第1話 奥座敷の乙女
座敷の奥のそのまた奥、日差しすら届かないその座敷で、塵塚文乃は筆を走らせていた。
母の死から十年、彼女の生活が変化することはなかった。
その日までは。
襖が勢いよく開いた。
大きな音にびっくりして振り返ると、そこには腰に刀を差した青年がいた。
この座敷に来客など初めてのことであった。いや、この人は客だろうか。押し込み強盗かもしれない。文乃はボンヤリとそう思った。
青年は黒いブーツを履いていた。彼は靴のまま畳を踏みしめ、遮るものなど何もないかのように、座敷へずかずかと入ってきた。
いつものように文机の前に座り、書き物をしていた文乃は、ぽかんと彼を見上げることとなった。青年が身につける濃紺の詰め襟をずうっと見上げたその先には、眉一つ動かさぬ無表情の顔があった。
青年の冷ややかな表情に貫かれ、文乃は無意識のうちに筆をギュッと握りしめた。襖が開いたときから、驚きで動きを止めた毛筆の先からは墨がしたたり、白い和紙にボツボツと黒いシミを作っていた。
ああ、紙がもったいない。
ぽつりと胸の中で文乃はつぶやいた。その胸中を口に出すことはなかった。驚きに口元も固まっていた。
廃刀令が出てからおおよそ四十年が経つこの大正の御代に、まだ刀を佩いているということは、目の前の青年は軍人か何かだろうか。詰め襟の洋装というのが、いかにもそれっぽい。
文乃は混乱する頭の中で、そう考えた。しかし確信があったわけではない。
そもそも文乃は『外』のことをあまり知らない。
廃刀令のことも、軍人が帯刀を許されていることも、すべて書物から得た知識だ。実際に世の中でその仕組みがどう運用されているのかを、文乃は知らなかった。軍服の実物だってこれまで見たことはない。
だから目の前の青年のことを、文乃は何も知らない。
ただひとつわかる。
この青年は文乃に会いに来たのだ。
青年は軍人というにはいささか色白であった。鼻筋が通っていて、形の良い楕円の目は冷ややかに澄んでいる。薄い唇は真一文字に結ばれている。きれいな顔だとほんのり思った。こちらを見つめ返してさえこなければ、ずっと見ていられると思うほどに青年はきれいだった。まっすぐな姿勢も、すらりと伸びた手足も、優雅さを感じさせた。
けれどもその美しさとは裏腹に、その顔はずっと無表情だった。だから文乃はどんな表情を彼へ返して良いか困る。
もっとも表情を作ることも、文乃はあまり得意ではない。もし、こういう顔をすれば良いと思いつくものがあったとしても、それが実現できるかは怪しかった。
文乃にできることがあるとすれば、ただ筆を執って、差し入れられた書物から文字を書き写すことくらいだった。
毎日、毎日、文乃はただそればかりをして暮らしてきた。この暗い座敷で。
青年が襖を開け放って尚、陽ざしはまだ座敷に入ってこない。襖の開いた次の間にも畳が敷かれているばかりだ。残り三方は後から付け足された土壁である。
ここから外はひたすら遠い。つまりそれだけ長い距離を青年は土足で来たことになる。
人の屋敷の中を、ずかずかと。ずいぶんと乱暴者の所作である。
ただ外気だけがひっそりと流れ込んできて、座敷を照らすろうそくの火をゆらめかせていた。
静寂。こころもとない光の中、文乃と青年は見つめ合う。文乃はおろおろと困りながら、青年は表情を凍り付かせながら。
「君が塵塚文乃嬢だな」
ようやく青年が口を開いた。淡々とした声に、文乃はコクリとうなずく。伸ばしっぱなしの黒髪が薄曙色の着物の前に垂れ下がった。
「はい……」
返事のために出した声はかすれていた。そういえば声を出すのは久しぶりだった。
ガサガサとした声に、青年は一瞬眉をひそめたが、スッと文乃の前にひざまずいた。対する文乃は文机に向かって座ったまま、固まっていた。男の優雅な所作にどう応えるのが正解かわからなかった。
