23.ジャレッド・マーフィーの過去4.
「おはよう、ジャレッド」
「……おはようございます、オリヴィエさま」
過去を明かし涙まで見せたジャレッドは、オリヴィエに抱き着いたまま眠ってしまった。
あまりにも不覚であり、婚約者とはいえ女性の部屋で一晩過ごすなどなんともいえない気恥ずかしさがある。
もちろんやましいことなどなにもしていないが、言葉にできないくすぐったさがあるのでもどかしい。
「すみません、まさかあのまま眠ってしまうなんて……」
「別にいいのよ。あなたの弱い一面が見ることができて嬉しかったから」
わずかに頬を赤くしているオリヴィエも気恥ずかしさを覚えているのだと思う。
自分が眠ってしまったあと、どういう経緯があったのかわからないが、朝目覚めたら彼女のベッドの上で眠っていたのだ。もちろん、隣にはオリヴィエが寝息を立てていた。
生まれて初めて心臓が飛び出るほど驚いてしまった。
それ以上に、昨夜のように無防備に眠ってしまったことなど、王都に戻ってきてから一度もない。
収容施設に入れられたこと、常に弱者として暴力を振るわれた過去から、ジャレッドはずっと警戒心を抱きながら生活していた。
オリヴィエたちにも、昔から兄と慕ってくれていたイェニーにさえ同じように無意識に警戒をしてしまう癖が染みついている。
しかし、昨晩のジャレッドは違った。いくら過去を明かし、胸に溜め込んでいた感情を吐きだしたとはいえ、まさか気を抜いて眠ってしまうなどと思いもしなかった。
それだけオリヴィエを信頼しているのだろうか。それとも、彼女なら自分のことを裏切らないと信じているのか、自分の心がなにを思っているのかわからない。
「できればでいいのだけれど、もしあなたが嫌じゃなければイェニーにも昨夜のことを話してあげて。わたくしだけあなたの過去を教えてもらえたことが、少しだけ申し訳ない気がして……」
「わかりました。時間を見つけて話しておきます」
「ありがとう」
イェニーならば話すのには抵抗がない。そう思えるのは間違いなく、昨夜オリヴィエに過去を話し、受け入れてもらえたからだろう。
「ジャレッドって、体は細いのに重いのね。筋肉質なのかしら」
「ど、どうしてそんなことを?」
「あのね、眠ってしまったあなたをベッドに運んだのは誰だと思っているの?」
「……オリヴィエさまです」
「その通りよ。トレーネを呼んでもよかったのだけど、もしかしたら起きてしまうかもと思ってわたくし頑張ったのだから」
言われるほどジャレッドは重くない。鍛えて無駄を省いた肉体は確かに筋肉質だが、見た目戦闘者だとわからない程度に抑えてある。体重だって同世代の平均に比べると軽い方だ。無論、女性にしてみれば重いのかもしれないとは理解している。
「あと――男性と一夜をともにしたのは、わたくしはじめてよ」
「――ちょっ、その、誤解を招くような言い方はやめてください!」
頬を紅潮させて第三者が聞いたら、間違いなく誤解するであろう発言にジャレッドは慌てた。
理由は未だに不明だが、貴族の噂は電光石火のごとく駆けめぐる。ジャレッドとオリヴィエの婚約の一件でさえたった四人の会話であったはずが、各方面に筒抜けだったのだ。
これでオリヴィエと一夜をともにしたなどと噂がたったら一大事だ。いや、冷静に考えると困りはしないが、なんとなく嫌だ。
ジャレッドとオリヴィエが昨夜のことを他言しなければ噂になることはないのだろうが、この屋敷には他にも住人がいる。
「おはようございます、オリヴィエ様。起きている気配があったので入らせていただきました。――昨晩はお楽しみでしたね」
突然現れたトレーネが、いつもなら無表情のはずの顔につくりものの満面の笑みを浮かべてふざけたことを言ったせいで、ジャレッドは思いきりむせた。
