犬と伏線は隠すもの
私、進藤素直の頬を柔らかな初夏の風が撫でます。
……と、頑張って詩的な表現をしてはみましたが、正直暑いです。熱風です。暑すぎます。まだ六月も始まったばかりだというのに、これはもう堪りません。
太陽の熱にじりじりと肌を焼かれながら、「あー、ひんやりソードがほしいなぁ」なんて思ってしまいます。そんな風に祈ったところで、用意してくれる神様などいるはずもないのですが。
ここは九世高校の別館、人のあまり寄りつかない屋上です。
誰の目を気にすることもなく静かに過ごすには絶好のスポットなので、お昼休憩には必ずここに立ち寄ります。
とはいえ、全く人が来ないというわけでもなく、園芸部の方がプランターに水を遣りに来ては私に気付いてぎょっとしたり、吹奏楽部の子が個人練習をしに来るも私の存在に気付いて踵を返したりはあります。
本当に、静かで良い場所ですね。ははは、はは……。
照りつける陽射しがアスファルトに反射して、目がチカチカします。雲一つない青々とした晴天を恨みたくなるのは、これが初めてかもしれません。
そんな白青二色の世界に彩りを添えてくれているのは、園芸部さんたちがぎょっとしながらお世話をしているプランターの花たち。季節を先取りしすぎた猛暑にやられて、明らかに萎びています。まさに諸行無常の絶景スポット。心が痛い。
学年掲示板の前で醜態を晒した後、逃げるようにやってきたいつもの屋上でしたが、ここも安住の地と呼ぶには程遠いです。
心なしか、今日のお昼ご飯にとコンビニで買ってきた「サクサクッ! 焼きたてメープルメロンパン」も「カリカリッ! 揚げたてビーフカレーパン」もホカホカに温まっているような気がします。とても疑わしい「焼きたて」「揚げたて」という商品名でしたが、どうやら真実だったようです。
「ヤバ……暑すぎる……。そろそろ屋上でお昼は厳しいかもね……」
私の心中を的確に代弁してくれたのは、濡れタオルを頭に乗っけた湯月さんです。
最近はお昼休憩も二人で過ごすことが多く(兵頭さんはなんだかいつも忙しそう!)、今や彼女もまた私同様に地球環境の被害者になっていました。
いえ、加害者は私たちで、地球さんの方が被害者なのでしょうか……?
『人類文明の発展による地球環境の破壊がうんたらー!』
『有用な園芸部の人間だけを残し、それ以外の人間たちの数を減らしてうんたらー!』
『我々「おはな団」の手で世界の空気を清く正しくクリーンにうんたらかんたらー!』
……風に揺れる萎びたプランターの花たちの姿は、そんな切なる主義主張を私に訴えかけているように見えます。
ごめんなさいごめんなさい。うねるような熱気に包まれて今にも倒れそうなのは、私たちも一緒なのです。あとでお水あげますから許して!
「進藤さん。とりあえず、あそこの日陰に行こっか……」
「はい。生きててごめんなさい」
「何の謝罪!?」
とにかく戦略的撤退です。
冬場ならありがたい程度に温まったベンチに座るのは断念し、四角い貯水タンクの作る日陰へと逃げ込みます。一瞬、ひんやりとした解放感が肌を包み込みました。
「お、全然違っ――わない……。暑いじゃん、そりゃそうだよ……」
急に吹いてきた暖風が私たちの体感温度を一気に引き上げました。そりゃそうです。
お日様ぎんぎらりんな日向よりはマシとはいえ、流れる汗は留まるところを知らず、さりとて行く当てもない現状に頭を悩ませます。
そんな絶望的なお昼事情を打破すべく、湯月さんが「よしっ」と立ち上がりました。
「限界。無理! 進藤さん、もっと涼しい所に行くよっ!」
「どこか、行く当てが……?」
「百木さんのところに行ってみよう! 確か、ゲーム部? の部室がこの下にあったと思うし。『あの部屋、クーラーあるから超快適だぜ~』って、前にヤシマリが自慢してた」
「くーらー!!!」
なんと甘美な響きでしょう。それにしても、何故、部員じゃない八嶋さんが自慢げに語っているのでしょうか。
「それは、あれだよ! あの二人がラブラ――なんでもない今の忘れてまだ確証ないけど陰から全力で応援したいからっ!」
「は、はぁ。忘れましたばっちりさっくりサクサク焼きたて」
といいつつ、何を忘れればいいのか分かっていません。
らぶら? らぶら――ラブラドールレトリバー。
百木さんと八嶋さん、クーラーのある部室でこっそり犬を飼っているんでしょうか。いやいや、こっそり飼うにはデカすぎませんか……ラブラドールレトリバー。
意味深な発言と、熱気と、急な部室訪問と、地球環境の改善と、考えることが多すぎて頭がクラクラとしてきました。
あまりの暑さに私のすかすかスポンジ脳が煙を上げ始めています。私のことをフレンチトーストだと思うなら、もう少し火加減を調整してほしいです。
一方、湯月さんはササッとスマホを操作したかと思うと、立ちすくむ私の手を引いてさっさと歩き始めます。
ところで、いきなり行っても大丈夫なものなのでしょうか……?
