――第 0 幕 夜行・山ノ海――(続きはカクヨムにて)
一定のリズムだった走行音が、不規則な波長へとずれていく。
ドクン。……ドクン。
床の奥深くから突き上げる重低音が、膝の関節から骨盤を抜け、胃の底の未消化物を直接揺さぶる。 天井に等間隔で並ぶ青白い蛍光灯が、「ジジッ」と羽虫が電撃で焼かれるような微細な破裂音を立てて明滅を繰り返している。 エアコンの吹き出し口から這い出してくる風は、三十七度前後の生温かいゼリーのような重さを持っていた。 カビの臭いと、放置された生肉が発酵したような甘ったるい腐敗臭。 息を吸い込むたび、気管支の粘膜に粘り気のある臭気がべっとりとへばりつく。 肺が重く沈み込み、気管支がヒクヒクと細かく引き攣った。
通路を挟んだ斜め前の座席。 ヨレたシャツにカーディガンを羽織った痩せ型の男。 彼の上下の歯が不規則なリズムでカチカチと打ち鳴らされている。 彼は、右手に握りしめた銀色のボイスレコーダーの裏蓋を爪でこじ開け、中の乾電池を抜き取り、また同じ電池を力任せにねじ込む。
空転。
彼の指先は白く変色し、爪の間から微かに血が滲んでいる。それでも彼は、無意味な電池の出し入れをやめない。 正面の座席に座る、紺色のパンツスーツを着た女。 彼女の眼球は毛細血管が破裂しそうなほど赤く濁り、乾燥してささくれた唇の皮を、犬歯で噛みちぎる。
摩擦。
右手で安物のオイルライターのヤスリを回し続けている。 火はつかない。 硬質な金属音が、密閉された車内の気圧を微細に歪ませ、「私」の脳髄から単語を削り落としていく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。 まともな論理が組み上がらない。 「私」は大きく顎の関節をずらし、過剰な唾液をゴクリと飲み下した。
ズズッ。……ズズッ。
通路の奥から、水分を過剰に含んだゴム底がリノリウムを擦るような、重く粘り気のある摩擦音が近づいてくる。
「……乗車券を、拝見します」
濡れた雑巾をコンクリートの壁に擦り付けるような摩擦音と、乾燥した砂利をすり潰すような粗い音声が、車内に響いた。 紺色の制服を着た影が、座席の横に立つ。 ゆっくりと、視線を上げる。 目深に被った紺色の制帽。 その下。
眼球も、鼻梁も、唇の裂け目も存在しない。
ただ、つるりとした薄桃色の粘膜が、顔の輪郭を隙間なく縫い合わせている。 凹凸のない、滑らかな肉の塊。 「私」を見下ろしているその質量の冷たさだけが、頭蓋骨を直接圧迫する。 肉の表面が、心拍の周期とずれて微かに波打つ。
「私」は震える左手をズボンのポケットに沈め、湿ってブヨブヨになった切符を取り出して差し出した。 顔のない肉塊が、右手に持った金属製の検札パンチを切符に押し当てる。
切断。
紙を切る乾いた音ではない。 分厚い生の赤身肉を、犬歯で無理やり噛みちぎるような、ひどく粘着質な水音が車内に響いた。 切り取られた切符の穴の周囲は、高熱で黒く炭化し、そこから微かに酸っぱい臭いを放つ透明な粘液が滲み出していた。
車掌の重い足音が遠ざかる。 女が右手を伸ばし、「私」の左肩を強く掴んだ。
「……見つけたわよ。逃げられるとでも思った?」
音声波形が、ゼリー状の空気を揺らして鼓膜を叩く。 彼女の口唇が動くたびに、声と一緒に「ボコッ、ボコボコ」という、深い水底から立ち昇る気泡の破裂音が混ざり込む。 彼女は左手で黒い手帳を顔の前に突きつけた。 暗がりの中で明滅する光を受け、金色の紋章の凹凸が歪に蠢く。 無数の足を持つ甲虫が、丸まってウネウネと波打っている。
「なぜ病院を逃げた? あの事件の夜、貴方はどこにいたの」
彼女のスーツの繊維から、放置された生肉のような甘ったるい腐敗臭が絶え間なく立ち上る。 息を吸い込むたびに鼻の粘膜にべっとりとへばりつく。
この臭気が邪魔だ。
「私」は左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻いた。 ジワリと血が滲む。
カリッ、カリッ。
背後。 通路を挟んだ向かいの古いベルベットの座席で、硬直していた乗客の影が動いた。
剥離。
座席の繊維に癒着していた皮膚が、無理やり引き剥がされる音。 首から上が存在しない肉の塊が、関節の骨が軋む音を立てながら、ゆっくりと立ち上がる。 女の瞳孔が針のように収縮し、鼓膜の奥が分厚い膜で塞がれる。 右手のポケットの底。 佐渡赤玉石の札が、不規則な脈動と完全に同期し、皮膚を焼き焦がすほどの熱源へと変質する。
熱傷。
掌の脂が沸騰する音が、頭蓋骨の内側に響き渡る。 喉の奥で気管支がヒクッと痙攣し、鉄錆の味を伴ったドロドロの液体が舌の根を塞ぐ。
……ことの始まりは、この異常事態の数日前。
万舟神楽です。
長編『夜行・山ノ海』はカクヨムにて連載中です。
ご興味がありましたら、ぜひカクヨムの万舟神楽ページも覗いていただければ嬉しいです。
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