第19話 君に伸ばす手
神倉宗十郎は着流し姿で茶室に入った。
中では冬一がふたりぶんの布団を敷き終えて待っていた。
「ああ、兄さん、俺、自分でやったのに……」
宗十郎は慌てて茶室に入った。
「いえ、客として押しかけているんですから、このくらいはやらないと」
「お客さんに布団を敷かせるのはなおさら駄目でしょう……」
「それもそうですね。では、兄としてならいいでしょう。兄が弟に布団を敷いてあげるのはおかしくない」
「まあ、それでしたら……」
「まあ、この兄はこんなこと初めてやりましたが」
冬一は苦笑した。
「……そうですね。そもそも枕を並べて寝るのも初めてですね」
「ええ、よくこれで宗十郎さんは僕を兄さんと呼んでくれますね」
「兄さんは兄さんです」
「……ありがとう」
ふたりは布団に潜り込んだ。
「……今日は楽しかった」
冬一がそう言った。
「それならよかったです」
「宗十郎さんの顔を久しぶりに見られたし、文乃さんにも会えた」
「……どうでした? 未来の義妹は」
「……もっと早くに出会えていたら、本物の家族になれていたのだろうか」
「……兄さん」
宗十郎は反論したかった。しかし言葉が胸につかえて、何も言えなくなった。
「本当に、残念だ」
「兄さん?」
その声の調子はずいぶんと落ち込んでいた。
「いつまで戻れば、俺は」
宗十郎は兄の方に視線を向けた。けれどもその先は暗かった。
おかしい。茶室には灯りを持ち込んだ。これほど暗いのはおかしい。
「……兄さん?」
「俺は、お前の兄と胸を張れたのだろうか」
その声を最後に、兄の気配が消えた。
宗十郎は慌てて起き上がり、被っていたはずの布団がないことに気付く。
「……っ、兄さん……兄さん!」
叫ぶ。音は虚空へ消えていく。反射するものがない。ここはどこだ。茶室ではないのか。
真っ暗だ。立ち上がる。前に進む。進んでも進んでも何にも突き当たらない。
「……なんだ。これは」
何かだ。霊鬼神魔にまつわる未知の何かだ。これは科学では説明できない。
手を振る。周囲の空気を揺らす。得られるものはない。
「くそっ、せめて刀があれば……」
斬れる。闇であろうと宗十郎と刀が揃えば斬れた。
いや、自分のことは二の次でよい。それは自己犠牲などではない。単純に宗十郎の身に危険というべき危険は迫っていない。
ただ謎の空間に放り出されただけだ。
心配すべきは、さっきまで一緒にいた兄と、神倉別邸にいる文乃たちだ。
「…………」
兄は、どうしたのだろう。
妙に沈んでいた。
その直後にこんなことになった。無関係とは言えないだろう。
だが、どこまでが兄のせいだろうか。
そもそも兄に異能はないはずだ。
今日だって典堂や祓井とも会わせた。兄が何か突出したものを持っているのなら、彼らが指摘したはずだ。
「神倉家の呪い、か?」
呪いの影響がこのように出ることはあるのだろうか。わからない。わからないが、そのくらいしか思いつかない。
兄は無事か?
この闇はどこまで続いている。
神倉別邸は無事か?
文乃は。
部隊の連中か、典堂や祓井が異常に気付いてくれれば、文乃を保護してくれるだろう。
しかし、もし文乃が事態に気付いてしまったら?
ろくに霊鬼神魔の知識がない彼女が、うかつにここに近づいたら、どうなるか想像がつかない。
「……くそっ」
文乃の生活への順応を優先したツケがここに来て出てしまった。いや、待て、まだ文乃がこちらに気付いたという確証はない。落ち着け。
宗十郎自身には問題はない。なんならいつもより身が軽いくらいだ。いや、それは刀がないからか。
刀はない。しかし胸元があたたかい。むしろ光っている。光っている?
