地獄へようこそ!(1)
私、進藤素直は長い旅路の果て(昼休憩開始から約十五分経過)、ついに安住の地を見付けました。
湯月さんに連れられてやって来たここは、別館四階、その端の端にある小さな部屋です。 磨りガラスの覗き窓がはめ込まれた入口扉には、習字のお手本かのような美麗な文字で「ゲーム開発部 部員以外立ち入り禁止」と書かれたA4用紙が貼り付いています。
思い返してみれば、高校に入学してからというもの、“部室”というものに縁がなかった私です。いかに招かれた立場とはいえ、こうもはっきりと「立ち入り禁止」を標榜する場所にお邪魔するのは初めての経験。
そんな人跡未踏のフロンティア(?)へと続く扉を、湯月さんは何ら躊躇することなくさっさと開けてしまいます。
瞬間、「快適」の二文字で表現するのがもったいないほどの冷感が、私たちを出迎えてくれました。
「お邪魔しまー……おぉ、キレイで涼しい」
「あわぁ~」
「ゲーム開発部」というかなり「ぷろふぇっしょなる」な響きから、数十台のパソコンが整然と並び、ネオンの光が室内を妖しく彩る、眼鏡率100%のサイバー空間を勝手にイメージしていたのですが……。
実際の室内は想像よりもずっとシンプルで、むしろ寂しげですらありました。
パソコンは窓際に置かれたデスクトップ一台のみのようで、机と椅子もその一席分しか並んでいません。あとは右手側の壁際にカウチソファーが一脚と、その反対側には本のぎっしり詰まったスチール棚。
目に留まるのはそれくらいの物で、教室の半分ほどしかない狭い部屋のはずなのに、むしろ広々と開放的にすら感じられました。
なるほど、犬と一緒に過ごすには最適な空間ですね。
「……あっ。いらっしゃい、湯月さんと進藤さん」
私たち二人の来訪に気付いた百木さんが、そのたった一台しかないパソコンの陰からひょこっと顔を覗かせます。
それから、とてとてと小さく足音を立てながら彼女は嬉しそうに近寄ってきました。相変わらず、小柄で愛嬌のある見た目と仕草がちゃーみんぐな方です。
「やっほー、百木さん。急に押しかけてごめんね? 大丈夫だった?」
「いえいえ、いつでも歓迎ですよ。八嶋さんもよく遊びに来ますし。そこのソファは特等席なんです。ふふっ」
「あっ、ふーん……。そうなんだー。でも、アタシもその気持ちはよーく分かるかも。だって、すっきりしてて素敵な部室だもの。なんだか羨ましいよね、進藤さん?」
「ぁっぷぼほぅ!」
「……なんで?」
私も湯月さんを見習って「やっほー」というフランクな挨拶に挑戦してみましたが、慣れない息遣いのせいでエサに興奮する豚の鳴き声みたいになってしまいました。
百木さんが「ぷぼ?」と不思議そうに首を傾げています。その可愛い仕草を引き出せただけでも、挑戦した価値はありました。という現実逃避です。
開幕から絶妙な空気が漂ったところで、湯月さんが「き、急にごめんねー? いやしかし、本当に綺麗な部室だね。羨ましいよねー?」と仕切り直しました。
よ、よし。先ほどは挨拶に失敗しましたが、湯月さんから再びチャンスをもらえました。今度こそこの決定機を逃さずにゴールを決めてみせます。
ふーっと深呼吸を始めた私を、湯月さんが不安そうに見つめていました。その顔には「おいおい大丈夫か……」と色濃く書いてあります。
先ほどは、ほとんど接点のない方に対して、軽々しく振る舞おうとしたから失敗したのです。もっと「ふぉーまる」に……。「ふぉーまる」って何でしょう。
とりあえず、私は右手に提げたコンビニ袋をぐっと百木さんの方へと差し出します。
「えっ、えっ?」と困惑しながら受け取った彼女を置き去りに、挨拶、感謝、感激、感動、自分の中に渦巻く感情全てを丁寧に言語化してぶつけてみました。
「ほっ、本日はお招きいただきありがとうございます、私は姓は進藤、名は素直、って同じクラスだから御存知ですよね……、いやいやそれも自意識過剰ですよね知らないかもですよね、私は空気ですからね、この部室と違って淀んだ空気の塊ですからね……、あ、窓開けましょうか、ってクーラー付いてましたね、えへへっ」
「あっ、え、はい……?」
「い、いやー、それにしても今日は暑くて嫌になりますね……、私もちょっと疲れたけどお昼休みどうしようかなーと思っていたんですが、そしたら湯月さんに誘われまして、なんだか涼しい部室なんだなー、同席しても大丈夫なのかなー……、なんてフラリと立ち寄ったらですよ、まさかこんな部屋だったなんて、やっぱり百木さんって女神なんだなって確信しましたよ、いえ、だから本当に他意とか全くないんですけど、この巡り合わせへの私の気持ちとして、良かったらこのパンを百木さんと飼ってるワンちゃんに食べていただけたらなーなんて――」
「進藤さん、落ち着いて! もう十分だから、百木さん若干引いてるから!」
湯月さんの必死の制止を受けて、まだまだ吐き出し足りない言葉の数々を喉の奥で堰き止めた私は、生唾と一緒にそれらをごくりと飲み込みました。
「あっ……えっと、つまり……。コンゴトモヨロシク、です? えへへっ……」
最後にそう締めくくったものの、いつのまにか喉はカラカラに乾いていて、私は二本目のシュートすらゴール外に盛大に打ち上げたことをようやく自覚しました。
百木さんは呆気にとられたように口をパクパクさせながら、ようやく「なんで犬……?」と絞り出すと、助けを求めるように私から湯月さんの方へと視線を逸らしました。
その眼鏡の奥のくりくりとした瞳には、明らかに怯えの色が浮かんでいるようです。
……。
うん、これはやっちまいましたね。
地獄のような空気が出来上がったところで、湯月さんが「急にごめんね!? 綺麗な部室だね!? 羨ましいね!?」と力技で全てを強引に仕切り直しました。
はい。
ちょっと空気を入れ替えたいので、窓開けてもいいですか……?