14.暗躍2.
「失態だったわね」
放課後の空き教室に、静かだが怒りを込めた少女の声が響いた。
少女は手ぐしで波打つブロンドの髪をすきながら、表情こそ笑顔を作っているが、つくりもののように冷たく恐ろしさを感じさせていた。
銀縁の眼鏡越しに射抜くような視線を向けられ、ドリューは椅子に座る彼女を前に膝をつき、恐怖から小刻みに体を震わせている。
「も、申し訳ございません!」
床に額をこすりつけて深々と謝罪するが、少女から送られる視線は冷たい。
ドリューは心底ジャレッド・マーフィーを恨んだ。
ただラウレンツ・ヘリングを利用してジャレッドの悪い噂に信憑性も持たせるだけのはずだった。ジャレッドに対する不満と、憧れを抱き友人になりたがっていたラウレンツの心を煽り焚きつけることなど容易いと思っていた。そして実際簡単だった。
ベルタとクルトという双子の姉弟から警戒されていたものの、ラウレンツは頼ってくる人間を見捨てない甘い男なので、本人に警戒されていなかったおかげでことは楽に進んだと思われた。しかし、ドリューの想像を超えた展開が待っているとは夢にも思っていなかった。
まさかラウレンツが心中を吐露し、ジャレッドが受け入れて和解してしまったのだ。
これにはドリューは驚きを隠せなかった。茨に拘束されていなければ、声を出して驚いたか、陳腐な友情劇に爆笑していただろう。
結果として、したくもない謝罪をしなければいけない状況に陥っている。
「貴方には見込みがあると思っていたのだけど、勘違いしてしまったようね」
「そんなことは――」
「いいわけは聞きたくないの。わたくしは、今日、この瞬間、頼んでいたことがすべてよい結果を出したことに喜びながら帰宅したかったのよ?」
「申し訳ございません!」
「謝らなくていいわ。でも、わたくしの胸にくすぶる不快感はどうしようかしら?」
人気のない教室に少女とドリューは二人きり。そしてドリューは成績が悪くても魔術師だ。本来なら魔力の欠片も持たない小柄な少女など組み伏せることなど容易い。
だが、そんなことをすれば首が飛ぶ。比喩ではない、物理的に。
とはいえ、この場から逃げだすこともできない。
少女は知っているのだ。ドリューが抵抗もできなければ、逃げだすこともできないことを。知っていながら、怯えるドリューを笑っているのだ。
「貴方は没落したとはいえ貴族の血を引いている。だからわたくしは貴方のために魔術師の血を取り入れたい一族を紹介してあげると約束したわよね」
「は、はい」
「でも、わたくしは慈善活動をしたいわけではないのよ?」
「忘れてはいません」
「わたくしは、ジャレッド・マーフィーの評判を下げるために、ラウレンツ・ヘリングをけしかけて噂を真実であるようにしてほしいとお願いしたわよね? 成功報酬として一族を紹介する。貴方が気に入られればお婿さんになれて、もしかしたら貴族の一員に加われるかもしれない――そういう約束だったはずよね?」
その通りだった。
ドリューはなにもジャレッドやラウレンツが憎くて仕掛けたわけではない。
ラウレンツの態度は鼻についたし、伯爵家の息子だからといってプライドが高い一面にうんざりしたこともあったが、成績が乏しいにもかかわらず嫌な顔をせず助けてくれた。
ジャレッドは魔術師として嫉妬心もあるが、憧れを抱いていた。
だが、誘惑には勝てなかった。
二人を完全に仲違いさせるだけで、学園中に少女が流した多くの噂に信憑性をもたせることができれば、ドリューは再び貴族の一員に戻れる約束だった。
魔術師の血を欲しがる貴族は多い。しかし、魔術師協会が目を光らせている。それでも、ドリューのように貴族と縁を結びたい魔術師は少なくない。そこへチャンスを与えてくれたのが少女だった。
しかし、蓋を開けてみれば失敗だった。
挙句の果てに、ジャレッドとラウレンツが友になるきっかけを与えてしまったのだ。
大失態としか言いようがない。
「ジャレッド・マーフィーが動いてしまったわ。関わろうとしなかった噂話を否定してくれたのよ。しかも、ラウレンツや生徒会も協力したせいで噂は所詮噂でしかなくなってしまったわ」
知っているからこそ、ドリューは恐怖で顔をあげることができない。
「わたくし、それほど難しいことを言ったかしら?」
わざとらしく考える素振りをしてから少女は首を振る。
「いいえ、していないわ。貴方にはがっかりしてしまったわ。もういいわ、いきなさい」
「も、もう一度チャンスをください!」
「あら、貴方にまだなにかできるのかしら?」
「なんでもします。ですから、もう一度だけ、チャンスください」
「そうねぇ……」
ドリューの言葉に、少女は待っていたと言わんばかりに唇をつりあげる。
少女の顔を見ることができないドリューは気付くことができないが、悪巧みを思いついた子供のようだった。
「なんでもすると言った貴方の覚悟に免じてもう一度チャンスをあげましょう」
ドリューが顔をあげて、感謝の言葉を発しようとしたが、
「――ジャレッド・マーフィーを殺しなさい」
あまりにも不可能なことを言われてしまい、硬直した。
「あら、お返事は?」
「――です」
「聞こえないわ」
「無理、です!」
少女は不快を露わに眉を潜めた。
「あらあら、どうしてかしら?」
「私は留年寸前の落ちこぼれ、あいつは宮廷魔術師候補となった魔術師なのですよ!」
「だけど、所詮は候補でしょう? 同い年の魔術師なら手も足もでないなんてことはないのだと思うのだけど?」
