《第38灯:自己否定》 観察者マーレと記憶の罠
人が自らを否定するとき、世界はそれに応える。
“自己否定”の灯が揺れる場所で、
真に試されるのは――己という名の断片。
【グレトス・ヴェルディア】
ヴェルディア大公の弟であり、黒印煩使団の団長。
公式には死亡扱いとされつつ、公国での暗躍を続けていた。
グレトスは、牙折りの楼閣から書状を受け取ると
三又に分かれた仮面を取り、
背後に控える黒衣の女に向けて、低く命じた。
「次は第38灯:自己否定か…
B級浸食型ダンジョンは、精神干渉を含めて罠の宝庫だ。
……お前は、先行した勇者たちの後を追え。そして
――断章ボスの欠片を持ち帰るのだ」
その声音に、感情の揺らぎは一切なかった。
「……いいか、無理はするな。欠片でいい。
敵を討てとは言っていない」
しばしの沈黙ののち、マーレは首をかしげた。
「どなたが……同行いただけるのでしょうか?」
「お前一人だ」
それを聞いて、マーレはふわりと唇を綻ばせる。
「……あら、わかりましたわん」
艶やかな微笑みと共に、床に影を伸ばしながら、
彼女は音もなく姿を消した。
◇ ◇
マーレの単独侵入
転移陣が淡く輝き、
床にうっすらと生まれた魔方陣が収束する。
空気が変わった。
濃密な魔力が壁の内側に滞留し、
空間全体が微かに震えている。
まるで“息をしている”かのようだった。
マーレは音もなく足を踏み入れた。
そこはすでにB級浸食型ダンジョン
『第38灯:自己否定』。
本能の檻と並ぶ精神干渉型ダンジョンとして知られ、
侵入者の記憶や自我を利用した幻覚と罠に満ちている。
「……ずいぶん、歓迎されているみたいですわね」
薄闇に、彼女の声が穏やかに溶ける。
足元には無数の目が現れては消え、
壁のひび割れには己の顔が浮かんでいた。
誰かの声が囁き、
過去の情景が断片的に走馬灯のように流れる。
「“お前には資格がない”」
「“どうして、いつも笑っていられるの?”」
「“お前のようなものが、存在していいと?”」
囁きは、記憶の形を取ってマーレの思考を浸そうとする。
だが彼女は、ゆっくりと手袋の上から指を噛んだ。
──ぷちっ、と皮膚が破れる感覚と共に、
流れ込む違和感が霧散する。
「はいはい、記憶型ですね。……ええ、ありがちですこと」
血を流しながら、まるで何かを確認するかのように呟いた。
マーレの精神構造は“正常”ではない。
正確には、自我の固定点が極端に曖昧なため、
こうした精神干渉に対して“嵌まりきる”ことがない。
彼女にとって、己の記憶すら“使うもの”にすぎなかった。
「“否定される自分”が見せたいのなら
……少しは工夫していただきたいものですわね」
軽くスカートの裾を払うと、
空間の歪みが彼女を試すように広がっていく。
次の瞬間――
壁が歯になり、床が口腔に変わった。
空間そのものが巨大な顔と化し、
マーレを丸ごと喰らおうと迫る。
「んふ……随分と飢えていらっしゃる」
マーレは懐から薄刃のナイフを取り出し、
自身の掌を切る。迸る血が空間に触れた瞬間、
異音と共に歪みが裂けた。
血は、**断章の“原式”**をなぞる鍵。
マーレは観察者として、
対抗手段を“設定ごと”持ち込んでいた。
「この程度なら、まだ遊び足りませんわねぇ」
微笑んだまま、彼女は深部へと進んでいく。
◇ ◇
進行ルートが二手に分かれた直後だった。
佐和子たちは水の精霊ユリハを先導に、
静かに通路を進んでいた。
空間はひんやりと冷たく、
壁には蒼白い煩悩の灯が不規則に揺れている。
――そのとき、不意に。
「わたくしも、そろそろ合流しても、よろしいかしら?」
空間の“奥”から、涼やかな声が滑り込んできた。
ディレクがすぐに反応し、
背中に手を回して聖剣の柄に触れる。
しかし、その必要はなかった。
マーレは既に、彼らの正面に立っていた。
足音も気配もない。だが、佐和子は動じなかった。
むしろ、わずかに口元を吊り上げる。
「……探す手間が省けたわ」
「ええ。あれ以来、隠れても無駄だと学びましたので」
マーレも笑みを浮かべたまま、両手を軽く広げる。
「……実は、団長とのお約束、破ってしまいましたの」
「は?」
セリアが眉をしかめる。
「任務の内容を喋っていいのか?
以前は問答無用で排除だったろ」
「ええ、仰るとおりですわ。でも、退屈でしたので。
ふふ、だって、“彼女”がいるんですもの。
隠蔽など、意味がない」
佐和子の目が細められる。
「目的は?」
「簡単です。断章ボスの欠片を回収すること。
それが任務でした」
「でした?」
「そう――でした。今は違いますわ。
……だって、佐和子様と一緒にいた方が、
“面白い結果”が見られそうですもの」
マーレの瞳に、ほんのわずかだけ、
飢えたような熱が宿る。
「同行を申し出ます。任務も、戦力の分担も、
干渉しません。ただ、報酬として
……欠片だけ、いただければ」
「そっちは“同行させてください”じゃなくて
、“同行するから邪魔しないで”ってことだな」
ディレクがぼやいた。
「……変なことしたら、真っ先にぶっ飛ばすからな」
「承知しましたわん」
くすくすと笑いながら、
マーレは瞬時に佐和子の隣へと自然に歩み寄る。
その瞬間、ディレクがぎょっとした顔で声を上げた。
「ちょ、お前……いつの間にそこに……!?」
「ふふ、言ったでしょう?断章ダンジョンなんて、
断章と一体化している私自身のようなもの」
マーレの視線が、静かに佐和子へと向けられる。
佐和子は、なにも言わず、前方の闇に目を向けていた。
「……先に進むよ。魔物が近づいてきてる」
一行の前には再び鎧兵が現れていた。
「……自己否定の名に相応しいわね」
マーレが微笑む。
「壊されても、否定されても、形を取り戻す……。
まるで、思い出のよう」
「冷静に言ってる場合か!」
セリアが怒鳴りながら跳びかかる。
冥斧が高速で鎧兵の関節を削ぎ、腕が床に落ちる。
だが、床を転がった腕が
“別の鎧”の肩に吸い付くように結合した。
一体を削っても、群れ全体が繋がっている――。
だが、それでも完全には消えない。
裂けた破片が再び這い寄り、群体を再構築しようとする。
「さっちゃん、もう一度ひとつにまとめないと!」
「……私がやります」
マーレがすっと前に出る。
掌を切り裂き、滴る血を鎧兵の群れに垂らした。
血が触れた瞬間――鎧兵の群体が一斉に“硬直”する。
「断章の原式は、ね……
“素材に刻まれた根”を逆手に取れるのですの」
マーレは微笑んだまま囁いた。
群れは硬直したまま動きを止め、
やがて音を立てて砂のように崩れ落ちていった。
「……マジかよ」
ディレクが息を吐く。
「ふふ、礼には及びませんわ。
だって――わたくしも、
“彼女と一緒に”進まなければならないんですもの」
マーレの視線が佐和子に重なる。
佐和子は一瞬だけその目を受け止め、やがて静かに前方を見据えた。
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