第20話 夜明け前
宗十郎の腕に引っ張られて、文乃は彼の胸の中に飛び込んだ。
その途端、墨は晴れた。
二人の周りから墨は飛び散った。
「……宗十郎さん、何かしましたか?」
「俺にできるのは、斬ることだけだ」
それはいつも通りの宗十郎の言葉だ。文乃はこっそりほっとする。
「……これだな」
ふたりの体の間に光るものがあった。
「護符」
母の護符が光っている。
「やはりこれは二通で一組なんだと思う」
宗十郎は静かにそう言うと、自分が預かっていた手紙を文乃に差し出した。
「…………」
文乃は恐る恐るそれを手に取った。
そんな文乃を宗十郎が強く抱き寄せた。
「……っ」
強く、優しい腕。文乃はただその腕に身を任せる。
あったかかった。
まだ墨の香りはするが、ふたりの周りは守られている。
「……宗十郎さん、もう大丈夫ですか?」
「ああ、俺は大丈夫だ。すまない、文乃さん、ひとりでこんなところまで、怖かっただろう」
文乃を強く抱きしめながら、宗十郎はそう言った。その声は泣いているように聞こえたけれど、文乃の顔は宗十郎の胸に埋もれていて、彼の顔が見えなかった。
「いえ……宗十郎さん、私、大丈夫です」
「……俺は大丈夫じゃない」
「宗十郎さん……」
今までになく直截的な弱音に、文乃まで泣きそうになる。
あんなに喜んでいたのに、兄といっしょにいられることが至上の喜びとでも言わんばかりだったのに。
その兄が、彼を最悪の形で裏切っていた。
「俺は君をこんなところに引きずり込んだ」
「引っ張り出してくれたんですよ、あの座敷から、私を、宗十郎さんは」
その言葉は勝手に口をついて出た。
「宗十郎さんがいなくちゃ、私、ここにいないんです」
「でも、それは、元を辿れば、俺の兄のせいで……」
「でも、今、私を抱きしめてくれているのは宗十郎さんなんです」
文乃はそう言って顔を上げた。
少し高いところに泣いている宗十郎の顔がある。
「私には、あなたしかいないんです」
「……それも、俺たちのせいだ」
「宗十郎さんだって、言ってくれたじゃないですか、何もできないことも一緒に悲しもうって」
「それは……自分が被害者だと思い込んでいた恥知らずの言葉だ」
「じゃあ、お願いします。私と一緒に悲しんで、喜んで、生きてください」
「…………」
「私と、結婚してください」
勝手に口をついてきた言葉は、けれども今度は焦りから出た言葉ではない。
「私は、あなたと生きたい」
「……ありがとう。俺も、俺もだ」
宗十郎の言葉に、文乃は言わせてしまったのではないかと思う。宗十郎の弱みにつけ込んでいないかと思う。
けれども、見上げた宗十郎の顔はどこかすがすがしかった。
「うん……そうだ。結婚、しよう」
宗十郎がうなずいた。
「文乃さん、俺の、妻になってくれ」
「はい、もちろんです」
文乃は、微笑んだ。
その瞬間、墨の香りが薄らいだ。
周囲を確認する。ふたりの遠くにある墨がどんどんと、溶けていく。
「これは……」
「……俺の言葉で、君が神倉家の人間になったんだ」
宗十郎がぽつりとつぶやいた。
「おそらく兄の呪詛も君に降りかかる。そして文車家の呪詛を制御できる君に降りかかったことで、一旦、暴走が抑えられた」
「あ……」
「まあ、言葉だけ……いや、心だけ、か。今、俺たちは夫婦になった。……家族、か」
宗十郎は噛み締めるように呟いた。
「俺は兄を探してくる、君はここに残って……」
「嫌です」
文乃は首を横に振った。
「暗いから、一人は嫌です」
「……わかった」
宗十郎は文乃を抱き締めるのをやめ、文乃の手を掴んだ。
「絶対に手を離さない」
「はい」
神倉冬一は庭の途中に倒れていた。
「兄さん!」
宗十郎が声を掛けると彼は目を開けた。
「ああ、無事だったか。まあ、俺が死んだら墨も消えたはずなんだが……。なんだ、遺言でも聞きに来たか?」
冬一の声は息も絶え絶えだった。
「遺言は聞かない。あなたを死なせない。あなたには洗いざらいしゃべってもらう。文車家をいかに呪ったのか、あなた一人でやれたとは思っていない。俺たちは知らなくてはならない」
「……悪いが、忘れたよ、そんな昔の話……」
冬一は嘘をついた。
「……兄さん」
宗十郎は悲しげに兄を呼んだ。冬一はもう気を失っていた。
「隊長ー!」
「神倉隊長ー!」
声が聞こえる。文乃にも聞き覚えのある声。
鬼神対策部隊の隊員数十名が、こちらへ向かってきていた。
文乃はほっと一息ついた。あの人たちに部屋のお礼を言わなくては、そう思ったのに。
ぐらりと、体が揺れる。
「こっちだ! ……祓井を呼んで、神倉冬一を拘束しろ!」
宗十郎の指示に隊員たちは一瞬、止まったが、すぐにうなずいた。
「了解しました!」
「……文乃さん、ひとまず終わりだ。君はいったん、屋敷に……」
宗十郎は振り返り、困惑した。
文乃の顔が真っ白になっている。
繋いだ手から何かがしたたり落ちている。
「……文乃さん!」
文乃は腕から血を流していた。
ようやく気付き、宗十郎は彼女を抱き留める。
力の抜けきった体。
流血と呪詛で弱った体を文乃は宗十郎に素直に預けて、気を失った。
◇◇◇
暗い座敷に、いる。
いつもより暗い。
文字を書くための灯りがない。
ここは暗くて、寒い。
座敷の隅に、物の怪がいる。
こちらをじっと見ている。
じっとじっとじっと。
塵塚の中に、その塵は、いつまでも。
やがて物の怪は大きく口を開いた。
その口の中に、真っ暗な闇が入っていく。
「ああ」
口を閉じた物の怪は、文乃の顔をしていた。