「……文乃さん」
文乃から預かった彼女の母が書いた謎の文書。それを紙に包んで胸元に仕舞っていた。
部屋に置いておいてもよかったのだが、預かったからにはと肌身離さず持ち歩いていた。
「護符」
これで窮地が開けるのではないか。そう思ったが宗十郎の脳には斬る以外の方法がない。
「……どうすれば」
宗十郎は闇の中、堂々巡りに陥っていた。
◆◆◆
ふと、星を見てみようと思って、文乃は窓に向かった。
宗十郎たちの前では着る機会のなかった黒羽織を着ている。夜の寒さの中を進んでも大丈夫なあたたかい羽織。窓際に寄るのにもちょうどよかった。
茶室はこの方向のはずだが、やはり今夜も文乃の部屋からは見えない。それどころか外は真っ黒だった。
星も月も、何も見えない。
「……これは」
雲が厚いのか、と考える。しかし、違う、と何かが断言する。
匂いがする。
墨の匂いがする。
いつもと違う。自分からじゃない。
外からする。
充満している。
まるで、あの日のようだ。
あの日、母が血を吐いた日のようだ。
「血……?」
あれは、血だっただろうか?
ならばこれが血の匂いか?
違う。墨の匂いだ。
それだけは嗅ぎ間違えるわけがない。墨の匂いは文乃のそばにあった。いつだって。
母が吐いた血。
どす黒い血。
突然、母の口から大量に溢れて、その日から母は体を起こすことすらできなくなった。
血。血だ。血だと思う。真っ黒だった。全部を消し去る色だ。
母が血を吐いたとき、文乃は母と一緒にいた。いつもどおり字を書いていた。文字は母の吐いた血で消え失せた。あの日何を書いていたのか、文乃はもう思い出せない。
あの日、あのとき、匂いも濃くなった。
握っていた筆からしたたるのと同じ匂いが、部屋中に充満した。
「墨の、匂い」
墨だ。墨の匂いがした。母が血を吐いたときしたのは、墨の匂いだ。
それが今、ここにも漂っている。
文乃は手を伸ばし、部屋の戸を開いた。
暗い。
ずっと暗い。手探りで壁に触れる。
壁に何かある。粘り気がある。
墨だ。墨がここにも溢れている。
「な、なんで……」
自分からではない。今日の分は書いた。
「……ハナさん! 中山さん! 誰か!」
かすれた叫び声が闇に吸われていく。
まるで壁がないかのように反響しない。
ここは異常だ。文乃は歩く。歩き出す。
「……宗十郎さん」
階段に向かって廊下を歩いていたつもりだが、どこまで行ってもたどりつかない。
どうしたらいい。どこに何がある。ここはなんだ。神倉別邸の廊下だろうか?
座敷だって、ここまで暗くはなかった。
「ふー……」
自分を落ち着かせるために、思い切り息を吐く。
それは思いも掛けない副産物をもたらした。
文乃が息を吐いた先の闇が揺らいだ。
「……そうか、墨なら」
それなら塵塚文乃の掌中だ。
文乃は手を広げ、闇に向かって振り払った。
揺らいだ。
漆黒の闇が、波立つ。
「墨なんだ」
ここに満ちているのは、墨だ。液体だ。
「…………」
必死に頭を絞る。
墨が満ちているのなら、いつもとは逆だ。
いつもは考えずに墨を出せる。けれど逆ならどうだ。
墨をかき集められないか。
墨を抱きまとめるように腕を伸ばす。
「あ……」
確かな手応え。墨が集まってくる。
できる。自分は、できる。
文乃だからできる。
文乃は墨をかき分けながら、動き続ける。
ガン――。
やがて手が何かにぶつかった。これは墨ではない。物理的な、何か。
滑らかで少し冷たい冷ややかで固い感触。
「……廊下の窓」
いちかばちか。
文乃は拳を握りしめて、窓に向かって振り下ろした。
◆◆◆
「暗いなあ」
神倉冬一は、墨の中でぽつりとつぶやいた。
今日に始まったことではない。
冬一の人生はほとんどずっと暗かった。
生まれたとき、母がいなくなったとき、十年前のあのとき。
「今日は、ずいぶんと明るかったのに」
冬一はそうつぶやくと、目を閉じた。
◆◆◆
「宗十郎さん……宗十郎さーん!」
