★傷をなぞってばかり
――目が覚めた時、私は固いベッドの上でうつ伏せになっていた。
前日、帰宅してすぐに椅子の上で微睡んだところまでは記憶にある。その後、自分の足でベッドまで這っていったのだろうか。
……まぁ、弟が運んでくれたということもないだろう。
色々と思うところがあった分、昨夜は少し飲み過ぎてしまったようだ。
とはいえ深酒の影響が身体に残っている風ではなく、むしろ普段よりも寝覚めが良い。ぐっすりと眠ったおかげだろうか。気力が漲っている感覚すらあった。
焦げ茶色にくすんだカーテンを開ければ、空にはまだ微かに夜の面影が見えた。
ベッドからそろりと抜けだし、桶に張った冷たい水で全身を清めてから、再び職員の制服へと袖を通す。
それから、寝室の壁に立て掛けたままになっていた、かつての仕事道具を手に取った。
今日ばかりは、念には念を入れて持って行くことにしよう。ギルドにいる間は、どこか知り合いの手元にでも預けておけばいい。
もうずいぶんと使われなくなって久しいそれには、人目から隠すように厚手の布が巻かれている。表面に積もっていた塵や埃を手で払ってから、私はそれを肩に担いだ。
狭い家の中を歩くのに合わせて、カツ、コツン、と長柄の先と壁のぶつかる無機質な音が響いた。
「……いってきます」
家の中に向けて小さく声を掛けたものの、弟からの返事はやはりなかった。
◇
――ギルド職員の朝は、とにかく早い。
まだ夜の明けきらないうちから仕事場にやって来て、日の出を告げる教会の鐘の音が聞こえてくるまでに、冒険者を迎え入れる準備を整えておく。具体的にはホール内の清掃と、クエストボードの貼り替えだ。
「リホさん、新規の依頼はこちらで全部です。難度毎に揃えて、いつもの通りに左詰めで貼り出してください」
「は~い、了解でっす。ナギせんぱい」
私たちが種々の準備を終えて玄関扉の施錠を解く頃には、気の早い冒険者たちはもう外で待ち構えている。
「お待たせいたしましたぁー」というリホさんの間延びした開場宣言に誘われて、今日も武具に身を包んだ男たちがドカドカと足音立ててホールに雪崩れ込んできた。
そして、彼らの多くは一直線にクエストボードへと向かう。
いかに命知らずの冒険者たちといえど、普通の職業人と変わらず、活発に動き回れるのは日の出ている間だけだ。それでも依頼の性質上、遠出を余儀なくされる彼らにとって、朝の動き出しは早ければ早いほど都合が良いのだ。
「おい、見てみろよ。ゴブリン討伐でこの報酬額、これにしようぜ」
「バカが、場所見ろよ。この街からどれだけ距離あると思ってんだ。旅費だけで赤字だ」
「相変わらず『行商人ジョン』からの依頼は、てんで話にならないな。誰が受けるんだこんなの」
「なら、これでどうよ。薬草採集で銀貨が――」
特に、新米や実力不足の冒険者にとって、朝一番のクエストボード確認は必須といってもいい。
彼らの身の丈に合う難度の依頼ともなれば、基本的に報酬は微々たるもの。かといって、背伸びした依頼をこなす勇気も度量はない。難度の高さは、すなわち死の近さでもあるからだ。
となれば、少しでも良い条件の“ぬるい”依頼を見つけだして、他者より先んじて確保することは、彼らが冒険者稼業を続ける上での最重要事項となる。
「その依頼は俺たちが先に目を付けてたんだぞ!」
「手ぇ伸ばしたのはオレが先だ!」
……早朝、貼り替え直後のクエストボード前は、ある種の戦場だ。
命と生活が掛かっていることとはいえ、見ていてあまり気分の良い光景ではない。
カウンターへと戻ってきたリホさんが「まるでエサに群がるヒナ鳥って感じですよねぇ」と皮肉るように言った。
「リホさん。無駄口叩く前に、手を動かしてください。今日の担当業務は、私の受付補佐ですよね。地図の用意は済んでますか? 提示資料の再確認は? 補足事項の共有は? それから――」
「ナギせんぱいこわぃ~」
えーんと嘘泣きをしながら資料室へと向かったリホさんを見送ってから、私自身は受付の業務へと戻った。
……とはいえ、何もやることがないのだが。
私の両隣のカウンターでは、すでに二組の冒険者パーティが手続きを始めている。受付嬢もその補佐も、忙しなく業務に勤しんでいた。
ヒナ鳥たちの多くはまだまだエサの奪い合いに夢中なようだが、ホール全体を見回してみるに、手続き待ちらしい者は何名か見受けられる。
しかし、咳払いをして私が手隙であることをアピールしても、冒険者たちがカウンターまで近付いてくることはなかった。彼らは時折資料室の方へと視線を泳がせながら、そわそわと所在なく立っているばかり。
前髪の下に隠れる傷跡は、今日も今日とて人避けに一役買っているらしい。
リホさんが資料室から戻ってくるまでは、私も大人しく待っているしかないようで――。
「――ただいま戻ったァ!」
勢いよく扉の開くバンッという音と、遅れて響いたその大きく低く重くくぐもったひと声が、ホールを包んでいた喧噪を断ち切った。
静まり返った空気の中、一際目立つ黒鎧の戦士がゆっくりと歩く。
