無題(晒し中)
とある高級マンションの一室。二人の男の戦いが今静かに幕を下ろした。
勝者には富と栄光。敗者には苦痛と屈辱。己のプライドを賭けた勝負はあまりに一方的な物であった。
「んじゃ、コーヒーとお菓子頼むぜー。あと、二人分の昼飯もね」
止む気配のない雨とジャケットすら意味をなすか怪しい今が昼前であるかを疑ってしまうほどの寒空の下、三神礼司は己の言動を改めて後悔した。
きっかけは小さな事であった。前日の天気予報が見事的中し外は傘がなければ濡れ鼠確実の大雨。おまけに気温は
エアコンなしでは室内ですら寒気を感じるほどと来ている。普段から薄着で過ごす事の多い礼司ですら今日は朝から長袖を引っ張り出した程であった。同居人の古家呼人にいたっては5月だというのにほとんど冬同然の服装で過ごしていた。そんな折どちらからの持ちかけともなく始まったトランプ対決。敗者は切らしていた飲み物を買うだけでいいはずだった。だが。
「ついでに昼飯も買う事。もちろん二人分だ」
この発言の言いだしっぺは正真正銘礼司。勝てる勝負だとは到底思っていなかった。この呼人と同居を始めて2年半、事あるごとにこうして勝負を持ちかけ、その度に返り討ちを受けている。今回も5本先取のポーカー9本勝負で、あっさりストレート負け。そしてとどめを刺した役が何の因果かストレート繋がりであったというのも何かの予感すら感じてしまうほどであった。
3年近く経った今なお礼司の心にほとんどトラウマ同然で刻まれた記憶がこの雨と先ほどまでの勝負で嫌でも思い返される。その日も今日を上回らんばかりの大雨だったはずだ。
ギャンブルが公に認められるというある種の異常事態が起こったのはそう遠くない過去の話。きっかけはなんだったのかはわからない。ただ、どこかの誰かが突如としてパチンコを槍玉に挙げそれに便乗した世論の流れが濁流さながらにネットやテレビを席巻した事だけは覚えている。
それからまもなくあちこちにラスベガスを彷彿とさせるカジノが建設され、すぐにその勢いに乗らんとするマスコミが騒動を煽る形で世間がちょっとしたギャンブルブームが起こった事は紛れもない事実。
一部で社会問題とも化していたパチンコ依存症、子供を放置する母親などのパチンコ絡みの問題がこれで解決する。だがそれは一瞬の希望だった。
所詮は金の動く出来事。すぐに異常な高レートや店、客を問わないイカサマ等の新たな問題が発生した。
礼司のかつて通っていた店もそんなブームに踊らされた店の一つだった。だが、ブームも落ち着くと同時にあからさまな客の減少が始まった。かつて訪れていた女性客の代わりに漫画にでも出てくるようなガラの悪い男たち。営業時間帯が徐々に夜型にシフトする。
末期の店にはよくあると揶揄された道をこの店も確実に歩んでいた。そして、連日のように繰り広げられる摘発スレスレの高レート勝負。礼司も勝負をした事は一度や二度ではなかった。今思えばパチンコ依存症の初期症状に似ていたかもしれない。
そしてそんな日々はあっさりと終わりを告げた。「全員動くな!」という警察番組そのものの声とともに踏み込んでくる一人の警察の制服を着た男。
まさか摘発か。そんな事を礼司は思った。だが、カジノが実質合法化されたこのご時世、曲がりなりにも節度を持って営業を続けていたこの店が摘発されるとは。ほとんど人事同然に礼司は成り行きを見守るしかなかった。自分も後ろに手が回るのだろうか。それとも、何かしらの恩赦が与えられ無事この場を出る事ができるのだろうか。その後の流れはまさに神のみぞ知ると言っても過言ではなかった。
だが男は何を思ったのか銃を構え、わき目も振らずポーカーのテーブルへ歩みを進めていく。とうとうその銃口がディーラーの眉間を捉えた。若い客の大半は呆気に取られ、ただただ呆然とするばかり。礼司もそのうちの一人。
新手の強盗かと思った。ディーラーの次は自分かもしれない。もしそうだとすればどう対処すればよいのだろうか。礼司の頭がその先を考える事に集中する。
男がディーラーに何か囁き、その席をほとんどぶん取る形で新たなディーラーがその場に一人誕生した。行き場をなくした「元」ディーラーはそそくさと部屋を後にする。誰がいつパニックを起こしてもおかしくない状況の中、真っ先に口を開いたのは当然ながら警察服のディーラー。
「誰でもいい。俺と勝負しろ」
なんで。それがここにいた客の半数の感想だろう。残りの半数はあまりに唐突な展開に脳がついてゆけないはずだった。
礼司としてはどちらも半分半分。銃を持った警官姿の男がカジノのディーラー席をジャックし客に勝負を持ちかける。あまりに突っ込み所満載のこの状況で誰か手など挙げようか。下手をすればそのまま射殺されてもおかしくないではないか。当然、誰も動く気配はない。
数分経ったころ、突然、出入り口に近い場所から人の立ち上がる音。礼司を含めた全員が当然ほぼ反射的にその方向を向いた。とうとう覚悟を決めた
勇気ある者が名乗り出たか。すべての者がそう思った事であろう。当然礼司も。だが、それは浅はかな考えだった。
立ち上がった若い男の背中には先ほど席を追いやられた元ディーラー。そいつが、両手を挙げながら立ち上がる若者の背中に拳銃を突きつけていた。
