のんでのんでのでのーんでのんでのんで
夜の新宿。雑居ビルの五階にあるキャバクラ「ラグーン」の看板は、雨に濡れて滲んでいた。
恵美は二十三歳、大学を辞めて半年。借金返済のために夜の世界へ足を踏み入れた。最初は不安でいっぱいだったが、意外と客も優しく、同僚の女の子たちも面倒見がいい。そう思い始めた矢先、奇妙な噂を耳にした。
「うちの店、地下に池があるんだよ」
先輩ホステスの綾香が笑いながら話す。
「池、ですか?」
「うん。ビルの構造がおかしくてさ。水が溜まってるらしいの。しかも、たまに水音がするんだよ。バシャーンって」
冗談半分で聞き流したが、恵美の耳には妙に残った。夜中の店は不思議に静かで、BGMが途切れると、どこからかぽちゃん……と水の跳ねる音が聞こえることがある。
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ある金曜日、常連の男客・工藤が来店した。四十代後半、くたびれたスーツを着て、いつも焼酎ばかりをあおる客だ。
「なぁ恵美ちゃん、俺、最近おかしいんだよ」
「どうしたんですか?」
「夢でさ、水の底に沈むんだよ。女の子に手を引かれてな。見覚えのある顔なんだが、思い出せなくてさ」
冗談のように笑う工藤の瞳の奥に、濁った恐怖の色があった。その夜、彼は泥酔して、閉店時間を過ぎても帰ろうとしなかった。仕方なく、黒服のスタッフが彼を引きずり出したのだが、その二日後、工藤は新宿の川で溺死体となって見つかった。
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葬式の知らせを聞いたホステスたちはざわめいた。綾香が囁く。
「ほら、言ったじゃん。地下の水に呼ばれるんだよ」
冗談めかして笑ってみせるが、その頬はひきつっていた。
恵美は気味悪さを拭えなかった。
数日後の深夜、片付けをしていた恵美は、廊下の奥から濡れた足音を聞いた。ぺた……ぺた……と裸足で床を歩く音。誰もいないはずの廊下で、影が濡れ光っていた。恐る恐る近づくと、それは一瞬で消え、ただ床が濡れているだけだった。
掃除道具を取りに行こうとしたとき、視界の端に女の姿が映った。黒髪を濡らし、ドレスの裾から水滴を垂らす女。見覚えがある。
――工藤が言っていた「夢の女」。
恵美は目をそらした。次に見たとき、そこには誰もいなかった。
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店長に相談すると、彼は苦笑して煙草をくわえた。
「気にするな。夜の商売ってのは、変なもんに惹きつけられるんだよ」
「でも、本当に……」
「うちは長いからな。昔ここで働いてた女の子が、客と心中したって話もある」
店長はそれ以上語ろうとせず、煙を吐き出した。
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その夜、恵美は夢を見た。暗い水の底に沈んでいく夢。水面から差す光は弱く、身体が動かない。誰かに手を引かれる感覚があった。顔を上げると、そこには濡れた黒髪の女が微笑んでいた。
声が響く。
「次は、あなた」
目覚めると全身が汗で濡れていた。けれどシーツに触れると、冷たい水滴が本当に残っていた。
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翌日、店で働いていると、一人の新人ホステスが休憩室で泣き出した。理由を聞くと、昨夜、同じ夢を見たのだという。水に沈み、女に手を引かれる夢。
怯える彼女を見て、恵美の背筋は凍った。
その新人は数日後、出勤途中で姿を消した。警察が動いたが、行方はわからなかった。
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不安を抱えながらも、恵美は仕事を辞められなかった。借金が残っている。逃げ場はない。
深夜、閉店後に一人で更衣室に残っていると、再び水音がした。今度ははっきりと聞こえる。ドアの向こうで、じゃぶじゃぶと水をかき混ぜるような音。
震えながらドアを開けると、廊下の奥に非常口が半開きになっており、その先にコンクリートの階段が続いていた。普段は封鎖されているはずの地下への階段だ。
足が勝手に動く。水音に導かれるように、恵美は階段を下りていった。
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地下には確かに池があった。コンクリートの床に広がる黒い水面。蛍光灯の光をかすかに反射している。
その中心に、女が立っていた。濡れた黒髪、青白い顔、真っ赤な唇。恵美に向かって手を差し伸べている。
「おいで。楽になるわ」
足が動かない。声も出ない。ただ、水面から無数の手が伸びてくる。客の顔、同僚の顔、沈んでいった人々の顔が、水底からこちらを覗いていた。
「次は、あなた」
恵美は叫び声をあげた。だが、その声は水に吸い込まれ、誰にも届かなかった。
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翌朝、店はいつものように営業した。
しかし、恵美の姿はなかった。
彼女のロッカーには、濡れたハイヒールと、見慣れぬ睡蓮の花だけが残されていた。