開いたままになっている入口扉から、私の待つ受付カウンターまでを結ぶ最短距離を、ただただ真っ直ぐに。
彼の進路を塞ぐように佇んでいた何名かの冒険者たちが、弾き出されたかのように一斉に飛び退いて道を空けた。
ぴっしりと二つに分かたれた人垣を堂々と歩く彼の姿は、なるほど、そこらの貴族に引け劣らないような威厳を感じさせた。
「……お疲れ様です、ウガルゥさん」
「うむ。ただいま戻ったぞ、ナギよ。喜べ、今日は珍しい土産も持ってきた」
“砂礫”のウガルゥ。
カウンターから見上げるその姿は、やはり異様の一言しか出ない。
恵まれた体躯を包むのは、頭からつま先まで全身一分の隙間もない漆黒の全身鎧。兜から伸びる飾り角の先端まで黒いのだから、とにかく徹底している。
本人曰く「黒色は父性の象徴だから」とのことらしい。考えるだけ無駄、というわけだ。
顔全体を覆い隠す黒曜の兜のせいで、彼が今どんな表情を浮かべているのかを窺い知ることはできない。そもそも、私を含めた大多数の人間が彼の素顔を知らない。
そんなウガルゥさんは、今日もカウンターに身を乗り出すようにして顔を近付けてきた。
その妙に弾んだ声音には、いつも薄気味悪いものを感じている。粘っこく絡みついてきそうな何かを、だ。
「さて、ナギよ。我を“父”と呼ぶ心の準備は出来たか」
「……お話はエリックさんから伺っております。サイクロプス討伐の完了報告ですね」
「そう恥ずかしがらずともよいのだ。自らの心に素直になればいい」
「回収した魔石はお持ちでしょうか。鑑定させて頂きますので、こちらに提出をお願いします」
「そうそう、土産とはその魔石のことよ。なかなかに興味深いぞ。我はこれを一刻も早くお前に見せたくて、急いで帰ってきたのだ」
「お預かりいたします。鑑定結果をお待ちの間、こちらの書類にご記入をお願いします」
「すごいだろう、偉大だろう。さぁ、娘よ。我のことを父と呼んで慕うがいい」
「お断りします」
お定まりな私の拒絶を前に、ウガルゥさんは「何故だ……」と呟いて沈み込むように肩を落とす。
それから、緩慢な仕草で懐から大粒の魔石を取り出すと、「何故、父と呼んでくれないのだ」と首を傾げながら手元の書類に羽ペンを走らせ始めた。
ウガルゥさんが永遠に解の出ない命題と向き合っている間に、私は差し出された魔石の鑑定に取りかかる。
魔石とは、モンスターたちの動力源にして魂の器だ。
その紫の透明な結晶の内部には、それぞれ固有の“紋様”が刻まれている。光に透かしたそれを読み取ることで「その魔石がどのモンスターの核であったのか」を特定することが可能なのだ。
『C』、『Y』、『C』、『L』、『O』――。
規則正しく等間隔に並ぶその図柄を、形そのままに手元の用紙へと書き写していく。
教会の教えによれば、これらの紋様が則ち天界の文字を示しているとのことだが、真偽はもちろん定かではない。
書き写したそれらをギルド所蔵の『モンスター目録』と照らし合わせることで、その紋が依頼の討伐対象と本当に一致しているかどうかを確認する。
心ない冒険者の中には、依頼と全く関係ない低位のモンスターの魔石を持ってきて、討伐報酬を騙し取ろうと考える愚かな輩もいるからだ。
鑑定は受付嬢の担う業務の中でも特に注意が必要で、二度三度と慎重すぎるぐらいに確認を行うのが常であった。
とはいえ、今回に限っては結果が分かりきっている。
私自身の鑑定経験を抜きにしても、彼の持ってきた魔石は見覚えのある大きさと質感で、まず間違いなくサイクロプスのそれだと断じられる物だったからだ。
珍しいお土産と称するには、少々無理がある。
「確かに、サイクロプスの魔石で間違いありません。依頼達成おめでとうございます」
ここは手早く済ませてしまおうと、私は魔石の鑑定を早々に切り上げ、ウガルゥさんが手渡してきた書類に「依頼達成」の判を押した。
しかし、そんな私の事務的な振る舞いが気に入らなかったのか、ウガルゥさんが待ったをかけた。
「? ナギ。お前ほどの娘が、何も気が付かなかったのか?」
「……何の話でしょう」
「普通の石ではなかったろう、それは」
そう答えたウガルゥさんがサイクロプスの魔石を指差す。
何を言っているのかが分からない。
見たところ、特に違和感はなかったはず……だ。希少な大粒の魔石というくらいで、それ自体に何か細工がされているということはない。もちろん、硝子細工の偽物ということもありえない。
「仰っている意味が分かりかねます。魔石の価値に対して、報酬が少なすぎるということでしょうか。ですが、それは契約で――」
「そうではない。我がお前の仕事にケチを付けるなど……、この模範的な父たる我が、将来の娘を困らせるようなことを言うと思うか?」
……困らせるようなことしか言ってないと思うが。
「ナギ。見るべきは、その魔石の中に刻まれている文字だ。彫りの深さをよく見てみろ。石の中の文字を“上からなぞった”ような跡があるだろう? それも、粗いなぞり方でな」
紋様の刻まれ方に、はっきりとした違いがあると?
