34.友人不在の学園8. 危機、激突、王立魔術師団5.
「――なぜ、なぜだ――どうして、お前が、この私の鞭を容易く掴むことができるんだ!」
命を奪わんと放たれたミヒャエラの鞭がラーズに届くことはなかった。
なぜなら――意識を手放したラーズを抱きかかえたクリスタ・オーケンが炎を纏う鞭を素手で握りしめていたから。
「なぜだぁあああああっっ!」
ミヒャエラの絶叫を無視して少女は自分を最後まで守ろうとしてくれた大切な友人の安否を確認して、わずかに安堵の息を吐いた。
傷つき消耗こそしているが、命の別条はない。
意識を失っていることを一度確認すると、彼を抱きかかえたまま立ち上がる。そして、動揺を隠せない王立魔術師団副団長を睨みつけた。
「よくもラーズくんを――」
友人たちが知る、天真爛漫を絵に描いたようなクリスタが発したとは思えない、低く唸るような声。ラーズに意識があれば、目を大きくして驚いただろう。
明確な敵意と殺気を女性に向ける少女の姿は、今まで逃げ回っていたなどと思えない。
「なんだ、お前は?」
「ラーズくんだけじゃない、ヘリングくんだって、あなたたちのせいで――」
「何者だと聞いているんだ!」
返答を得られなかったミヒャエラが炎の塊を放つが、クリスタは怯えることなく、右足を軽く上げて弧を描いた。
「――は?」
たったそれだけで、敵意を持って放たれた炎がかき消されてしまった。
「なに、を、した?」
「別に、なにも。あなたの魔術は――とても弱いの。私に傷を負わせたいのなら、せめて――マーフィーくん程度にはなってほしいな」
そんなことを無表情のまま言うクリスタは、ミヒャエラの視界から消えた。
「え?」
刹那、衝撃が腹部に走りミヒャエラの体が宙を舞う。
攻撃を受けたのだと気づくことができぬまま、廊下に叩きつけられ、肺から空気を吐きだし呼吸が止まった。咳き込むことさえ許されず、酸素を求めて口を開くも、呼吸すらままならない。
「なにをされたのかわからないって顔をしているけど、その程度で王立魔術師団副団長を務めているなんて――私、笑っちゃうよ?」
唇を吊り上げたクリスタは、無表情から一変して虫けらでも見るような目を向ける。
「――ひ」
幼さを残す少女の瞳に射抜かれたミヒャエラは、ようやく呼吸が可能になったにも関わらず酸素を吸うのではなく、悲鳴を上げることを優先した。
生まれた恐怖が、呼吸よりも、怯えることを優先したのだ。
クリスタはゆっくりと抱きかかえていたラーズの体を降ろす。壁に背を預け、意識を失っている彼に負担がかからないよう気をつけながら、慎重に動く。
両手が自由になった彼女が再びミヒャエラに視線を向けて歩きだす。
氷のように冷たく殺意と怒りが宿った瞳は、青白く輝いていた。
「お前は、お前はいったい、なんなんだ!?」
再び絶叫したミヒャエラは、眼前の少女をなにひとつ理解することができず、怯え魔術を放ち続ける。
炎を纏った鞭が四方八方に広がり傷つけんと迫るが、クリスタは退屈だと言わんばかりに小さく息を吐くと――細い指で簡単に鞭を掴んでしまう。
「これでお終いなの?」
ぐん――、とその小さな身体のどこにと戸惑うほどの膂力をもって、ミヒャエラの体が引き寄せられた。
足を地から話してしまった体は引き寄せられる力に従うだけ。
数多の実践を潜り抜けた経験を持ちなら、防御も回避もすることがきないミヒャエラの頬に――クリスタの右の拳が突き刺さった。
大きく宙を舞い、再び廊下を滑るように転がっていくミヒャエラに、少女は冷たい声をあげた。
「立って――。私の大切な友達を傷つけたこと、許さない。償いをしてもらう」
痛みと恐怖に体を震わせ、なんとか立ち上がった王立魔術師団副団長は、戦うべきか逃げるべきか迷う。