「私は神倉家の次期当主だ」
「はあ……」
生返事。青年の素性を知っても、困惑は消えない。
神倉家の名は読んだことがあった。新聞や雑誌でたびたび目にする。華族の中でも名家にあたる家だ。華族の末席に引っかかっているだけの塵塚家よりはるかに家格は上。
今の今までこの座敷に誰も彼を追いかけて来ないのは、もしや彼の地位を恐れてのことであろうか。あるいはいつも通り文乃を避けているだけなのか。遠い外からは何も聞こえてこない。
文乃が考え込むのをよそに、神倉の青年は言葉を続けた。
「君に結婚を申し込みに来た。受けていただきたい」
「…………」
淀みなく続けられた思いもしない言葉に文乃は絶句した。
結婚。
自分が目の前のこの人と結婚する。初対面のこの人と結婚する。それも相手に望まれて。
思いもしない。自分と結婚について文乃は結びつけて考えたことがなかった。
文乃は今年で十七になった。世間の同年代の女子はそろそろ結婚について考えるような年齢だとは知っている。書物にだって、そういう話は無数に書かれている。
けれども文乃はそういうものには無縁であった。
書物で読んだことがあるからこそ、文乃にとって結婚とは現実のものではなかった。書物の中のおはなしのようなものだった。
文乃の父はかつて母と結婚したはずだが、母は早くに亡くなり、後妻が来る頃には文乃はもうこの座敷に居た。だから結婚というものを文乃は自分の家の中ですら、実感したことがない。
亡くなった母と父がともにいる姿を文乃は覚えていない。一緒にいたことなど、本当になかったのかもしれない。
ゆえにこうして結婚を申し込まれたところで、答える言葉が見つからなかった。
文乃には選択肢などない。あると思ったことがない。
しかし目の前の神倉は『受けていただきたい』と言った。文乃に回答を委ねている。そう言われても、選択肢を持ったことのない文乃には決めることができない。
そもそも、だ。自分はこの人の名前を知らない。下の名前を神倉は口にしなかった。何故だろう。結婚を受けないのなら、他人に過ぎないからか。名前など意味がないと思っているのか。あるいはこの人も文乃を恐れているのか。
いや、考えたところで、わかるわけもない。
文乃にわかることなどほとんどない。
わかることも、決められることも、彼女にはほとんどない。
ただ、名前を知らない人と結婚するのは普通のことなのだろうかと少し引っかかった。普通とはほど遠い彼女がそんなことを考える。
そう文乃は普通ではない。
だから悩んでも仕方ない。
「どうぞ、お好きなように」
結局、文乃はそう答えた。
「…………」
神倉は自分の申し出が通ったというのに、少し不満そうな顔をした。
「……ただ、私はそもそもこの座敷から出ることが叶いません」
それこそが文乃が普通ではない一番の理由であり、結婚を考えたこともなかった理由である。
文乃は座敷から出られない。出てはいけない。それを考えると筆を握る手に、さらに力が入る。普段は考えないようにしているのに。
「ですから神倉様が結婚というものを、妻が夫の家に入るものとお考えであれば、ご要望にはそいかねます」
そう言って文乃は頭を下げた。
結婚とは妻が夫の家に入るものだ。文乃が読んだ書物では、婿養子を取る場合以外そうだった。そして塵塚家は文乃に婿など取らせまい。
だから通い婚でも選んでもらうことになるだろうか。これでは大正どころか、平安の話である。
「……それでも言質は取った」
神倉はそう宣言すると、立ち上がり、刀に手をかけた。
改めてよく見ると、刀の柄には持った手を覆うように金属がついていた。どうやら普通の日本刀ではない。いや、待て待て、そこではない。何故この人は家の中で刀に手をかけた?
