『人は数字の中で生きていない』
労働時間、休憩時間、健康診断の数値。人を守るために設けられた基準は、いつの間にか「数字を守ったから問題はない」と判断するためのものになっていないでしょうか。
同じ八時間でも、身体と心が受ける負担は一人ひとり違います。数字による基準の必要性を認めながら、その数字からこぼれ落ちる人間の実態について考えます。
数字を守るだけで、人は健康になれるのか
日本では、働く人の健康を守るために、労働時間や休憩時間の基準が設けられている。時間外労働には上限があり、健康診断では血圧や体重を測り、飲酒量や喫煙習慣も尋ねる。多くの人を対象に制度を作る以上、共通の数字を用いることには意味がある。
しかし私は、日本の健康対策が、数字で確認できることに偏りすぎていないかと感じる。決められた時間内に仕事を終えた。所定の休憩を取った。健診を受けた。記録には残せる。だが、その人が実際に休めたのか、健康を損なう負担を抱えていなかったのかは、それだけでは分からない。
たとえば、長時間労働による健康被害を減らすため、労働時間の上限を短くしたとする。休む時間が増え、救われる人はいるだろう。ところが、新しい上限を守って働いていた人の中からも、体調を崩す人が出る。
そこで「まだ上限が長すぎたのだ」と考え、さらに短くする。それでも、その短い時間の中で病気になる人は出る。では、また短くするのか。この考え方だけを繰り返しても、すべての人が健康でいられる一つの時間数にはたどり着けない。
なぜなら、同じ一時間でも、その中で人が受ける負担は違うからだ。
接客業では、客の対応が途切れないまま、感情を抑えて働く時間がある。介護や医療の現場では、目の前の人の状態に合わせて動かなければならない。工場では、機械の速度に合わせて同じ動作を繰り返すことがある。事務職でも、複数の締め切りや問い合わせが重なれば、席に座っている時間が休息に近いとは言えない。配達や運送では、交通状況や荷物量がその日の段取りを変える。勤務表に同じ「八時間」と記されていても、身体と心が受けた負荷は同じではない。
休憩時間にも、同じ問題がある。休憩を確保することは大切だ。しかし、仕事の流れや量を変えないまま、決められた時間に休憩を取ることだけを強く求めたら、どうなるだろう。
目の前の作業が気になる。対応を待っている人がいる。休憩後に仕事がたまることが分かっている。それでも時刻どおりに手を止めなければならない。休憩中も残りの仕事を考え、戻れば遅れを取り戻そうと急ぐ。その場合、記録上は休憩を取っていても、本人は十分に休めていない。健康を守るための時間管理そのものが、ストレスを増やすことさえある。
これは、休憩をなくせという意味ではない。**休憩時間を設けるだけでなく、安心して休める仕事量と段取りを整えなければ、休憩は回復につながらない**ということだ。所定の休憩を取らせたという記録を、休めたことの証明にしてはいけない。
さらに、人の許容量は一人ひとり違い、同じ人の中でも日々変わる。十分に眠れた日と、眠れなかった日。身体に痛みがない日と、痛みを抱えている日。家に帰れば休める時期と、家庭の事情で休めない時期。昨日は無理なくこなせた仕事が、今日の自分には重すぎることもある。
健康診断でも、集団の数字と個人の状態が混同されやすい。たばこを吸う人の集団では特定の病気が多い。飲酒量が増えるにつれ、病気の危険が高まる。そうした統計は重要だ。しかし、それは多くの人を調べて得た傾向であり、診察室にいる一人が病気になるかどうかを測定した結果ではない。
労働時間の基準も、健康診断の数値も、集団の中にある危険を見つけるためには役立つ。だが、そこで得た目安を、個人の健康についての確定的な判定に置き換えてはならない。「基準内だから大丈夫」「休憩を取ったから回復した」とは言えないのだ。
日本には、長時間労働を抑える制度も、健康診断もある。それでも現場で数字を守ることが目的になれば、働く人を疲弊させている仕事の密度や緊張、休めない生活は見過ごされる。健康被害が出たときに、上限時間をさらに短くすることだけを考えても、原因を調べたことにはならない。
必要なのは、その人が何時間働いたかに加えて、その時間をどう過ごしたかを確かめることだ。休憩は何分あったかだけでなく、実際に気を緩められたかを確かめることだ。体調が変わった日に、仕事の量や進め方を変えられるかを考えることだ。
数字は、社会が人を守るための道具である。だからこそ、数字を守らせること自体が新たな負担になっていないか、問い続けなければならない。制度の記録を整えるだけでは、人の身体は守れない。目の前の仕事と生活の中で、その人が本当に回復できているか。日本の健康対策が見るべきなのは、そこだと思う。




