発売記念SS
ジャレッド・マーフィーはヴァールトイフェルの暗殺者プファイルとの死闘で負った傷を回復させるため、アルウェイ公爵家別邸の裏庭に直接座り、坐禅を組んでいた。
地属性魔術師であり、精霊に干渉できる稀有な才能を持つジャレッドは、地に触れて精霊たちと交信することで、失った体力と魔力を少しでも取り戻そうとしているのだ。
「……全快にはまだ遠いな」
一度死にかけながら、懲りずに戦ったせいで想像以上に体力と魔力が少年魔術師から奪われていた。
寝ていればいずれ治るのだが、十歳年上の婚約者オリヴィエ・アルウェイがひどく心配しているため、少しでも早く治そうと彼女の目を盗んで現在にいたる。
ベッドにいないことを知られてしまえば、きっとオリヴィエは烈火のごとく怒るだろう。
「あの人って、怒ると怖いんだよなぁ」
怖い、と言いながらジャレッドの顔に浮かぶのは笑みだ。
自分の身を案じ、少々過保護と思える態度を取り、言うことを聞かなければすぐ怒って、子供のように不機嫌になるオリヴィエの行動ひとつひとつが新鮮だ。
きっと楽しいなどと言えば、やはり彼女は怒るだろう。
今、こうして婚約者のことを想うことができるのは彼女と彼女の母親を暗殺者から守ることができたからだ。
ジャレッドにとって、初めて誰かのために命を賭して戦った意味があるものだと自信を持って言える。
オリヴィエの過去を、母への想いを知り、助けたいと思った。否、助けなければいけないと思った。
理不尽なことは嫌いだ。誰かの都合で奪われていい命などない。
かつて理不尽に命を奪われかけたジャレッドだからこそ、そんなことを考える。だが、同時に、ジャレッドが理不尽に命を奪う側に立っていることがわずかに彼を苛立たせた。
なにもジャレッドが誰かの命を理不尽に奪ったという話ではない。ときには魔術師協会からの依頼で魔獣の命を人間の都合で奪うことはあるが、気にしているのはそのことではない。
ジャレッドは優先順位さえはっきりしていれば、たやすく人を殺すことができる。
今まで考えたことがなかったが、つい先日のプファイルとの戦いで自覚した。
婚約者とその母、そして彼女たちを守るメイドを守るために、ジャレッドは暗殺者の少年を殺そうとしたのだ。
オリヴィエたちを守るためにはじめた戦いだったが、プファイルに勝利し情報を持っていないとわかると殺すことを決めた。感情に任せて、怒りのまま理不尽に命を奪おうとした。
今までに人間の命を奪ったことがない、などと綺麗事を言うつもりはない。だが、その大半が己の身を守るためであり、必要だったからだ。わずかでも躊躇っていればジャレッドは生きていない。そのような状況下で相手を殺めても心が痛むことはなかった。
しかし、今は違う。戦いに勝利しながらトドメを刺そうとした。オリヴィエの危険を排除したい理由だけではなく、婚約者を狙う黒幕にたどり着くことができなかった怒りに身を任せて命を奪おうとしたのだ。
オリヴィエが止めてくれなければ今ごろプファイルを殺していたことを後悔しただろう。
黒幕の名前を知らない暗殺者の少年だったが、黒幕には会っている。顔を見ているのだ。
もう少しで貴重な目撃者を失うところだった。
「どうして冷静でいられなかった?」
自答しても答えは出てこない。
はぁ、とジャレッドは盛大にため息をつく。気づけば、精霊たちの力を借りて回復を試みるはずが、精霊たちが消えていた。
「あれ?」
生来、精霊というのは落ち着きのない性格をしている。おとぎ話や神話に出てくるような子供をさらったりすることなどすることはないが、とにかく好奇心旺盛である。
赤子を見つければ歌を歌い。泣いている子供をみつければ泣き止むまでそばにいてくれる。歌ったり、踊ったり、遊んでくれたり、と子供にとっては良き隣人だ。