現時点で手も足もでていないが、ミヒャエラの王立魔術師団としてのプライドが逃げだすことを躊躇わせた。
なけなしの意地を振り絞り、恐怖をかき消さんと彼女が叫ぶ。
「役に立たない変わり者の王子を守って、お前が戦うと言うのか! この王立魔術師団副団長ミヒャエラ・ギーレンと!」
「私が、あなたと? ――笑わせないで。私に傷ひとつつけることができず、怯えているあなたと私が戦うですって? その程度の魔力量と、児戯に等しい魔術しか使えないくせに――私とあなたじゃ、戦いになるはずがないじゃない」
憐れむようなクリスタの言葉に、ミヒャエラの視界が真っ赤に染まった。
このときだけは、恐怖よりも怒りが勝った。
後先考えることなく高めた魔力を一気に放出する。魔力が炎と化し、周囲の酸素と魔力を取り込み、黒みを帯びた業火へと変わる。
炎の使い手であるミヒャエラ自身の身を焼くほどの火力が――、
「優れた身体能力を持っていようと、所詮は非魔術師なのは変わらない。死んでしまえ、小娘っ!」
クリスタに向かって放たれた。
少女の視界いっぱいに赤が迫る。灼けつく熱が廊下の床と壁を焼き灰と化していく。対応を間違えれば、意識を失っている友人も同じように灰となるだろう。
「いいよ。あなたがそのつもりなら――戦ってあげる」
迫りくる業火を前に、焦ることも怯えることもなくクリスタは拳を握り、正眼に構え腰を落とす。
ひとつの呼吸で、空気中の魔力を自らの体内に取り入れた。魔力はクリスタの血流に乗り、体中を駆け巡ると爆発的な力と変換され驚異的な身体能力となった。――身体能力強化魔術だ。それもジャレッドが使う未完成のものではなく、無駄ひとつない完成形のものだ。
一呼吸で魔力を取り入れ、力に変換した少女にミヒャエラが目を剥く。が、遅い。
ふたつめの呼吸で、王立魔術師団副団長が声を発するよりも早く、静かに地面を蹴った。少女の足に紫電が走り、消えた。いや、消えたとしか認識できない速さで動いたのだ。
刹那、迫っていた業火が四散した。
魔力と紫電を帯びた少女の移動だけで、相殺されてしまったのだ。
再び少女が姿を現したのは、ミヒャエラの眼前だった。お互いの呼吸が触れあうほどの距離に音を立てることなく現れた少女は、流れるような動きで握っていた拳を驚愕を張り付けている女性の腹部にそっと押し当てた。
その刹那――ミヒャエラの腹部に大きな穴が開き、上半身と下半身が両断された。
下半身をそのままに、上半身だけ飛んでいくミヒャエラは轟音を聞く。少女の一撃が、自分のみならず後方の壁までも穴をあけたのだと気づくことなく宙を舞い続ける。
「……化け物、め」
ようやく発することのできた言葉は、魔術師として生きてきた生涯の中で初めて出会った化け物に対する畏怖だけ。
視界が青に切り替わる。建物の中にいたにもかかわらず、なぜ青空が見えるのか疑問に思ったが、すぐにどうでもよくなった。
背と頭部に衝撃と痛みが走ると同時に、耳障りな悲鳴が届く。
受け身も取れないどころか、力もなにも入らない体が地面を転がり土を舞わせた。
いつのまにか、少年少女たちの顔が見えた。恐怖と驚愕を表情に浮かべ、こちらを見ている。そして、絶叫と思われる悲鳴があがった。
鬱陶しい、と思ったそのとき――ひとりの男性と目が合った。彼もまた驚きを禁じ得ないとばかりに目を見開いている。
彼の名が思い出せない。自分の名を呼んだ気がするが、声が聞こえない。
大切ななにかを忘れていることが少しだけ悲しかった。
――そういえば、私の名前ってなんだっけ?
「…………あ」
自分になにが起きたのか理解できぬまま、仕えていた主の名も、自分の名前さえも消失したミヒャエラ・ギーレンは眠るように静かに絶命した。