「手も足も出ません! 私とジャレッド・マーフィーでは魔術師として立っている次元が違うのです!」
断言するドリューだが、少女にいまいち言葉が伝わっていない。
しかし――それが普通だ。
ジャレッド・マーフィーが魔術師として高みに立っていることは同じ魔術師でなければわからない。
飛竜の群れを壊滅させた、海魔を倒したとどれだけ言葉にしても、ただ凄い、としか魔術師以外では思えない。いや、魔術師でも多くの者が自分より優れている程度にしか考えていない。だが、ドリューは知っていた。
見ていたのだ。偶然、ジャレッドが魔術を使う瞬間を。
先ほどの茨だけでも詠唱も動作もなかったことに驚きを禁じ得なかったが、ジャレッドの魔術はそんなものではない。
魔術師がひとつだけしか魔術属性も持たないにもかかわらず、ジャレッドは三つの魔術属性を持っている。ひとつひとつの属性が、熟練の魔術師レベルであることは言うまでもなく、当たり前のように三つの属性を同時に操り、応用さえするのだ。
ジャレッドは呼吸するように当たり前に、ドリューの見ている前で魔術を使って敵を駆逐した。
生まれ持った手足を当たり前に使うかのように、あまりにも簡単に、無駄がなく、そして強力だった。
ドリューでは逆立ちをしても勝てるはずがない。
魔術師の多くが魔術師であることに誇りを持ち、魔術がすべてだというにもかかわらず、ジャレッドは魔術を手段のひとつにしか思っていない。本人は否定するだろうが、体を鍛え、剣術を学び、格闘技の訓練をしているのを見れば誰でもドリューと同じことを思うだろう。
その証拠に、ジャレッドは魔術を必要以上に使おうとしない。戦いに関しても魔術を使わないですむなら武器を使うほどだ。朝のように、感情を爆発させれば魔術を使うこともあるようだが、それでも無意識か意識してか力をかなり抑えていることくらいわかる。
魔術師の実力では敵わないとわかっていたからこそ、ラウレンツをぶつけて評価を落とそうとした企てに乗ったのだ。見返りも魅力的であったが、才能に恵まれなかった嫉妬をぶつけるには実にいいチャンスだったのだ。
「貴方、震えているわよ?」
ドリューはジャレッドが恐ろしいと気付いた。誰に喧嘩を売ったのか、今さら自覚してしまった。
殺すなど不可能だ。敵意を見せれば殺されてしまう。
「わたくしにはわからないのだけれど、それほどまでにジャレッド・マーフィーが怖いのなら、なにもしなくていいわよ」
「ほ、本当ですか!?」
「ええ。でも、代わりに、彼の大切な誰かを害しなさい。殺せ、とは言わないわ。だけど、痛い目にあわせるくらいならできるでしょう?」
即答することができない。仮に行ったとして、自分だと気付かれれば報復されてしまう。
そんなドリューの内心を読んだように、少女が微笑んだ。
「大丈夫よ。わたくしが貴方を守ってあげましょう。男爵家の、家督を継げない長男など怖くはないわ。貴方はジャレッド・マーフィーの周囲にいる大切な誰かを傷つけてくれれば、貴族と縁を結べて、わたくしにも守られる」
「本当に守ってくださいますか?」
「もちろんよ。わたくし、味方のことをとても大切にしますもの」
甘言に誘われて、ドリューは思考する。ジャレッドは無理でも、他の誰かを傷つけることならできる。自分の仕業だと知られても少女が守ってくれるなら恐れることはない。
すでにドリューの思考は麻痺していた。
自分の欲を優先し、誰かを傷つけることを選んでしまった。
「やります。やってみせます!」
恐怖の消えた声をだすドリューに少女は満足だと言わんばかりに破顔する。
「いいお返事よ。結果を楽しみにしているわ」
「必ずご期待に応えます!」
深々と頭を下げて、ドリューは立ち上がり、教室から出ていった。
彼を見送った少女は笑顔を消すと、小馬鹿にした表情を浮かべて舌打ちをする。
「まったく馬鹿な男。でも、成功したら約束は守らなければならないわね。幸い、あの程度の男でも魔術師というだけで価値はあるから、どの一族でも喜ばれるでしょうね」
少女は脳裏に魔術師の血を欲している貴族を浮かべていく。その中でももっとも権力が低く、魔術師の血を引き込んでも問題ない一族を選んでいく。
「――でも、わたくしなら魔術師の血が欲しくても、あんな男の血はごめんだわ。そう考えると、オリヴィエはうまくやったわね。まさか学園で最も優秀な魔術師を婚約者にするなんて思わなかったわ。行き遅れのくせに十歳も年下に手を出すなんて恥はないのかしら?」
苛立ちが募り無意識に爪を噛みはじめた少女は、ふといいことを思いついたように動きを止めた。
「そうよ……どうせドリューは失敗するでしょうから、切り捨てて、わたくしがオリヴィエからジャレッド・マーフィーを奪ってしまいましょう。彼ならわたくしの婿にふさわしいわ。なによりも彼のためにも、行き遅れと結婚するよりも歳の近いわたくしのほうがお似合いよね」
オリヴィエ・アルウェイがはじめて婚約者として認めた男を奪えば、今までにない快感が待っているはずだ。悔しがる顔を想像するだけで、わくわくしてくる。
「貴女は大切なお母様を守ることだけ考えていればいいのよ。ジャレッドさまはオリヴィエにはもったいないわ。代わりにわたくしが大切にしてあげましょう」
名案を思いついたと確信した少女は、どうやってジャレッドに近づこうか考えながら楽しそうに笑うのだった。