文乃の叫び声は闇に消えていく。
あのあと、拳は物理的に窓を貫いた。
今、右手は血だらけだ。
我ながら馬鹿だ。利き手ではなく左手を使うべきだ。これで文字が書けなくなったら、どうするのだ。
そのあとは窓から思い切って飛び降りた。
宗十郎と冬一がいる茶室に向かうにはそれが一番早いと思った。
そこが一番の賭けだったが、それもどうにかなった。
墨は外にも満ちていた。
だから文乃は、自由落下ではなく、墨の抵抗を受けながら落下した。
結果としてほぼ無傷で外に降りた。
外、ここは多分外だと思う。何も見えないからわからない。
「……宗十郎さん……」
泣きそうになっている。手はもはや感覚がないくらい痛い。
ただ不安だった。
これはなんなのだ。今までになかった。
はやる鼓動を抑えるように、ぎゅっと胸に手を当てる。
そこはあたたかかった。
「あれ……」
ほのかな光が胸から漏れていた。
「お母さん……」
母の形見がそこにあった。
誕生日しか書いていない『護符』。
文乃はそれを取り出した。
護符は行灯のように闇を切り裂いて光っていた。
「……宗十郎さーん!」
もう一度、叫ぶ。
『……文乃さん!?』
恋しい声が聞こえた。
「宗十郎さん! どこですか?」
『胸だ』
「胸……?」
『胸元の護符から君の声がする』
「あ、こちらもです」
気付いた。行灯がわりにしていた護符から宗十郎の落ち着いた声は聞こえていた。
「宗十郎さん、今どこにいらっしゃいますか?」
『わからない。茶室にいたはずだが、今は暗闇の中だ。君はどこにいる。無事か?』
「ぶ、無事です」
血だらけの拳がある方をちらりと見ながら、そう答えた。
「あの、この護符、行灯がわりになるので、どうにか使ってください。あと、この暗闇、たぶん墨です」
『墨……?』
「香りでわかりませんか?」
『香り……』
宗十郎が鼻で嗅ぐ音まで護符から聞こえた。
『そうか、これは墨の香りか……』
「私の腕から出てくるものと同じだと思います」
『腕……文車の呪い、いや呪詛……』
宗十郎が呟く。
「はい。あの、でも、たぶん私からではないと思います。お近くに文車家の方とか住んでたりしませんか……?」
『いない』
「ですよね……」
『いないが、ひとつ仮説が立てられる』
「なんですか?」
『人を呪わば穴二つ』
「はい?」
『呪詛を犯したものは、呪詛によって殺される。呪詛の基本原則だ』
宗十郎の声は、落ち着いている。ずいぶんと、落ち着いている。
「そう、なんですか……?」
『文車家に呪詛を掛けたものは、文車家を苛むものと同じ呪詛が掛かるはずなんだ』
「はい」
『これは、十年前、文車家に呪詛を仕掛けたものの呪詛が暴走しているのだと思う』
「そ、その人が、近くにいるってことですか!?」
文乃は慌てて周囲を見渡したが、墨ばかりで何も見えなかった。
『ああ』
「……私のせいでしょうか」
『違う』
宗十郎の声が、くぐもっている。
護符の力が薄れているのだろうか。
『違うんだ、文乃さん』
違う。護符の力ではない。宗十郎自身が発する声がどこか不明瞭だ。
「宗十郎さん……? 泣いていますか……?」
『気付くべきだった。俺が一番情報を持っていた』
「宗十郎さん?」
『十年前、呪詛をかけた犯人がみつからなかったのは、犯人が呪いにむしばまれてもおかしくない立場にいたからだ。木を隠すなら森の中、文を隠すなら文車の中、塵を隠すなら塵塚の中。全部、同じだ』
隠されていたもの。
『呪いで呪いを覆い隠した。今、この近くにそれは一人しかいない』
「……宗十郎さん!」
文乃は声を荒げた。
これ以上、言わせてはいけない。
一人でいる彼を、独りにさせてはいけない。
けれども、宗十郎は止まらなかった。
『文車家呪詛の実行犯は』
その声は涙に濡れていた。
『神倉冬一だ』
◆◆◆
呪詛を掛けたものには、呪詛が返ってくる。
