29.ジャレッド・マーフィーの決意2.
祖父の屋敷でシャワーを浴びたジャレッドは、手の治療をやり直すと、最低限の身支度を済ませた。
祖父母にオリヴィエの屋敷で暮らすことを決めた旨を伝えたせいで戸惑われてしまうも、公爵家のお家事情をすべて話すわけにもいかないので、オリヴィエが早く一緒に住みたいと駄々をこねたと言って誤魔化した。
途中、従姉妹のイェニーに屋敷を出ていくことがばれてしまい、不機嫌になられてしまったが、彼女のことは祖父母に任せてジャレッドはオリヴィエの屋敷に戻った。
三時間も経たずに戻ってきたジャレッドにオリヴィエは「本気だったのね」と呟いていた。ハンネローネは未来の婿との同居が嬉しいようで歓迎してくれて、無表情のトレーネはどこか警戒しているようだった。
「トレーネちゃんが部屋を用意してくれてあるから、我が家だと思ってね。これから仲よくしていきましょう」
「はい。よろしくお願いします」
公爵夫人が自ら部屋に案内してくれた。彼女は心底嬉しそうに笑顔だ。
「オリヴィエちゃんもジャレッドさんと一緒に暮らせることができるのが嬉しいみたいで、さっきからそわそわしていたのよ」
「していません!」
無言でついてきていたオリヴィエが不機嫌な顔をして反論するが、ハンネローネの耳には届いていないようだ。
オリヴィエも母のことをよくわかっているのか、それ以上反論をしなかった。
荷物を部屋に置いたジャレッドはハンネローネに引きずられるまま、屋敷の中を案内された。オリヴィエは二人のあとをついてくるが、母から話を振られたときだけ口を開く程度で、なにやら考えるようにジャレッドに視線を向け続けていた。
無論、ジャレッドはオリヴィエの視線に気付いていたが、あえてなにも言わずハンネローネに付きあい続けた。
屋敷の案内を終えたハンネローネが満足すると、ジャレッドのことを色々と教えてほしいと言ったので、お茶にすることになった。トレーネはそうなることを予期していたのか、すでに支度を終えており、手入れがいき届いた庭の花々がよく見えるテラスに案内された。
ハンネローネは上機嫌で、そんな母を見てオリヴィエも顔をほころばせている。
質問攻めになったジャレッドは丁寧にひとつひとつ返事をしながら、ときどきオリヴィエとの未来設計を聞かれ戸惑い、その度にオリヴィエが大きな声をだすことを繰り返しながら、あっという間にお茶会を終える。
荷物をほどくことを理由に用意してもらった自室の戻ったジャレッドが、魔力を介して屋敷内の精霊たちにコンタクトを取ろうとしていると、
「入るわよ、ジャレッド・マーフィー」
ノックもなくオリヴィエが部屋に現れた。
拒む理由もなかったので、もともと部屋の中にあった椅子へ座るようにすすめると、オリヴィエは素直に腰をおろし、そして不機嫌な顔でジャレッドを睨む。
「どういうつもり?」
「どういう意味ですか?」
「素直に話す気はないとわかっていたけど、なにか企んでいるようね」
「考えはしていますが、企んではいませんよ」
「じゃあ、なにを考えているのか教えてちょうだい。そして、どうして急に同居する気になったのかも教えて。だいたい、あなたは同居に乗り気じゃなかったでしょう。なによりも、わたくしとの婚約話もお母さまを安心させるためだと知っていたはずなのに……」
意図がわからないジャレッドの行動が不安なのだろう。オリヴィエの声がだんだん小さくなっていく。
ジャレッドは同居に困惑はしていたが、乗り気でなかったわけではない。進んで同居したいと思ったわけでもないが、オリヴィエの母を想う気持ちに触れていたので付きあうことも悪くないと思っていた。
「逆に聞きますが、オリヴィエさまが俺に隠していることを教えてくださいと言ったら、この場で教えてくれますか?」
「隠していることってなにかしら? もしかして、昔の男のことが気になると言うつもり?」
「オリヴィエさまに関しては流れている噂と違うことを知っているので、そんな心配はしていません。それとも、男がいたんですか?」
