38.復讐者バルナバス・カイフ5.
「ああああああああっ!」
ナイフを手のひらで受け止めたジャレッドが痛みによる絶叫をあげた。
朦朧とした意識の中で、ラウレンツたちが次々に倒れていくのを見ていた。
アデリナが自分たちを庇おうと立ち塞がったが、彼女を殺されてしまってはブラウエル伯爵の不正も一部が隠されたままとなってしまう。
だが、ジャレッドは魔力も高めることができず、魔術さえ発動できない。苦肉の策として、小石を拾って投げることでバルナバスの意識をこちらに向けようとしたのだが、それでどうするかまでは考えていなかった。
鮮血の滴る左手に力を込める。
少しでも力を抜けば、手のひらを貫通しているナイフがそのまま胸へと突き刺さるだろう。
「抵抗すればするほど苦しむだけだぞ! 不正をしながら、意地汚く生きようとする貴様のような奴がいるから私のような正しく生きる人間が苦しむことになるのだ!」
血走った眼で射殺さんと睨みつけながら、怒りに染まった形相でバルナバスがナイフの柄に力を込めて押し続ける。
「知るかよ、そんなことっ」
圧し掛かっているバルナバスの腹部に蹴りを入れるも、びくりともしない。怒りによって痛覚を感じていないのか、それとも我慢しているだけなのか。もしかたら、力がでないジャレッドの蹴りがまったく効いていない可能性もあるが、知ったことではないと何度も蹴り続ける。
「無駄だっ! 貴様を殺し、アデリナを殺し、私を追い詰めた全員をすべて殺せば私は救われる! 不正をしなければなにもできず、誰かを蹴落とさなければ上へ立てない弱者どもが愚かな考えを起こさないようにする義務が私にはあるのだ!」
「だったらアタシを殺しなさい! その子は不正なんてしてないわ。アンタ、この子がわざと嘘ついたこともわからないの?」
アデリナがバルナバスを背後から突き飛ばし、ジャレッドの手のひらに刺さっていたナイフを引き抜くと、自身のブラウスを破いてきつく傷口を縛る。
「アンタたちはもう逃げて。アタシが殺されれば、アイツはそれで満足するはずだから」
「嫌だね……ここでお前を見捨てたら、俺は一生後悔する。それに、バルナバスはきっと止まれない。もうあいつ自身が止まることができないくらい、おかしくなっている。誰かが止めてやらないと、被害が増えるだけだ」
「バルナバスには勝てないわ。それに、魔力がまともに使えないのにどうやって戦うって言うの?」
「知らねえよ。だけど、死ぬことばかり考えて戦おうとしないお前よりはマシだ」
わずかに残った力を振り絞り、震える膝を叱咤してなんとか立ち上がると、視界の先では同じように立ち上がるバルナバスがいた。
彼の動きにぎこちなさを感じ取り、ラウレンツが与えたダメージは見た目こそたいしたことはないが、バルナバスの内面を傷つけていることを察する。
しかし、奴の魔力は未だ衰えることを知らない。
自分の魔力を奪ったせいもあるだろうが、魔術を使ってもあまり消費しているように思えない。
「ふ、ふふっ、くはっ、はははっ、ははははははっ!」
「なんだよ、なに笑ってんだよ?」
突如笑い声をあげはじめたバルナバスに、ジャレッドは怪訝な表情を浮かべる。
「いや、なに。口では罪を償いたい、殺せと言いながら、こうも抵抗するとはアデリナ・ビショフはずいぶんと口だけの女だと思っただけだ」
「彼女は俺を助けただけだ。侮辱は許さない」
「……ジャレッド・マーフィー」
「ほう。威勢のいいことを言うではないか? しかし、貴様になにができる。立っているだけでやっとではないか! 身の程を知れっ!」
バルナバスから無詠唱で放たれた風刃が無数襲いかかってくる。
属性魔術最速を誇る風刃を避けることはできず、しかし防御するにも障壁を張る魔力が練ることができない。
解決策が思い浮かばないまま、風刃が殺到する。
