが呟く。そして、真面目な表情でジャレッドを見つめた。
「お話ができてよかったです。わたくしはお母様の所業をすべてお父様にお話しします。わたくしがお母様の暴走を止めてみせます。ですから、ジャレッド様はイェニー様を助けてあげてください」
「もちろん、そのつもりだ。後手に回っているけど、必ず助ける」
「プファイルから話は聞きましたか?」
「ああ、この場所にくるように伝言をもってきたよ」
「その伝言はわたくしが彼に頼んで持たせたものです。ローザはまだジャレッド様が向かっていることをしりません」
エミーリアから明かされた事実にジャレッドは驚く。だとすれば、イェニーを攫われているのは痛手だが、まだなんとかなるかもしれない。
「プファイルに演技をしてもらいました。わたくしからの伝言であればジャレッド様やオリヴィエが警戒してしまう可能性があったので、ローザの伝言としてあなたを呼び出したのです。今なら、ローザにも隙があるはずです。イェニー様は二階の部屋に無事にいます。ご安心ください。拘束も解いてありますので、連れだすことができればローザを相手にする必要はありません」
「それって――」
「ジャレッド様がイェニー様を助けやすいように微力ながらお手伝いさせていただきましたわ。イェニー様にはおとなしくしているようにお伝えしてあります」
「本当にありがとう」
「お礼は結構です。もとをただせば、お母様が原因なのですから。とにかく、ジャレッド様はローザを相手にせず、二階へ直接イェニー様を助けに向かってください。彼女さえ助けてしまえば、戦うことはあとでもできます」
彼女の言う通りだ。イェニーを助けることを最優先で考えているジャレッドにとって、エミーリアの助言は実にありがたい。
本当ならエミーリアを疑うべきなのかもしれないが、プファイルを送ってくれたのが彼女であるならば疑うだけ時間の無駄だ。それに、真正面から襲撃することでイェニーを助け出そうと考えていたジャレッドには、仮にエミーリアが嘘をついていたとしても、それならそれで当初の予定どおりに動けばいいだけだ。
「色々ありがとう。感謝してもしきれないよ」
「建物の外には見張りの冒険者が、わたくしが見る限り剣士と魔術師がひとりずついました。どうかお気をつけて」
「君を送れなくてごめん」
「構いません。どうぞ、イェニー様のもとへいってください」
ジャレッドは頷き、もう一度感謝の礼を述べると、エミーリアに背を向けて走り出す。
遠ざかっていくジャレッドの背中を見で追いかけながら、エミーリアは思う。
「本当にオリヴィエが羨ましいわ。そして、大切に思われているイェニー様も」
もしかしたら自分にもジャレッドと別の形で出会うことができたかもしれない。だが、そんな「もし」は存在しない。
母の所業を父に伝えればエミーリアはどうなるのかわからない。もしかすると、二度とジャレッドに会うことはないかもしれない。
「最後にお話ができてよかったですわ、ジャレッド様。どうかご無事で」
ヴァールトイフェルに立ち向おうとしているジャレッドの身を案じながら、エミーリアは自分のするべきことのために馬車へ乗り込み、父のもとへと向かうのだった。