「いないわよ! 悪かったわね、年齢がそのまま彼氏いない歴で!」
「いや、悪いとか言っていないじゃないですか……」
貴族の令嬢とはいえ、婚約者がいない場合は普通に男性と知りあい付き合うこともあると聞く。だが、やはり稀だろう。中には家が没落してくれてせいせいしたと言う令嬢までいる始末なので、貴族の男女関係は想像以上に潔癖だ。
だが、男子の中には家督を継げない次男、三男が婚約者の決まっていない令嬢と恋人になるケースもあり、一般の女性と恋に落ちたりすることもある。
男女交際を固く禁じている家もあれば、けじめさえつけていれば自由にできるなど、貴族もいろいろだ。
とはいえ、ジャレッドが聞きたいことはオリヴィエの彼氏いない歴などではなく、襲撃者の件だ。
アルウェイ公爵も今までの襲撃を知っていたかどうかまではわからないが、少なくともハンネローネたちを別宅に住まわせているのは正室でありながら立場が弱い彼女たちを守るためだと聞いたばかりだ。
しかし、オリヴィエはそのことに関してなにも話してくれない。
「俺が知っておくべきことはありませんか?」
「あなたが、知っておくべきこと?」
「今日から俺はこの屋敷で、オリヴィエさまとハンネローネさま、トレーネたちと暮らします。その上で、俺が知っておかなければならないことはないんですか?」
できることならオリヴィエの口から聞きたいとジャレッドは願った。
しかし、
「――ないわ」
ジャレッドの願いは叶うことなく、オリヴィエはきっぱりと言い切った。
「あなたはなにも知らなくていいの。わたくしがあなたに求めていることは、ただひとつだけ――お母さまのために婚約者のふりをしてもらうこと」
感情のこもらない瞳でジャレッドを見据えると、
「どんなことを嗅ぎつけて、なにを企んでいるのか知らないけれど、思い上がらないで。ジャレッド・マーフィー、あなたはあくまでも婚約者のふりをしているだけなのよ。仮にわたくしがなにかを抱えて、あなたに隠していたとしても、話す義理もなければ必要もないわ」
「わかりました」
「あら、随分とあっさり納得するのね」
「別に納得もなにも、俺が知るべきことがないのであればそれでいいんです」
オリヴィエの冷たい物言いになにも感じていないとばかりに返事をすると、どこか拍子抜けしたように彼女は肩をすくめた。
「オリヴィエさま」
「……なにかしら?」
「日課の魔力集中をしたいので、ひとりにしてくれませんか?」
「あら、ごめんなさい。じゃあ、夕食になったらトレーネが呼びにくるはずだから覚えておいてね」
それだけ言うと、どこか訝しげな瞳を一度だけジャレッドに向けたオリヴィエは部屋から出ていった。
「ま、急に聞かれても言うわけがないか」
オリヴィエが簡単になにもかも話してくれるとは思ってもいなかった。
ジャレッドから自分が襲撃者に襲われ忠告されたことを告げれば話は違ったかもしれないが、いたずらに警戒心をもたせることはしたくない。
それではなんのために自分がこの屋敷にきたのかわからなくなる。
するべきことはひとつだけ。
暗殺組織ヴァールトイフェルが襲撃してくるならすればいい。撃退し、捕縛し、黒幕を吐かせるだけだ。
誰がヴァールトイフェルへ依頼したのかわかれば、アルウェイ公爵が自らその黒幕を断罪するだろう。
ジャレッドはオリヴィエたちを守れればそれでいいのだ。
「とりあえず、保険をかけておくか」
ジャレッドは窓枠に足をかけると、庭に向かって静かに跳んだ。部屋は二階だったが、着地は音もなく、平然とおこなわれた。
魔力を練りながら精霊たちと交信して、屋敷の数カ所に保険を施していく。
「忠告されたのが今朝だから、早ければ今晩にもヴァールトイフェルはくるだろうな」
どうしてこれほどまでオリヴィエたちを守りたいのか自分でも理解できないが、大陸一の暗殺組織であろうと彼女たちを傷つけさせるつもりはない。
暗殺組織を使ってまでハンネローネを狙う卑怯者を、必ず暴いてみせると、ジャレッドは固く決意していた。