11.竜少女璃桜の事情1.
突然現れた少女は、怒りを宿した声をあげて地面を蹴った。
音もなく放たれた矢のように疾走する少女の速度はあまりにも早い。
感じていた敵意こそそのままだが、おざなりな監視に対して動きは格別だった。
「兄上の仇じゃっ」
あっという間に懐に潜り込まれてしまったジャレッドは、幼い少女に攻撃することを躊躇ってしまった。
「まさかとは思うけど、君が宮廷魔術師候補を殺したんじゃないだろうね?」
「なんのことじゃ!」
念のため確認するも、やはり知らないようでホッとする。だが、少女から警戒を解くことはできない。
少女は大きく拳を振りかぶっている。
魔力は感じない。だが、敵意の宿る瞳には自信に満ち溢れていた。十歳程度の少女が、なぜこうも鋭敏に動くことができ、自信に満ち溢れているのか不明だが、ジャレッドの本能が逃げろと叫んでいる。
「ジャレッド! 相手にするなっ、逃げるぞっ!」
なぜか慌てたプファイルの声が耳に届き、本能と彼の警告に従い、後退する。だが、逃げ切ることができないため防御の姿勢をとる。
璃桜と名乗った少女は、さらに距離を詰めると拳を突きだした。
左腕で防御しようとした刹那――ジャレッドの体が浮いた。
「――え?」
大きく殴り飛ばされたと理解したのは、視界が反転してからだった。まるで世界が遅くなったように、ゆっくりと景色が回っていく。
拳を振り抜く少女の姿と、血相を変えてこちらへと走り出すプファイルの姿を瞳に捕らえたと同時に、体中に衝撃が走った。
地面に激突したのだとわかるも、あまりにも勢いがあるため自分の力では止まることができない。
何度も地面を跳ね続け、体中が痛む。
魔術を使いたくても集中することができず、ただなすがままに地面を転がり続けた。
十歳ほどの少女のか細い腕のどこに、未成年とはいえ鍛えた体を殴り飛ばす腕力があるのか疑問に思いながら、何度目かわからない衝撃を背に受けて、体が止まった。
「ジャレッドっ!」
砂と土に塗れた体をプファイルが起こしてくれる。四肢に力が入らず、意識も落ちてしまいそうだ。
「逃げるぞ、あの娘は竜だ」
「……りゅ、う?」
「そうだ。竜種ではない。竜という地上最強の種族だ。いくらお前が複数の属性を扱える魔術師であろうと、ヴァールトイフェルによって鍛えられた私であろうと戦って勝てる相手ではない」
「逃がさぬぞ。妾は兄上の仇を取りにきたのじゃからな。そなたは逃げても構わぬが、ジャレッド・マーフィーは置いていってもらおう」
視界の中でプファイルが歯噛みして竜の少女を睨む。
竜ならこの規格外の腕力も納得できた。理不尽なほど、生まれもっての強者をジャレッドはしっていた。
しかし、
「俺は、竜に……恨まれる、理由は、ない」
微塵も心当たりがないことをなんとか口にするも、視界が暗くなっていく。
残る力を振り絞って、プファイルに逃げろと告げると、ジャレッドは意識を失うのだった。
*
「逃げろっ、プファイルっ!」
「――きゃあっ」
大声とともに目を覚ましたジャレッドは、聞き覚えのある声が悲鳴をあげたのを聞き、周囲を見渡す。
「あれ、ここは?」
「あのね……急に目覚めて大きな声をだすなんて、わたくしの心臓を止めるつもりなの?」
「オリヴィエさま?」
「そうよ。あなたの婚約者のオリヴィエ・アルウェイよ」
竜の少女璃桜に殴り飛ばされて意識を失ったことまでは覚えているが、目覚めたらまさか屋敷に戻っているとは思わなかった。
「プファイルは?」
「話を聞いているから心配はわかるけど、落ち着きなさい。プファイルは無事よ。あなたを屋敷まで運んでくれたのも彼なのよ」
「よかった……」
「いいえ、よくないわ」
「はい?」
オリヴィエの表情を見て、ジャレッドは硬直する。
彼女は怒っていた。聞くまでもなく、怒り心頭だということがわかるほどだった。
