黒印煩使団 ― 公爵の告白
領都へ召喚された佐和子たちは、
公爵から衝撃の真実を聞かされる。
白銀の鷲に、赤黒の双環をあしらった豪奢な封。
「内容は“至急、領都に参上せよ”。
理由は記されていない。
だが、この時期に呼ぶということは
……新たな断章の件に違いあるまい」
ミュリアが書状を見つめ、静かに吐息を漏らす。
「黒印煩使団と真正面から関わることになるのね……」
「嫌なら断ってもいい」
エルドランの目は真剣だった。
「だが、彼らは国の庇護を受け、
すでに複数の断章を掌握している。放っておけば
……次に暴走するのはバルグだけでは済まないかもしれん」
重い沈黙が流れた。
***
やがて佐和子が口を開く。
「──面白いじゃない」
その声音は冷ややかだが、微かな怒りが混じっていた。
「自分たちの身を削ってまで断章を武具に変える?
狂気と愚かさの極み。
……よくそれで国を導けると思ったね」
「さっちゃん……」
ミュリアは少し眉をひそめる。
だが彼女の決意を覆せるわけもなかった。
***
セリアは腕を組み直し、肩をすくめる。
「行くしかないでしょ。
どうせ放っておいても奴らが断章を回収し続けるなら、
私たちが先に掻っ攫うしかないんだから」
エルドランは重々しく頷いた。
「決断は任せる。ただし、これだけは覚えておけ。
──黒印煩使団は“人の理性”を煩悩に捧げた連中だ。
常識は通じぬ。下手をすれば、
彼らの存在そのものが次の終末を呼び寄せる」
その忠告を受け、三人は静かに席を立った。
背後で灯火が揺れ、影が壁に長く伸びる。
***
公宮へと向かう馬車の中で、ミュリアは全てを打ち明けた。
末法になると現れ、全てを滅ぼす魔王達。
S級迷宮の存在。
そして、寿命灯と佐和子の記憶を結晶として、留めること。
「なるほどね、胸の記憶結晶がそれか」
「はい、申し訳ございません。
言い出しにくくて、今になってしまいました」
「いいよ。私のこと、覚えておいてくれるんでしょ」
佐和子はにっこり微笑んだ。
「はい」
「おいしいパン屋もちゃんと記憶しておいてね」
「お任せ下さい」
今度はミュリアが微笑んだ。
◇ ◇ ◇
公宮ではロア・ヴァルディア公爵との邂逅が、
彼女たちを待っていた。
石造りの天井から吊るされた燭台が、
静かな個人執務室にゆらゆらと揺れる灯を落としていた。
壁を飾る古地図。重厚な書架。
その前に立つ男は、長衣をまとい、
背筋を真っ直ぐに伸ばしている。
公爵――軍を統べ、王の右腕として国家の命運を担う男。
***
その顔には冷静の仮面が張り付いていたが、
声の端には、ほんのわずかに疲労と諦念が滲んでいた。
「世界は、いずれ“ダンジョン”に包囲される。
人の活動範囲は狭まり、街は島のように孤立する。
……今はまだ良い。
この事実を知る者は少ないし、百年の余裕がある」
指先で机上の地図をなぞる。
その国境の外縁部は、
黒い斑点に浸食されるように染まり始めていた。
「だが、最終的に何が起こると思う?」
応える者はいない。
わずかな沈黙ののち、公爵は自ら続きを語った。
「四つの国家は追い詰められ、中央に押し込まれる。
やがて一つになる。これは――もはや、必然だ。
我々は、その“一つ”の核とならねばならん。
だから私は、弟を地下に潜らせた」
***
その目は迷いなく、あまりにも戦略的で、
まるで人の情を持たぬ刃のようだった。
「君に――探索を依頼したい」
その言葉に対する返答は、
まるで氷の刃のように鋭く冷たいものだった。
「……私、あなたのこと、嫌いみたい」
***
佐和子が静かに告げた。
声音には感情が乏しく、しかし、それは彼女なりの拒絶の印だった。
理屈ではない。善悪でもない。
ただ、生きる者としての直感的な拒絶。
その瞬間、彼女の隣から影のように一歩、
姿を現したのは――ミュリアだった。
その無表情な仮面には、かすかな怒りが宿っていた。
抑制された知性の怒り。
「僭越ながら――まず、
謝罪から入っていただくべきでした」
静かな言葉だった。
だが、空気を切り裂くような鋭さを孕んでいた。
「あなたのその歪んだ思想が、国家の“闇”を生み出している。
そして私たちに、被害をもたらそうと――いえ、
すでに一度、明確な襲撃を受けています」
感情は乗っていなかった。
だがその言葉は、報復でも糾弾でもない。
“告発”という重みをまとった、静かな事実の提示だった。
公爵は応えなかった。
ただ、地図の上に置いた掌だけが、わずかに震えていた。
◇ ◇ ◇
重苦しい沈黙が、部屋を満たしていた。
燭台の灯が揺らぐ。
その仄かな明かりのなか、公爵の顔が一瞬だけ翳る。
「……グレイス――弟は、黒印煩使団を造り、
……今や彼らの“神”に近い存在だ」
ようやく絞り出された言葉。
それは敗北の告白であり、兄としての悔悟だった。
***
「彼は言った。“煩悩を制すには、個を消すしかない”と。
自己を差し出し、完全なる“調律者”となることで
――世界を、静かに正せると」
公爵の拳が、静かに握り締められた。
「……私は、止められなかった。
そして黒印煩使団も、もはや軍の統制下にはない」
その姿は、かつて国を導いてきた者とは
思えないほど小さく見えた。
***
しばしの沈黙ののち、佐和子が小さく呟く。
「……皮肉ね。
かつて殺されかけた相手の、
暴走を止めるために、また地下に潜るなんて」
俯きかけたその横顔が、ほんのわずかに震えていた。
「あの子たち……煩使団の子たちは、
あなたの弟の“正義”を信じてる。
でも、私にはそれが“正義の顔をした、
感情の切断”にしか見えない」
佐和子は、まっすぐに公爵を見つめた。
***
「私は、人を“戻す”ために行くわ。
戦うだけなら、きっと誰でもできるもの」
その言葉は、静かに突き刺さる刃だった。
重苦しい空気のなか、
佐和子は最後にひとことだけ告げた。
「弟を止められないあなたを、責める気ないよ」
だがその声音には、
抑えきれない怒りと哀しみが混じっていた。
「でも、あなたたち兄弟――結局、そっくりなんだ」
公爵の目が揺れる。だが、何も言えなかった。
「“理屈”と“正義”を振りかざして、人の心を切り捨てる。
あなたは命令で。弟は信仰で。
やり方は違っても、どちらも“正しくあろう”として、
誰かの痛みを見ないふりをしてる」
そして――
「誰も救済できていない。
……私は、そういうのがいちばん怖い」
***
くるりと踵を返し、扉へ向かう。
その背を見送る者は、もはやいなかった。
扉の前で、彼女は一瞬だけ立ち止まる。
振り返ることなく、静かに言う。
「せめて……あなたの尊い身の上が、
誰かの犠牲の上に成り立っていると、覚えおくといい」
扉が、静かに閉じられた。
***
残された公爵は、ただそこに立ち尽くしていた。
燭台の光を受け、古びた剣がかすかに鈍く光る。
それは、かつて彼が信じた“正義”の残響だった。
公爵の肩は震えていた。
悔しさか。情けなさか。恐怖か。あるいはそのすべてか。
明かされる兄弟の確執、
そして「正義」の名を借りた犠牲の構造。
次回10/11更新です。