《第38灯:自己否定》執着と礼装の器
礼節と断章に育てられた令嬢。
佐和子はマーレの心を救済できるのか。
【マーレ・ヴァルディア】
ヴァルディア家
公国の名門魔導貴族の末席令嬢。
家督は期待されず、対外交渉や文化儀礼に特化した教育を受けた。
――自己否定の渦中のはずが、
いつの間にか彼女は石造りの回廊を、裸足で走っていた。
呼吸は乱れ、涙で視界が滲む。逃げなければ
――けれど、逃げ場などない。
「……マーレ」
その声は、低く、凍るように静かだった。
グレイス・ヴァルディア団長。
背後から近づく革靴の音が、やけに遠くに響く。
振り向いたとき、彼の瞳が淡い蒼光を帯びているのを見て、
マーレの胸が凍りつく。
「なぜ泣いている?」
震える声で、マーレは答えた。
「……お父様は、なぜこのような恐ろしいことを。
昔の優しかったお父様に戻って」
団長は近づき、マーレの顎を指先で持ち上げた。
指先は氷のように冷たく、そして拒絶を許さない。
「お前は任務の器だ、マーレ。
幻を見ることも、感情を抱くことも、すべて“煩悩”に過ぎぬ」
マーレの胸に冷たい言葉が突き刺さる。
「ですが、おと…グレイス様……わたくしは――」
そのとき、強い光が額に触れた。
団長が小さな黒印を押し当てていた。
「沈めろ。お前の情動は、ただの“誤作動”だ」
焼け付くような痛み。だが同時に、
頭の中で世界の音が静まり始める。
胸を満たしていた恐怖や後悔が、すうっと遠のいていく。
父の声だけが、やけに鮮明だった。
「感情は必要ない。執着だけを残せ。
お前は我らの“礼装”であり、執行者だ」
その夜、マーレの紅環は初めて閉じ、
彼女の中で多くの感情が――沈んだ。
被験体1号として時間をかけた調整。
誕生日の度に小さな煩悩断章を体に埋め込まれ、
その度に「第33灯:執着」に纏わる新しい技を習得した。
背中の肩口から首にかけて光り輝く6つの破片。
彼女はせめてもの抵抗として、物理寄りの技を選択した。
これ以上断章の破片に精神を脅かされないよう。
それでも、昔の記憶はどんどん曖昧になっていく。
B級断章一つでそうなのだ。
マーレは佐和子の異質さを誰よりも感じ取っていた
――彼女の瞳には、私の“沈んだ”感情が映っている気がして。
マーレは過去の幻想を振り払う。
(幻術封じの血の量が足りなかったかしら?)
すでに私が煩悩断章兵器だとバレているようなので、
ここからは断章の力も使っていきましょう。
◇ ◇
石壁に刻まれた無数の鏡面。
その中から、黒い肉塊がずるりと這い出した。
それは「かつてここに挑んだ冒険者たち」
の体と武器が溶け合った残骸。
腕が六本。だがそれぞれ長さも太さも違い、
まるで“否定された自分”を寄せ集めたような異形だった。
「うわ……なんか見た目が生理的に嫌なタイプ」
セリアが斧を構えながら吐き捨てる。
「物理主体……今度は幻惑じゃない。注意して」
ミュリアが観察し、ユリハを呼び戻す。
黒塊は呻き声をあげ、床を割る勢いで拳を振り下ろした。
衝撃だけで岩盤が砕け、破片が雨のように飛び散る。
「ちっ……速ぇ!」
セリアが横転して回避するが、
二撃目三撃目が連鎖するように襲いかかる。
その隙間を縫うように、マーレが一歩踏み出した。
「ふふっ、私の煩悩断章の力もお見せしておきますわ」
マーレの右肩に埋め込まれた断章の破片が光る。
「《執風連鎖》」
断章の破片が淡く輝き、彼女の足取りが残像を引く。
一度踏んだ軌跡を“記憶”しているかのように、
マーレの身体はほとんど同じ線を高速でなぞり、
回避と同時に剣撃を繰り出した。
異形の表皮を裂く。
だが裂け目からは黒煙が噴き出し、
即座に塞がっていく。
「再生か……」
マーレは唇に微笑みが張り付く。
次の瞬間、六本の腕が一斉に襲いかかった。
まともに受ければ死んでお終い。
彼女は己の肩口を切り裂き、破片をねじ込む。
別の断章の破片が煌めいた。
「《執刃縫合しっとうほうごう》!」
鮮血が断章に吸い込まれ、痛みが縫い止められる。
代わりに全身が震えるほどの攻撃衝動に変換され、
彼女の剣が閃いた。
魔物の腕一本を切断。
黒塊が咆哮する――溶けかけた剣の破片が、口から飛び散る。
その瞬間、さらに断章が光を帯びる。
背中の右から順番に破片が瞬く。
「残せ……《執撃残響しつげきざんしょう》!」
空間に刻まれた剣閃が“残響”のように震え、
遅れてもう一撃が炸裂した。見えない刃が追撃し、
黒塊の胸を深々と裂く。
裂け目から、かつての冒険者の叫び声のような幻聴が漏れる。
異形が悲鳴を上げる。
さらにマーレは追撃するように剣を振り下ろした。
異形の肉体は砕け、黒煙だけを残して四散した。
静寂が戻る。
「……ふぅ」
マーレは剣を下ろす。肩の破片がまだ微かに光を放ち、
彼女の呼吸に合わせて脈動していた。
「恐ろしい強さだな。前は本気じゃなかったってことか?」
セリアは警戒を高め睨みつける。
「いいえ、断章の力を使わず、貴方と戦うようにとの指示でした」
「言っちゃ悪いが、一番嫌いなタイプだぜ」
その背を、佐和子がじっと見つめる。
マーレは視線に気づきながらも、あえて口を開かない。
「おもしろい見世物だった。聞きたいのだけど、
この間の貴族儀礼剣と断章技を合わせようとは思わなかったのかな?」
「…どういう質問かわかりかねますが――」
「例えば、私はこの巨大な黒槍の力を生かす為に
魔力と神力を組み合わせ幾つか術を開発した。
状況に応じて技を使い分けるのはわかるけど、
貴方は同じ敵に四つの技を使ったね」
佐和子は黒槍をマーレの方にすっとスライドさせた。
「デモンストレーションが得意みたいだけど、
ひょっとして、定期的に新しい技を披露する必要があったとか?」
「ああ、そういうことですか
――私の力をわかりやすく披露することが大事なのです」
「ふぅん……」佐和子は隠し事をする生徒を見守るように間を取った。
マーレの肩の破片が、かすかに疼く。
――執着だけが、静かに息づいていた。
断章兵器としての覚悟と悲しき抵抗。
次はボス戦に突入です。