だから文車家に呪詛を掛けるにあたって、もう一つ呪いをその身に受けるような立場に自分を置いた。そう教わった。
生きていきたいなら、この手を取れと見知らぬ人はそう言った。
母がいなくなって、生きていかれなくなった。
きっとそろそろ飢え死にだろうというときに、その人は現れ、呪詛のすべと冬一の父のことを教えてくれた。
神倉家の呪い。
血ではなく家で繋がる呪い。神倉という家を許さない呪い。
それを神倉冬一は進んで我が身に受けた。
おかげで被害者扱いばかりをされる十年間だった。
ひどく居心地が悪かった。
「……ごめんな、宗十郎」
もう一度、弟の名を呼ぶ。
そうしていなければ、意識を保っていられなかった。
「最初にお前に会ったとき、お前は木刀を持っていたっけ」
口から勝手に出てくる言葉は、走馬灯のようだった。
「一歳しか違わない弟。すらりと伸びた背筋。まっすぐな太刀筋。ケンカになったら絶対に敵わない。そう思ったよ。結局、ケンカすらできない兄弟だったな」
冬一はわらった。
呪いは決壊した。
元々呪いに弱く、二つの呪いを受けた我が身は、あと少しで終わる。
「まったく……意味のない人生だった」
重たい墨が身にまとわりついてくる。すべてを飲み込むように。
「うん」
それが自分にはお似合いだ。
◆◆◆
神倉宗十郎は、膝をついていた。
どれほど打ちのめされようとも、膝をついたらすぐに立ち上がる。それが幼い頃からの訓練で身についた習慣だったが、今、彼はそれを放棄していた。
動けなかった。
文乃に兄の名を告げてから、何故か体が動かなくなってしまった。
胸が痛い。
当時兄は十二才だ。一つの家に呪いを掛けてしまおうなんて、普通は思い付きもしない。そもそも、そうそうできることではない。
父はどうだろう。
宗十郎と冬一の父。
しかし父は宗十郎と同じ種類の人間だ。呪詛なんてものを使うくらいなら、我が身一つで全部斬る。
だから恐らく父ではない。
わからない。何もわからない。
文車家を呪いたい人間。きっといくらでもいたのだろう。神倉家が斬ってきたものたちに呪われているように。人ですら、ないのかもしれない。
わからない。今はただ苦しい。
闇はもう関係ない。
「俺は……恥知らずだ……」
兄のせいで母を亡くした少女がいた。少女は座敷に閉じ込められていた。
自分は彼女を見つけて、迎えに行って、心のどこかで、彼女を助けたつもりになっていた。
「俺たちのせいじゃないか……」
全部自業自得だ。彼女を必要としたのは、兄が呪詛を背負っていたからだ。
こんなの滑稽だ。
あまりにも無様だ。
自分たちのせいで傷ついた少女に自分たちを助けさせようとした。
こんな自分は、この先、胸を張って生きていかれない。
「ごめん、文乃さん……」
謝って許されるわけではない。
ただ勝手に口から出てきた。
謝ることしか、彼には出来なかった。
「宗十郎さん!」
「文乃さん……もういい。どうにかして逃げろ。俺に構うな」
胸元に話しかける。いまだあたたかい護符。死んでしまった彼女の母親が作った護符。宗十郎なんかを守ろうとしている。
その人を殺したのは、宗十郎の兄なのに。
「私! ここです!」
その声は、まっすぐ宗十郎の耳を貫いた。
「文乃さん……?」
顔を上げる。そこには何もない。ただの闇。
「手を伸ばして!」
手。伸ばすことなど、許されるわけがない。
「宗十郎さん! 怖いです! 暗くて怖いんです! 座敷に戻ったみたい! 嫌なんです! 助けてください!」
「……文乃さん!」
宗十郎は文乃の涙混じりの声を聞いて立ち上がっていた。
何をしている。何をしているんだ自分は。
こんな闇の中に彼女を置いて、ひとり頑張らせて、泣かせて。
「文乃さん!」
手を差し出す。闇の中を振り回す。
そして、その手は、それを掴んだ。
細くて、弱々しくて、そして今は見えないけれどその白さを知っている。
神倉宗十郎は、塵塚文乃の腕を掴んだ。




