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20.ジャレッド・マーフィーの動揺1.



 公爵家から走って屋敷へ戻ったジャレッド。

 見送ってくれたテレーゼとコンラートが馬車を用意してくれると言ってくれたが、自分の足の方が早く帰れるため丁重に断った。

 テレーゼたちにプファイルの一件を知られたくないため、平然を装っていたが、内心は焦っていたジャレッド。

 もしかしたら、今この瞬間にオリヴィエたちになにかあったら――と思うと、冷静ではいられなかった。


「あら、ジャレッド? もう帰ってきたの?」

「オリヴィエさま……よかった」


 庭で花壇の手入れをしていたオリヴィエを見つけ、ジャレッドは安堵の息をついた。安心したせいで体から力が抜けていく。とにかく無事でよかったと、驚いたようにこちらをながめる彼女を見て思う。


「何事なのかしら、そんなに息を切らせて……汗も少しかいているじゃない。なにか本家で問題でもあったの?」

「問題というか、困ったことというか、とにかくオリヴィエさまが無事ならいいんです。ハンネローネさまとトレーネは?」

「お母さまならトレーネに刺繍を教えているわ。トレーネったら、刺繍だけは苦手なのよね。だからこうして時間を見つけてはお母さまに習っているのよ。お母さまも教えるのが楽しいみたいね。わたくしは刺繍などをやりたがるような子じゃなかったもの」


 オリヴィエは花壇から離れ、手にしていた剪定ばさみを近くのテーブルにおいて、スカートについた土を払う。

 ハンカチを取り出し、呼吸を整えたジャレッドの額に当てて汗を拭ってくれた。


「それでどうかしたの?」

「あの、とりあえず、落ち着いて聞いてください」

「落ち着くのはあなたの方じゃないかしら?」

「茶々を入れないでください。――プファイルが逃げました」

「――そう」


 あまり驚きを露わにしないオリヴィエを不思議に思いながら、ジャレッドは続ける。


「プファイルに脱走するだけの体力はありません。外部から何者かが手伝ったようです」

「言うまでもなくヴァールトイフェル、よね」

「おそらくは。人数はわかりませんが、公爵が信頼していた騎士を倒すほどですので、相応の使い手のはずです」

「だからジャレッドは慌てて帰ってきたのね」


 オリヴィエは苦笑する。

 ジャレッドは彼女が笑った理由がわからず、ただ首をかしげることしかできない。


「オリヴィエさまはなぜ動じないのですか?」

「あら、動じる必要があるのかしら?」

「ヴァールトイフェルがもう現れたんですよ! プファイルと同じような使い手が現れたのかもしれないんですから、少しは慌てましょうよ!」

「慌てて、それからどうするの?」

「――え?」


 オリヴィエに問われ、ジャレッドは言葉を失った。

 確かにそうだ。

 プファイルが脱走し、新たなヴァールトイフェルが現れた可能性が高い今、ジャレッドはオリヴィエたちの安否が気になり慌てた。

 息を切らせて屋敷に戻り、オリヴィエを見つけて心底ほっとした。

 ――それで、これからどうすればいいのだろうか?

 答えがでてこない。


「ジャレッドは見えない敵と戦うのは初めてなのね」

「見えない敵、ですか?」

「そうよ。わたくしはずっと、いえ、今も見えない敵と戦っているわ。あなたのように強い魔力は持たなくても、姿が見えない敵に狙われている恐怖と常に戦っているのよ」

「――ッ」


 言われて気づく。オリヴィエはハンネローネの命を狙う何者かから母を守ろうと戦っている。側室だということしかわからず、その都度襲ってくる者も違う。一体どれだけの恐怖を抱いているのか察するに余りある。


「わたくしにとっては、ヴァールトイフェルの暗殺者でも、冒険者でも、それこそ小さな子供でも、誰が狙ってくるのかわからないのだから変わらないわ」

「そう、ですね」

「もし慌てたり怯えたりすることで、なにかが変わるならわたくしだって感情を剥きだしにするわよ。でも、そんなことをしたら相手に負けたことになるわ。だからわたくしたちは普段通りに過ごすのよ」


 汗を吸ったハンカチを仕舞い、オリヴィエは力強く微笑む。


「心配も警戒ももちろんするわ。でもね、見えない敵に怯えて隠れるのは嫌なの。襲ってくるなら立ち向かえばいいのよ。その結果負けてしまっても、わたくしたちは十分に立ち向かった、そうでしょう?」

「だけど負けたら意味がありません」

「そうね。でも――ジャレッド・マーフィー、あなたがいるわ」


 信頼の瞳がジャレッドを射抜く。


「今までトレーネに守られるばかりだったわたくしたちの前に、あなたが現れてくれた。最初はこんなにも信頼するとは思ってもいなかったわ。でも、あなたは自分を犠牲にしてでもわたくしたちを守ってくれた。だからね、わたくしだけではなく、お母さまもトレーネも、きっとお父さまもあなたのことを信頼しているのよ。だからわたくしは平気よ」