「あのね、わたくしたちに心配させながら魔術師協会の護衛をつけなかったことは百歩譲ってゆるしてあげる。でも、見送って半日も経たないうちに意識を失って帰ってくるなんてどういうつもり?」
「えっと、その、ごめんなさい」
「今回は許さないわ。しかも、竜の女の子まで着いてきちゃっているのよ」
「着いてきたんですか!?」
頷き肯定するオリヴィエに絶句する。
たった一発の拳で容赦なく意識を刈り取ることができる見た目に反した強さを持つ少女がこの屋敷にいることを受け入れたくない。
自らが災厄を呼んでしまったのかと思うと、申し訳なくなる。
しかし、
「どうしてオリヴィエさまたちはご無事で?」
「なにもされてはいないわ。璃桜、と名乗ってくれた女の子はあなた以外に手を出すつもりはないそうよ。着いてきたのは、あなたに思うことがあるようね」
「今はどうしていますか?」
「食堂でお母さまたちと一緒に、トレーネが用意した焼き菓子を美味しそうに頬張っているわ。あの姿を見たら、竜とは思えないわよね」
微笑むオリヴィエだが、なぜ璃桜が友好的に接しているのかわからずジャレッドは首を傾げる。自分にはあんなに敵意を抱いていたのに、少し理不尽だと思わずにはいられない。
焼き菓子を頬張る姿を見たわけではないが、あの幼い少女が喜んでいる姿はきっと竜だとは思えないだろう。
ジャレッド自身、未だに璃桜が竜であることが信じられないのだから。
「この屋敷では暴力行為を一切しないと約束させたわ。一応、プファイルが警戒してくれているけど、問題はイェニーよ」
「イェニーがどうかしましたか?」
「抜いてこそいないけど、剣を持って敵意剥きだしなのよ。あなたを傷つけたことが許せないそうね。もちろん、わたくしもあなたが傷ついたことには思うところはあるのだけど、あんな小さい子に文句は言えないわ。だから、ジャレッドに直接言ってあげようと思ってここで待っていたのよ」
「色々とすみません。じゃあ、とりあえずイェニーを落ち着かせにいきましょう」
「そうしてくれると助かるわ。イェニーにも戦ったら駄目だと言い聞かせたけど、あの子、あなたのことになるとちょっと怖くなるから。いくら璃桜が戦わないと約束しても、イェニーがしかけたら大惨事よ」
イェニーが本気になって暴れたら止めることができる自信がない。
先日のローザ・ローエンとの戦いで彼女の剣技が異常であることを知った。魔術抜きの単純な戦闘力ではジャレッドよりも上かもしれないとさえ思う。
だが、相手は竜だ。地上最強の生物なのだ。相手にして勝てるはずがない。
ベッドから起き上がろうとしたジャレッドだったが、左腕に力が入らず体制を崩す。
「大丈夫? お医者さまに見せたけど、骨折はしていないけどしばらく麻痺したような感覚が残るそうよ」
「……利き腕じゃなくてよかったですよ」
「あら、残念ね。もし利き腕だったらわたくしが食事をお世話をしてあげたのに」
悪戯めいて微笑むオリヴィエに、ジャレッドも苦笑して返す。
「ほら、手を貸すわ」
「ありがとうございます」
オリヴィエの肩を借りてベッドから起き上がると、体が軋むように痛んだ。
地面を何度も転がったせいであちこちが打撲を負っているようだと自己判断する。
「食堂までこのままいきましょう」
「……迷惑かけます」
「いいのよ。だって、わたくしはあなたの婚約者ですもの。ちょっとしたことでも、助けになれるのなら嬉しいわ」
そんなことを言ってくれるオリヴィエに、ジャレッドは照れてしまい返事ができなかった。
「だからといって、怪我ばかりはしないようになさい」
「……はい」
「あまりわたくしに心配かけないでね」
心から案じてくれる声音のオリヴィエに、ジャレッドは静かに、だかしっかりと頷いたのだった。