【間章7】動き出す竜1.
その日、璃桜は巨大な気配が自分に向けられたことに気づき、手に持っていたティーカップを落としかけた。
「璃桜どうしたのですか?」
美味しそうにお茶とクッキーを頬張っていた少女が、突如硬直したことに一緒にいたトレーネが訝しむ。
「……なんでもないのじゃ」
「そうですか?」
「うむ」
どこか心配そうな声だが、トレーネの表情に変化は見られない。しかし、一緒に暮らしともにする時間が多い璃桜には彼女が自分を案じてくれていることがわかった。
ゆえに何事もないように振る舞う。
「そうじゃった。妾はご近所にジェニファーちゃんと遊ぶ約束をしておった。ちょっとでかけてくるぞ」
「構いませんが、あまり遅くならないでくださいね」
「わかっておる。心配せずとも、夕食までには帰るぞ」
「はい。わかりました。いってらっしゃい」
「うむ。いってくる」
少しわざとらしかったかもしれないが、璃桜はトレーネの様子を伺うことなく席を立つと、屋敷を出ようとする。
途中、ハンネローネに出会い、出かけてくることを伝えると、笑顔で送り出してくれた。
以前は、いくら璃桜が竜とはいえ、ひとりで屋敷から出ることをひどく案じられたのだが、今は違う。
幼い璃桜にも、かつてハンネローネが命を狙われていたことは知っている。ジャレッドがさっさと片付けなければ、愚かな人間を一掃しようと考えていたくらいだ。
屋敷を出た璃桜は、周囲に誰もいないことを確認すると、地面を勢いよく蹴った。
人間では到底叶うことのない跳躍をすると、実に簡単に王都を飛び越えてしまった。少女が着地したのは、王都の出てすぐのところにある森だった。
木々の生命力、動物の数が豊富で、たまに訪れているお気に入りの場所だ。魔力も豊富であるため、居心地がいい。
だが、今日はのんびりするために訪れたのではない。ここから自分へ向けて合図をした「同種」に会うために訪れたのだ。
その者の姿はすぐに見つかった。隠れているつもりはなかったのだろう。
青い民族衣装に身を包んだ、線の細い美人だった。宝石のように美しい青い髪を地に着くまで伸ばした美人は、璃桜によく似ていた。もし璃桜が成長すれば、きっとこの人物に負けない美女になっただろう。
「久しぶりね、璃桜」
風鈴のような涼しげな声で、美人が微笑んだ。
次の瞬間、くしゃり、と璃桜が顔を歪めてシクシクと泣き始める。
「……ううっ、兄上が姉上のような格好をして、女の口調で話しておる。やっぱり悪夢じゃ」
「……失礼な妹ね。私がどんな喋り方をしても自由でしょう」
「晴嵐兄上」
「姉上と呼びなさい」
再び璃桜がシクシクと泣く。
そんな妹を見て怒ったような表情をしている美人は、璃桜の『兄』晴嵐だった。
もともと彼女はジャレッドに敗北したのをきっかけで女のように振る舞い出した兄晴嵐を死んだことにして、敵討ちだとウェザード王国に現れた。八つ当たりであることを承知しながら、ジャレッドを襲った。
その後、璃桜自身が驚くほど歓迎されてしまい、今ではオリヴィエの屋敷で家族として暮らしている。璃桜もジャレッドたちを本当の家族だと思っているのだ。
元兄がいる竜王国に帰ることなく、ずっとウェザード王国で暮らしてもいいかなと思っているのは秘密だった。
「兄上がやっぱり元兄上のままじゃった」
「あのね、泣かないでくれるかしら。私はね、もう自分に素直に生きるって決めたの。それに、あなたジャレッドのことを兄って呼んでいるみたいじゃない。私、ちょっとジェラシーよ」
「きーもーいーのーじゃー!」
「お黙り!」
妹から死んだような目を向けられる晴嵐だったが、表情を変え、璃桜に向き直る。
少女も真面目な話をしようとした元兄に、佇まいをなおした。
「さて、おふざけはおしまいよ。真面目な話をしましょう。璃桜、ウェザード王国の内情をおしえてくれてありがとう。嫌な役回りをさせてしまったわね」
晴嵐の言葉に璃桜が苦い顔をした。
璃桜は別にスパイまがいのことをしたかったわけではない。竜王国を家出同然で飛び出してしまったことを反省し、乳母に手紙を送っていたのだ。
その内容が、オリヴィエの屋敷であったことや、巻き込まれたことなど書くことは多かったのだが、まさかウェザード王国の内情が手紙のせいで伝わっているとは思っていなかった。
無論、手紙を受け取った乳母も、そんなことは微塵も思わずかわいがっていた璃桜の手紙に喜んでいた。
しかし、手紙のやり取りを知った晴嵐が乳母から内容を聞き、必ず妹からの手紙が届いたら教えるように命じたのだ。
乳母も心が痛んだのだろう。璃桜への手紙に、ひっそりと兄の行動を教えたのだ。
「妾はスパイなどしておらん。ただ、いろいろなことを伝えたかっただけじゃ」
「わかってるわ。でも、私には情報が必要だったの。ごめんなさい」
「……構わぬ。許そう。じゃが、なぜじゃ? この国のことを知りたいのなら、竜王国の間者がいるじゃろう?」
「それはね、人間たちが始祖と呼ぶ魔術師の行方を追っているからよ」