「……あの?」
「君には大事にしているものはあるか。結婚に当たって持ち出したいものは? 傷をつけたくないものは?」
この人は自分の話を聞いていたのだろうか。そう思うが、文乃は刀に手をかけている人間の問いを無視できるほどには普通を逸脱していなかった。
「……紙はありますか?」
文机の上、書きかけの紙に視線を落とす。和紙はすっかり墨を吸って黒に染まっていた。長い間したたり落ちていた墨は、今も筆先から落ち続けている。たくさんたくさん。ずっとずっと。
「ある。君が望むのなら、いくらでも用意しよう」
「でしたら、この筆と、それからこちらの長持を」
いまだ握りしめている筆、そして文机の近くに置いていた木製の入れ物、長持を示す。
長持の長辺の長さは文乃の背丈より長く、どっしりとそこに鎮座していた。
文乃一人で持ち上げるのは難しいほど重たいので、いつでも使えるようにすぐそばに置いている。
木目を活かした素朴な作りだが、側面には筆を模した紋が描かれている。
「それさえあれば、よいです」
「……墨は」
神倉が疑問をにじませた声で問うてくる。
そう言われて、文乃は文机に視線を落とす。
和紙がある。和紙の下には、下敷きの分厚い布がある。その横には読みかけの本がある。今日の本は小説だった。明治の前半頃に出版されたものだ。
それ以外には、何もない。
本来ならあるべき硯と固形の墨が、この文机にはない。
「ご承知ではないのですか。わたくしに、それらは不要です」
そんなものはなくとも、墨はしたたり落ちている。今も筆先からとめどなく落ちる。文乃が握っている限り。
「なるほど。確かに」
神倉はうなずいた。
「確かに君は文車の娘のようだ」
「ふぐるま……」
懐かしい姓だった。亡くなった母の旧姓だ。
「では、万事そのように」
そう言うと神倉はすらりと刀を抜いた。持ち手こそ独特であったが、刀身はまっとうな片刃の日本刀であった。
「サーベル拵えという」
どうやら文乃の視線には気付いていたらしく、神倉がそう言った。拵えは刀の外装のことだったはずだ。
「安心してくれ、外こそ新しいが、刀身の方は神倉家で代々受け継いだ本物だ」
『本物』。単純に真剣であるという意味ではないだろう。
「だから、俺が斬ろう」
神倉が構えた。
「待っ――」
文乃は何を止めようとしたのだろう。自分でもよくわからなかった。
文乃の声は神倉の耳に届いたのかどうか。
それがわからないまま、神倉は部屋の隅に向かって刀を振った。
そして刃は、糸を切った。
座敷を囲むように、張り巡らされていた不可触の糸。
見える者にしか見えない糸。
文乃にとっては、あまりにもあるのが当たり前すぎて、今更気にも留めなかった糸を、刀が切った。
「あ……」
文乃の手から筆が転がり落ちた。
止められていたものと、止めていたものが、動き始める。
文乃の体は何か重たいものにのしかかれたように辛く、座る姿勢すら保てない。
崩れ落ち、畳に伏す。
そして、紙からそれは溢れた。
伏した姿勢のまま、文乃は視界の端にそれを見た。
見上げた文机の上から、黒い何かが溢れ始めていた。
あれは先ほどまで書いていた文字だ。もう原形はとどめていないけれど。文乃は知っている。
「あ……れ……だ、め……」
神倉が文机へと向き直った。もう一度刀を構える。
まさか、斬るのか、あれも。
だって墨じゃないか。文字は元は墨だ。粘り気は多少あっても、どちらかといえば液体だろう。紙に書かれていたときならまだしも、今の状態で斬るなんてできるものか。水を切るようなものじゃないか。斬ったところでどうなるというのだ。
それなのに神倉は刀を振った。
飛び上がる黒い塊。
墨を周囲に撒き散らす。
荒れ狂う形をなくした文字。
刃が届く。
文字が一振りで薙ぎ払われる。
そして黒い塊は落ちた。
畳に落ちて、動かなくなった。
「…………」
文乃はそれを黙って見ていた。
何かを言いたい気がしたし、心の中にせり上がってくる思いがあったけれど、今や口すら重く、ぴくりとも動かなかった。
神倉が刀を納めた。
こちらへ向かってくる。
それが気配でわかったが、文乃にはもう顔を上げる力も、表情を作る力もない。
もはやどんな顔をしたらいいのか迷う必要がなくなった。それが少しだけおかしい。
「行こう」
神倉の声が聞こえる。
返事も出来ない文乃を神倉が抱き上げた。
文乃はそのまま長年住んだ座敷から連れ出された。
理由も何もわからないまま。
自分を抱きかかえる男の名前も、わからないまま。
今になってこんなに気になるのなら、やっぱり先に名を尋ねておくべきだった。そう思いながら、文乃は目を閉じた。