茹でられたように真っ赤になってしまったオリヴィエに、トレーネは今度は本心からの笑みを浮かべる。
「オリヴィエ様、おめでとうございます。二十六歳にして初体験はいかがだったでしょうか?」
「トレーネっ、あなた壮大な勘違いをしているわっ!」
「いいえ、勘違いなどしていません。昨夜、ジャレッド様がオリヴィエ様のお部屋から出てこなかったので、もしやこれは……と聞き耳を立てていたのですが、荒々しいジャレッド様の声と、オリヴィエ様の初々しくも艶めかしい吐息が私の耳に聞こえてきました」
「絶対に夢よ! わたくしたちにはなにもなかったわ!」
真っ赤になって否定するオリヴィエだが、恥ずかしがって事実を隠そうと懸命になっているようにしか見えないから不思議だ。
確かに、婚約者同士が一晩一緒に過ごしたのだ。状況証拠だけを見たら、なにかしら部屋の中で起きたと考えてしまうも理解はできる。
しかし、ジャレッドには荒々しい息づかいも、オリヴィエの吐息にも心当たりがない。もしかしたら、眠っている間になにかがあったのではないかと馬鹿なことも考えたのだが、とくに体に異変もないのでさすがに違うだろうと思う。一応、念のため彼女たちに見られないようにこっそりシーツに証拠がないか確認してしまった。
「いつの間にか寝ていたようで目覚めたときには廊下でしたが、夢ではありません」
「その自信はどこからくるのよっ。寝ていたんだから夢にきまっているでしょう!」
「ですが、夢だという証拠がありません」
「……あなたふざけているの? それともからかって楽しんでいるの? 聞き耳立てていたのはそうなのでしょうけど、気づけば眠っていたんだからどう考えても夢じゃないの!」
無表情に戻っているトレーネを見ても、なにを考えているのか伺えない。本当に楽しんでいるかもしれないと勘ぐってしまいたくなる。
「ハンネローネ様は、今朝はゆっくりとお二人の時間を過ごすようにと言っておられました。はじめてのあとは動きづらいらしいので……お風呂に入りたい場合は、お二人でどうぞ、とも」
「お母さままでそんなことを……」
母までがトレーネと同じように勘違いしているのだとわかり、頭を抱えるオリヴィエ。
「ジャレッド様――」
「うわぁ、矛先がこっちに向いたぞ」
嫌な予感しないのはきっと気のせいではない。
「イェニー様が、今夜はわたくしの番ですね、とものすごく期待しておられますので頑張ってください」
「なにを頑張ればいいの!?」
間違いなくイェニーは本気だ。
昔から思い込んだら一直線な従姉妹であることを知っているため、イェニーも昨夜のことを誤解していることは確かだ。そして、本当に今夜、自分のもとを訪れる気だろう。その前に誤解を解いておかなければ大変なことになる。
「とりあえずイェニーの誤解を解いてきます!」
「そうしてちょうだい! できたらお母さまの誤解のほうも……」
「ハンネローネさまはオリヴィエさまにお任せします!」
自分ではなにを言っても優しく微笑まれてしまう光景しか思い浮かばない。
ひとりでも誤解を解こうと部屋から飛び出そうとするジャレッドをトレーネが止めた。
「お待ちくださいジャレッド様。イェニー様のもとへ向かう前に、こちらを」
手渡されたのは一通の封筒。差出人はベルタ・バルトラムだった。
「女性、からのお手紙です」
「どうして女性だけ強調して言ったのかな?」
「いえ、特別そういうことはありません」
嘘つけ、と思いながらやましいことなどありはしないのでその場で封を切る。
内容は簡潔だった。
――突然すまない。ラウレンツさまのことで相談したい。できれば助けてほしい。今日、学園で待っている。
無駄なことを言わずラウレンツの傍らに控えている彼女らしい文章だ。文字もお手本のように上手い。
頼ってもらえるなら力を貸したい。ジャレッドの今日の予定は決まった。