「……オリヴィエさま」

「誤解しないでほしいのだけど、なにもあなたに負担を強いたいわけではないのよ? わたくしたちはあなたに頼りきりだけど、いつまでもそうしたいと思っていないわ。もし、あなたが現状を嫌になったのなら、いつでも遠慮なくいってほしいの」

「嫌になんてなりません。俺は、あなたたちを守り続けます」


 そう、嫌になるはずなどない。負担に感じたことも、頼られてばかりだとも思わない。

 信頼されていることは嬉しいし、信頼には信頼で応えたいと思っている。

 なによりも、今さらオリヴィエたちを忘れたことにして、今までの生活に戻ることなどできるはずがない。


「ジャレッドがわたくしたちを守ってくれると言ってくれるだけで、ヴァールトイフェルだろうと関係ないわ。わたくしたちは――いいえ、わたくしはジャレッドを信じているから、目に見えない敵に恐れたりしないのよ」


 オリヴィエはジャレッドの手を取り握りしめる。

 力強いが、優しさと温もりを感じさせる彼女の手のひらに触れられているだけで、気持ちが落ち着いてくる。


「だからあなたも見えない敵に怯える必要はないのよ。もし、不安ならちゃんとわたくしに打ち明けて。ジャレッドがわたくしたちの命を守ってくれるように、わたくしはあなたの心を守りたいの。それくらいしかしてあげられないけれど、少しでも負担を減らしたいと思っているわ」


 オリヴィエの心づかいが身に染みる。

 彼女から大切に思われているのだと自覚することができた。

 ヴァールトイフェルの脅威には警戒しなければいけない。しかし、むやみに怯えることはしない。

 ジャレッドは戦うことしかできない弱虫だ。オリヴィエのような勇気は残念ながら持ち合わせていない。

 だが、それでもいい。ジャレッドにはジャレッドにしかできないことがある。そして、それはオリヴィエたちにはない魔術という戦うすべであり、彼女たちを守ることのできる力だ。

 オリヴィエが心を守ってくれるというのなら、ジャレッドは全力をもって彼女たちの命を守ろう。


「でも、ヴァールトイフェルが狙っているとなると困ったわね」

「……なにがですか?」

「あなたのかわいらしい従妹のイェニーと、もしかしたら一緒に生活するかもしれないのよ。襲撃を考えるとしばらく待ってもらった方がいいかもしれないわね」

「そうですね、きっとその方がいいかもしれません」

「……」

「……って、イェニーが一緒に暮らすんですかっ? いつの間にそんな話に?」

「気づくのが遅いわね。普通に受け入れているのかと思って驚いてしまったじゃない!」


 つい先日、イェニーと会ったばかりだというのに、なにをどうすれば一緒に暮らすことになったのか理解できない。

 そもそもイェニーのことを調べてからではないと安心できないと言っていたのは他ならぬオリヴィエだ。


「あの子のことを調べようとしたのだけど、調べることがあまりにもなくて拍子抜けしたわ。珍しくない貴族らしい箱入りお嬢さまね。でも、よくよく考えればまだ十四歳の女の子ですもの、当たり前よ。ジャレッドのように十六歳で複雑な経歴の持ち主である方がおかしいのよ」

「それは、なんと言いますか、ごめんなさい」

「ダウム男爵はきっと父からわたくしたちの事情を聞いているのね。今朝、あなたが父のもとへ向かうのと入れ替わるように、イェニーの経歴が送られてきたわ。隠していることはないというための行動なのか、お孫さんを想っての行動なのかはわからないけれど、実に簡潔でわかりやすかったわ」

「だからといってイェニーを本当に側室にする気ですか?」


 オリヴィエは目を細めてから、悪戯っ子のように笑う。


「あら、嫌なの?」

「いえ、嫌とかではなくてですね。そもそも、俺は爵位を継ぐことができないので、側室などを持つ貴族の義務もないんですよ?」

「そうね。だから、あなたのことは一応ダウム男爵家の跡継ぎにしてあるそうよ」

「え? 初耳なんですけど……」

「そうでしょうね。ダウム男爵がそのことを知らせる前に、わたくしの婚約者に選ばれるなど忙しかったから言うタイミングがなかったのでしょうね。そう考えるとわたくしのせいね、ごめんなさい」


 祖父が自分を跡継ぎに考えてくれていることは知っていたが、話がそこまで進んでいたとは知らなかった。

 なによりも、イェニーが一緒に暮らすかもしれないということに、ジャレッドはただ困惑するばかりだ。

 プファイルの脱走、ヴァールトイフェルの新しい刺客の可能性があるなか、一体どうなっていくのか予想もできなかった。



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