婚約者
エリアーヌは目まぐるしさを覚えていた。入れ替わり立ち替わりに人がやってきて、息つく暇もない。それでも必死に頭を回転させて、笑顔で対応した。ようやく人が途切れた頃、ユリウスが声を掛けてきた。
「少し歩こう」
エリアーヌは差し出された腕に手を添えて、今のうちにと、ゆっくり静かに息を吐いた。何度か繰り返すと体も解れてきた。
「頑張っているようだな」
ユリウスの思いがけない言葉に、エリアーヌは思わず顔を向ける。ユリウスもエリアーヌの方を向いた。
「努力はわかる」
ユリウスの表情は変わらないが、エリアーヌは頬が熱くなるのを感じた。嬉しいという気持ちが、じわじわと広がる。
「あ、ありがとうございます」
戸惑いながらもお礼を伝えたらもう、顔が綻ぶのを止められず、エリアーヌは慌てて俯いた。もう一度、呼吸を繰り返す。
「その呼吸には何か意味が?」
「心を落ち着かせる方法です。キャロラインお姉様が教えてくれました」
「…キャロライン嬢も緊張をすると?」
「私にはそう言っておりました」
ユリウスは少し意外そうな顔をした。そうよね、とエリアーヌは心の中で同意する。キャロラインは誰が見ても完璧な女性だ。微笑みも所作も優雅さに溢れていて、それでいて控え目な言動は「賢女」と呼ばれる所以だ。令嬢が目指す模範であり、令嬢が憧れる令嬢、それがキャロラインなのだ。
エリアーヌは、キャロラインを語らせたら右に出る者はいないと自負している。キャロラインは自慢の姉であり、大好きな姉なのだ。
ユリウスがエリアーヌの添えた手を軽く叩いてきた。視線はもう遠くを見ている。
「では用意はいいか?」
ユリウスの言葉にエリアーヌは気合いを入れた。はい、と少し強く答えた。
フリージアが離れる気配を感じて、クリストフはフリージアの腕を掴んだ。
「どこへ行く」
フリージアは少しだけ目を見開いたが、クリストフをじっと見つめ、そして静かに口を開いた。
「挨拶に行きます」
その迫力に、クリストフは思わず怯んだ。その瞬間にフリージアはさっと腕を引いた。
「挨拶に行きます」
もう一度フリージアは静かに発言して背を向けた。
離れて行くフリージアの後ろ姿に、クリストフは戸惑いを隠せなかった。初めてぶつけられたフリージアの感情だった。
壁際へ近づきキャロラインは、はあ、とため息をついた。
先日フリージアとの会話で、ジェラルドに対して誤解をしていた事がわかった。それ故にキャロラインは、ジェラルドの言葉に注意を払っていた。自分を選んで欲しいという言葉にも、商売を暗に仄めかしているかもしれないと考えていたら、いつもより疲れてしまったのだ。どのみち、ジェラルドの商売を詳しく知らないキャロラインにとって、ジェラルドの言葉が色恋ものなのか、商売のためなのか判別がつかなかった。
視線を巡らせると、ジェラルドはフリージアとバレンティン伯爵夫人を含む複数の女性達と話している。商売の話だろうと思うが、やはり確信が持てない。そこへキャロラインを呼ぶ声が割り込んだ。声の主はクリストフだった。
「フリージアと一緒にいるご婦人をご存じですか?」
「ええ、一人はバレンティン伯爵夫人ですわ。他の方はお顔が見えませんので、わかりかねます」
「ジェラルド卿も知り合いですか?」
質問の意図がわからず、キャロラインは頭を巡らせる。ジェラルドに嫉妬しているようにも見受けられない。不用意な発言は避けた方がいい。
「ジェラルド様はバレンティン伯爵夫人の依頼を受けて、仕事をされたようですわ。フリージアは夫人の音楽会に招かれ、そこでジェラルド様にお会いしたそうです」
「そうですか」
そう言ってクリストフは黙り込んだ。この様子ではもう何も語らないだろうとキャロラインは思った。
「悪いねえ、仕事の宣伝をしてもらって」
背中に優しく手を添えられ、フリージアはジェラルドにエスコートされる。
「貴方の仕事を褒めただけよ」
「でも有意義な話ができたよ」
はい、とグラスを手渡される。
「乾杯をしよう」
「何に対して?」
「成功を祈って」
「私の成功は何かしら?」
「はは、もちろん報酬を考えているよ」
ジェラルドはいたずらっぽい笑みを向けてくる。冗談を隠さないジェラルドにフリージアは笑ってしまう。
「お手柔らかに」
フリージアとジェラルドはグラスをカチンと鳴らした。