ジャレッドの脳裏に浮かんだのは――オリヴィエの怒ったような表情だった。
「困ったな。きっと――あの人は怒るんだろうな」
そして悲しみ、自分のために泣いてくれるだろう。
オリヴィエだけではない。イェニーも、トレーネも、ハンネローネや祖父母たちもきっと悲しんでくれるはずだ。
プファイルはどうだろう。再戦の約束を果たせず怒るかもしれない。
できることなら最後に一目だけでもみんなに会いたかった。そして、できることならラウレンツたちを助けたかった。
後悔ばかりがジャレッドを襲った刹那――体が誰かによって思いきり突き飛ばされた。
受け身も満足にとれないまま地面を転がり続けたジャレッドが、痛む体に鞭打って起き上がろうとすると、
「嘘、だろ? どう、して……」
視界の先に、風刃を受けて体中から鮮血をまき散らしたアデリナ・ビショフが映った。
「逃げて」
こちらを見て短く言葉を発したアデリナが音を立てて地面に崩れ落ちる。
「アデリナ!」
駆け寄り抱きかかえると、呼吸をしているのを確認して安堵する。
風刃で負った裂傷こそ浅いが、ざっと見て七か所もある。致命傷ではないが、放っておけば危険だ。
「安心するがいい。殺しはしていない。アデリナには、自分のせいで貴様たちが死ぬところを見せつけてから、苦しめて殺すと決めた」
「お前はもうどうしようもないくらいに狂っているよ。誰もお前を助けることはできない」
「……私が、いつ助けてほしいと言った?」
「言ってないさ。だけど、心のどこかで、俺はお前のことを被害者だと思っていた。馬鹿だよな。お前は加害者なのに、たくさんに人を殺したのに、俺が甘かった」
そっとアデリナを地面に横たえる。止血してやりたいが、応急処置をするには裂傷が多すぎる。
ならば、できることをしよう。
「ベルタ、クルト――動けるか? 返事はしなくていい。聞こえていたら、どうか頼む。ラウレンツとアデリナを連れて逃げてくれ。俺がバルバナスを引き付けるから」
聞こえているのかわからず、返事さえ待たずに、後先考えずにジャレッドはバルナバスに向けて走った。
「血迷ったか?」
風刃が放たれるも、あえて避けることはせず迎え撃つ。
魔力を練ることも高めることもできないが、魔力がまだ残っている以上、自然と魔術への抵抗力はある。
すでに制服は真っ赤に染まり、買い替えが必要なほど朽ちてしまったが、学園の制服にも魔術対策はしてある。
なによりも――裂傷から漏れ出す魔力を糧にして精霊たちが守ってくれている。
ジャレッドとバルナバスの距離はたいして開いていない。ならば、一撃、二撃程度ならなんとかなると判断したのだ。
そして、ジャレッドの予想通りになった。
一撃目の風刃を裂傷を負った左腕で受け、二撃目もまた肩で受けることで致命傷を避けることに成功した。
「小癪なっ、このガキがぁああああああっ!」
バルナバスに飛びかかったジャレッドは勢いに任せて体重をかけると、地面へと転がす。
そのまま馬乗りとなると、一切の容赦なく拳を振り下ろす。
何度も何度も、拳が握れなくなってもひたすら拳を振り下ろし続けた。
バルナバスが防御をしているのかさえわからないまま、ただ攻撃をしなければならないという思考に従って体を動かし続ける。
「くそっ、ガキがぁあああっ! いい加減に、しろぉおおおおおおっ!」
怒声とともに風圧が放たれ、ジャレッドの体が浮いた。その隙を逃さずバルナバスは、さらに魔術を放つ。
風の塊を腹部に受けたジャレッドは血を吐いて、地面に激突する。何度も地面を転がり続け、動かすのが苦痛に感じるほど痛みと気怠さがある体は言うことをきいてくれない。
せめてまともに使える魔力さえあれば、と無いものねだりをしたジャレッドを、
「今度は私の番だな」
腫らし、血に塗れた顔に歪んだ笑みを浮かべたバルナバスが覗く。
刹那、彼の蹴りがジャレッドを捕らえた。