いつの間に。ただただそう思うしかなかった。なぜこの男がこのような行為に及んでいるかとか、新旧二人のディーラーの関係とか、そんな事は全く些細な事。それほどに、あまりに異常な速度で異常な方向に異常な事態は進んでいた。
若者はほとんど顔面蒼白のままポーカーテーブルへ近づいていく。「座れ」の声と共に若者が席についた直後、背中の銃口が後頭部に向いた。
それと時を同じくして警官姿のディーラーがテーブルの上に散らばったままだったトランプに手を伸ばす。10秒後、点を切られたカードの山がディーラーと若者の間に置かれた。ディーラーは今度はチップを周囲から片っ端にかき集めると適当に配分を始めた。その割合が明らかにディーラー優位なのは誰の目にも明らかだったが、もはやそんな事を口にする者は誰一人いなかった。
ルールはカジノのポーカー勝負そのままに、1試合ごとにレートを1段階上げていくだけというシンプルなもの。どちらかのチップが尽きれば試合終了。たったそれだけの勝負だった。そして二人の前にカードが配布され、試合が始まった。誰もが微動だにしない中、勝負師二人の声だけが淡々と響く。変化していく物は雪だるま式に膨らむ二人がやり取りするチップの枚数のみ。いや、ディーラーから若者に流れるチップの量だった。
確率を考慮すれば誰がどう見てもおかしい事態。礼司に背中を向け、拳銃を後頭部に突きつけられたその若者はすべての試合で役を成立させていた。通常、ポーカーで最初に配られる5枚で役が成立しない確立は1/2とされている。だが、目の前の男はその1/2を引くことなく試合を進めている。当然手札交換で手はさらに大きくなっていく。
5回なら偶然の範囲内だった。10回で明らかにおかしいと思うようになった。15回で背後で銃を構える男の手が震えるのがわかった。20回で客が目の前の拳銃を忘れざわつきだした。そして、50回を超える勝負の間でとうとう1/2を引くことなく若者は全てを終えた。
目の前には先ほどと打って変わって自らの引き起こした異常な事態が原因で更に異常な事態を目の当たりにした男が二人。方や先ほどの若者と同様に顔面蒼白、もう片方は拳銃を握る手が危なっかしくなる見えるほどに引きつった顔を浮かべている。
魂を抜かれたと言っても過言ではなかった。
テーブルのチップをほとんどかき集めたであろうチップは一枚残らずディーラーの手元からなくなっていた。ほとんど勝負というより搾取の構図であった。
イカサマを疑ったディーラーが若者の胸倉を掴んだ所で今度は正真正銘の警察が飛び込んできた。そこから先は文字通りあっという間。10人はいると思われる警察の集団に2人の悪人はほとんど無抵抗で連行されていく。罪状は暴行罪に脅迫、銃刀法違反、そして警察の服を手に入れた時のものであろう、窃盗罪。若者や礼司を含む客全員は事情を説明された後
拍子抜けするほどあっさり帰宅を許された。後に伺った話によるとこの騒動のきっかけはよくある金の絡んだ話らしい。
店側が金の支払いを渋ったとかで、それが客を巻き込んだこんな事になったとも。ディーラーという形で人間を送り込むというずいぶん手の込んだやり方にいささか呆れ果てた事だけはよく覚えている。
その金がいわゆるみかじめ料なのか「上納金」なのかは時が流れるにつれ誰も関心を持たなくなった。
その後の顛末も新聞のいわゆる3面記事にすら載らなかった事で裏で権力のある人間が手を回したという事だけがネット上に広まったが、それもすぐに落ち着いた。
昔の事を思い出しているうちに目的のスーパーに着いた。その事が今現在自分が置かれている現実を思い起こさせる。二人分の弁当と菓子とリクエストされていたコーヒー豆。それらを買って帰らねばならなかった。迂闊に外をうろつけば普段から鍛えている自分ですら風邪を引きかねない。それをふいに吹いた強風が認識させる。もっとも、今現状では財布にも同じ強さの風が吹く事はほぼ確定的ではあった。
あの日自分の目の前で確率の常識を覆して見せた男は何の因果か今は同じ屋根の下の関係。二人で公式に開かれたポーカーやブラックジャックの大会に出場したり、時にはあの時のような危険な目に遭いかけた事もある。
その時は自分の鍛えた肉体に物を言わせた事もたまに。体力方面はあまり自信がないという呼人の代わりにほとんどボディーガード紛いの事をした事もあった。いつしか周囲から相棒と称される関係にまで発展し、同居しているという事もあってかあらぬ関係を疑われた事も一度や二度ではなかったが、それでもこの関係に悪い気持ちは抱かなかった。
金で繋がった関係と言われようが構わない。元々はそういう目的で同居を持ちかけた事は否定はしない。この男と関わる事で相当なメリットがある事は間違いない。自らの勝負師としての勘がそう告げたのを礼司は逃さなかった。そうして今まででは考えられなかった生活を手にし、今では親友であり相棒でありいつかは鼻をあかしてやりたい男が一人出来た。
ここまでの事態になった事は、今の法律に少しは感謝しなければならなかった。人生という長い大博打に勝利の予感が見える。多少滅茶苦茶な目に遭っても、今の生活に十分過ぎるほどの喜びと楽しみを感じていた。礼司は雨を避けるため、そして同居人のためにと家路を急いだ。