精霊に干渉する能力がなくとも子供には精霊がはっきりと見え、意思疎通が可能だという。精霊のほうから意思疎通ができるようにしている説もあるが定かではない。彼らはいちいちそのようなことへの答えはくれないのだ。
またいたずらな一面も多々あり、ちょっとしたいたずらから大きないたずらまですることがある。おもしろいことに、彼らにとって善意でやっている場合も多く、嫌いな人間には一切いたずらをしないという。
このようなことがあるからこそ子供をさらうなどという伝承があるのかもしれない。
そんな精霊たちだが、ジャレッドから離れて建物のそばにいた。窓からなにかを覗いているようだ。
「また菓子の匂いにつられたのか?」
立ち上がってジャレッドは精霊たちに声をかける。彼らはかわいい人差し指を口元に当て「しー」と静かにするよう訴えた。
なにかを真剣に見ているらしい。彼らがのぞいている部屋になにがあったのか思い出せず、後ろから覗いて見る。
「――い゛」
そして言葉を失った。
窓の向こうでは一糸まとわぬオリヴィエがシャワーを浴びていたのだ。
精霊たちに厳密な性別はないという。ならばスケベ心はないと信じたい。いやいや、そもそも精霊が人間のシャワーを覗いてなんの得があるというのだ。
ジャレッドは思考する。生まれたままの姿であるオリヴィエから目を離さず思考し続ける。
目を逸らすことも、この場から立ち去ることも、精霊たちを叱ることもせず、呆然と立ち尽くしていた。
刹那、なにを思ったのか精霊たちが窓をコンコンと叩く。
――ひぃいいいいいいいいっ!
ジャレッドは心の中で大きな悲鳴をあげた。
ここで例え傷口が開こうと全力で逃げればまた違った結末が待っていたかもしれないが、ジャレッドは足を動かすことをしなかったのだ。
オリヴィエの裸体をまだ見ていたかったのか、もしかすると心奪われていたのかもしれない。それとも、これから起こることに恐怖して身を竦ませたのかもしれない。
つまり、オリヴィエと目が合った。
「ジャレ、ッド?」
「あ、あはははは、オリヴィエさま、聞いてください誤解です」
すぐそばでは精霊たちが「やったぜ」「うまくいきましたー」「恋のキューピッド作戦」「成功だ」と喜んでいるのがわかる。
つまり精霊たちがどういう理由か定かではないがジャレッドに気を利かせたらしい。
――大きなお世話だぁああああああ!
「……あなたも十六歳の男の子なのね。まさかこんな堂々と覗き見されるなんて思っていなかったわ」
「違います。いえ、その、見てしまったのは事実ですが、そんなつもりはなく、精霊が、精霊たちが悪いんです」
「ふうん。どこに精霊たちがいるのかしら。ご紹介くださらない?」
ひどく冷たい目でジャレッドを見るオリヴィエは、裸体を隠すことなく淡々に言葉を発する。
「それは、その、オリヴィエさまにはきっと見えてないじゃないかな、って」
間違ったことは言っていないが、ジャレッド自身が思う。これでは精霊のせいにして覗きをした愚か者のいいわけだ、と。
実際オリヴィエもそう思ったのだろう。そして、ようやくタオルで慎ましい胸を隠すと、みるみる頬を紅潮させる。
羞恥か、それとも怒りなのか判断できない。
次の瞬間、
「この変態っ」
彼女の怒りの声とともに衣服の入った籠が投げられジャレッドの顔に激突する。
不覚にも足をもつれさせ、背中から地面に倒れた少年に心底蔑んだ視線を送った婚約者は「ふん」と鼻を鳴らして浴室の奥に消えていく。
誤解を解くことも、弁明もさせてもらえなかった少年の腹の上では、精霊たちが嬉しそうに踊っていたのだった。
その日の夜、不機嫌なオリヴィエを必死になだめ、謝罪したジャレッドは、「積極的ねぇ。若いわぁ」と喜んでいる婚約者の母の誤解を解くことに時間と労力を費やすのだった。