沈黙、夏
随分久し振りの快晴である。このところ季節は梅雨に入り、三日か四日ほど雨が降り続いていた。その所為で暫く見なかった太陽は妙に目に眩しい。いくつか深く残った水溜りを、すっかり干上がらせてやろうとでもしているようだ。湿っぽい梅雨の匂いなど、はなから無かったものにするように。四季を味わう余裕のない人々よりも、むしろ四季そのもののほうが、悠久である命を生き急いでいるようにも見える。だと言うのに、夏色の空には未だ薄い灰褐色の雲が浮かび、湿った雨の季節は完全に終わってはいないことを示している。何だかじれったい気がした。
常に駆け足で過ぎ去っていく季節の中で、一番ゆったりと淀み、且つ精一杯の速度で景色が移り変わるのは、今であると思う。水溜りが干上がっていくのと同時に、雨の匂いが薄れていくのと同時に、夏がすぐそこまで近づいていた。
昨日はざわざわと心許ない雨が降っていた。その前までの打ちつけるような降り方に比べれば穏やかなものだが、それでも外出するのは億劫だった。何を主張する訳でもなければ止む様子も無い、そういう掴み所の無い細い雨だった。
駅前で千二百円だった水玉模様の傘を畳むと、安っぽい銀色の骨が僅かに軋んだ。さっと雨粒を払って家へ上がる。大して聞かせる気もない「只今」を口の奥で呟きながらリビングに入ると、机の上に角切りにされた西瓜の皿があった。
学校帰りの制服姿のまま、赤い果肉をひとつ、つまんで口に入れる。甘くない。水っぽいのに、やたらとぱさぱさしている。薄い砂糖水のような匂いが口腔を満たして、私は顔をしかめた。西瓜は嫌いじゃないのに。
台所からヒョイと母親の顔が覗いた。
「帰ってたの。あ、手も洗わないで……。」
「何これ、全然、西瓜の味しない。」
小言を無視してそう文句を言うと、母親はツンとすました顔をして台所へ引っ込んでいった。
「まだ季節には早いからね。」
そう声だけが届く。表情と同じすました声だ。私はむっとして、声を張り上げる。
「じゃあ何で買ったのよう。」
「その量だけカットして安く売ってたの。無いよりいいでしょ。」
「良くないっ、季節感狂うじゃん、馬鹿、馬鹿。」
乱雑な、幼稚な罵り文句を野j越して、私は歩いて部屋に戻った。走り去る気力も起きなかった。どうしてこんなことで苛ついているんだろう。きっと雨の所為だ。単調な音も、匂いも、陰鬱な気分を引き起こす。体まで湿って重たくなるようで、私は部屋の床に寝転んだまますっかり動くのをやめてしまった。目を閉じれば、そこには雨音だけが響き、充満する。
激しくはないその単調な音は、今度は不思議に私の中に染みてきた。雨に浸って重たくなった体に、雨音は丁度いい癒しになるようだった。
とはいえ、基本的には雨はあまり好かない。しかしこう晴れてしまうと、雨も悪くないと思えてくるのだから現金なものである。陽は射しているがそう暑苦しくはない、文字通りの快い快晴なのだが、このまま雨をすっかり失ってしまうのが惜しいようで、灰色の雲から目が離せなくなっていた。
梅雨が明けてしまえば、長い雨の季節は来年まで訪れないだろう。雨の中に体ごと溶けていくような昨夜のあの感覚も、水溜りも、共に持ち去って。そして、スイカはどんどん甘く、夏の太陽に良く似合う香りを放つようになるのだろう。
そう急がなくたっていいじゃないか、と、流れていく雲に念じてみる。答えは返ってこない、当たり前のことだ。雲が緩やかな迅速さで空を横切っていき、水っぽい西瓜が私の指先を掠めて飛び去っていく。甘くない西瓜は嫌いだけれど悪くはない、と、晴天の下なら思えた。だから、もう少し待ってくれたって良さそうなものなのに。
清清しい空色の中で、くすんだ雲はぼんやりと座っていた。湿った匂いを吹き飛ばす葉の香りの風に、抵抗もせずに流されながら、それでもまだ退く気はないように見えた。別段居心地が悪そうという訳でもない。そのことにやけに安心する。けれど、彼らもきっと、じきに逃げていってしまう。
新たな音と、香りと、景色に、追い立てられているのだろうか。あっという間に駆け抜けていく様子は、追走劇と言うよりは、遊び半分のかけっこに良く似ていた。
私はかけっこが嫌いだった。走るのが苦手だったのもあるけれど、とりわけ否なのは運動会の音だった。放送から大音量で流れるアップテンポの勇ましい音楽をバックに、歓声とピストルの音が断続的に聞こえるのだ。あれほど無理矢理に追い立てられるような気持ちになることは無い。そんな賑やかな気持ちには私は到底なれないのに、と、内心萎縮していた。普段は仲の良い女の子たちと、その時だけは遥かな距離を隔てているような気がした。彼女たちは明るい日差しの下に輝いて、賑やかに走りきった。勇ましい音楽にも良く似合っていた。無理に走らされていたのは私だけだったのだ。その瞬間だけは、私はとりとめのない孤独の中にあった。
あの音楽と共に、甘くない西瓜が、あの子たちと同じように走り抜けていく。空と雲は汗の雫に輝き、互いに競い合っている。そう急がなくたっていいじゃないか、と、私は呟く。そんなに楽しそうに、私から去らなくたっていいじゃないか。
ピストルの音が響く瞬間、観客が一斉に息を呑む瞬間、走者が渾身の力を足に込める瞬間、一瞬だけ空気が張り詰めて、その場がシンと音を失いときがある。時間が止まったような錯覚の中、その一瞬は永遠にも感じて、このまま動けなくなるんじゃないかと不安な心地よさを感じたものだった。沈黙は私を急き立てはせず、私は沈黙によって静止した。結局永遠だったはずの瞬間はすぐに過ぎ去って、私はまた音楽と喧騒の中に放り込まれてしまうのだけれど。
空を見上げれば、雲はそこに静止していた。きっと今、確かにどこかでピストルが鳴ったのだ。空も、雲も、日差しも、西瓜も、私と共にあった。私は目を閉じて、張り詰めた沈黙を楽しもうと思った。
ゴールラインがすぐそこまで迫っている。