彼の指摘に促されるようにして、私はもう一度魔石の中を覗き込んだ。
「石の中に文字を刻むなど、本来なら神にしか出来ない芸当だが。その汚い文字の刻み方には、随分と人間味があるとは思わないか? この面白さは、お前にしか分かるまい」
ウガルゥさんの言う“上からなぞった”痕跡は、よくよく目を凝らしてようやく見受けられる程度の差異だった。なるほど、彫りの深さが均一ではないのは確かだ。
だが、指摘されて初めて違和感を覚える程度で、ベテランの受付嬢とて初見で容易に気付けるものではない。
そもそも、紋様の内容を気にすることはあっても、その刻まれ方に注意を払うことなどないからだ。
そして、気付いたところで何が変わるわけでもない。サイクロプスはすでに斃れ、依頼達成の判は押され、報酬は事前の契約通りに支払われる。
彼の観察眼の深さには舌を巻く外ないが、今時点でギルドが出来ることはそれだけだ。
「あのサイクロプス自体もどこか、妙な相手だったのだ。まるで、戦う前から我のことを見知っているかのような、心に怯えを纏っていた」
「特殊な個体だったと? Aランク冒険者であるウガルゥさんの迫力に、恐れをなしただけでは」
「本能と経験ではまるで違う、あれは明らかに甘えだ。お前もよく知る類いのな」
「……申し訳ありません。仰っている意味が分かりかねます」
ウガルゥさんはクエストボード前にたむろしていた冒険者たちを睥睨し、それから含み笑いを漏らした。
「一度戦うと決めておきながら、つまらん理由に迷って怖じ気づく。そんな覚悟の足りない連中なら、ここにも山ほどいるだろう」
「それとサイクロプスと、どういう繋がりが――」
「つまり、モンスターの身体にそういう臆病な人間の魂が乗っていた、と我は感じたのだ。どうだ、面白い土産だろう? フハハハハハ」
「……」
どこが面白いのだ。
本当に、この男は薄気味が悪い。底が知れない。実力だけではない、感性の鋭さ。
構って欲しそうに高笑いを始めたウガルゥさんだったが、その期待に応えるつもりは全くない。手続きは従前通りに進めさせていただく。
「……報酬は契約通りの額をお支払いいたします。しかし、ウガルゥさんの抱いた違和感については、ギルドとしての対応を考える段階にはないものと考えます。情報があまりにも、主観に依りすぎていますから」
「うむ、それは仕方あるまい。我にとっても初めての事だったからな」
「ご理解頂けて嬉しく思います。では、手続きの方を――」
「ところで、ナギよ。我に言うべき言葉があるのではないか?」
「はい?」
聞き返そうとしたところで、両手いっぱいに資料を抱えたリホさんが見計らったようにカウンターへと戻ってきた。
「言われた通りに資料持ってきましたぁ……って、なんでそんな男――じゃなくて、ウガルゥさんなんかと見つめ合ってるんですかぁ~!?」
「いえ、何でもありません。ということでリホさん、こちらの依頼報酬の用意をお願いします。それと、この魔石を所定の場所に」
「せっかく急いで戻ってきたのに、この仕打ちぃ……。『頑張ったね可愛いよ大好き』って褒めてくれないんですかぁ~? 頭なでなでは~?」
「仕事しなさい」
「そうだぞ、ナギよ。我にも言うべき言葉があるだろう。『父上素敵です尊敬します』と我を褒めるのだ。特別に頭も撫でてくれても良い」
「黙りなさい」
私が苛立たしげに指先でトントンとカウンターを叩くと、リホさんとウガルゥさんは二人そろって肩を震わせて、「ゴメンナサイ……」と息ぴったりに呟いた。
……まるで親子のように。