「きゅ、急に伺っては、先方のご迷惑になるのでは……?」
「大丈夫! 今、『そっち行っていい?』ってメッセージ送ったよ。返事まだだけど」
「日時のあぽいんとめんとは……? あじぇんだの設定は……?」
「返事きた。百木さん『大丈夫です』って。やったね」
「か、菓子折のご用意は……!?」
「……え、えーと、クッキーあるから皆で食べよっか……?」
「袖の下はいくらお渡しすれば!?」
「いや、相手ただのクラスメイトだから! 基本無料のワンプランだから!」
ずるずると引き摺られるようにして、屋上からの階段を下りました。
ここ別館は作りのせいか風通しが悪いようで、屋内であっても涼しいとはいいにくい、湿度の高いもわっとした空気に包まれています。
私自身は無自覚なまま、頭はずっとオーバーヒート気味です。
「確か、四階の一番奥の部屋だったと思うけど……。こっちかな」
案内役の湯月さんを先頭に、物が無造作にごちゃごちゃと置かれた廊下を歩きます。用途不明なニワトリの着ぐるみや、埃を被った石膏像、足の折れたイーゼルなどを目の端に映しながら、私はわずかばかりの不安に襲われていました。
湯月さんとは違い、これまで百木さんとの接点に乏しい私です。
なら基本無料なのは湯月さんだけで、初回はお友達登録料とか発生するのでは……?
やはりここは「びじねすまなー」の観点からも、手土産の一つでも用意すべき場面に違いありません。
ですが、今すぐに渡せる物はといえば……。
私は手元のコンビニ袋の中をチラリと覗き込んで、そこにメロンパンとカレーパンがあることを確かめます。
兵頭さんの「お前はフレンチトースト」発言を聞いて以来、口の中はすっかり甘い物を食べるモードになってしまっています。
ふわふわ甘々なフレンチトーストを手に入れる術がない以上、甘々じゅわーっなメープルメロンパンを口にすることで、この欲求を満たすつもりだったのですが……。
すっぱりさっくり諦めるしかないようです……。
さっくりサクサク“を”諦めるしかないようです……っ!
ぐぬぬと歯がみする私を見て、湯月さんが「ひょっとして緊張してるの?」と苦笑いを浮かべます。
「大丈夫だよ、進藤さん。兵頭の時みたいに、アタシがちゃんとフォローするから。ほら、ロキさんからもそういう仕事を任されてるわけだし?」
「むむむむ」
「何もむむむじゃないよ。それに今日の放課後は、進藤さんも皆と一緒に『お疲れ会』参加するんだから。百木さんとも今のうちに仲良くなっておけば、倍楽しくなるよ!」
そ、そうでした。今日は「放課後に友達と一緒に遊ぶ」という高校生活でも類を見ないビックイベントが待ち構えているのです。
普段、部活動にお忙しい八嶋さんと百木さんが揃うめったにない機会なのだと、湯月さんは教えてくれました。私の方も幸いなことに今日はバイトの連絡がないので、喜び勇んでの参加が決定した次第です。
今日まであまり接点のない、なんならちょっと距離を感じるお二人と仲良くなるチャンス!
この機会をものに出来たなら、私のクラス内での地位は急浮上し、「りあじゅー」の末席に名を連ねることとなり、夜はぐっすり眠れること間違いなし!!
裏を返せば、そこでの失敗は(学校生活における)死に直結するということを意味しています。八嶋さんからはバスケットボールを投げつけられ、百木さんからはパソコンを投げつけられる暗黒の未来が待っていることでしょう……。きっと夜も六時間しか寝れない。
となれば、やはり事前の「ねまわし」が重要になってきます。
つまり、百木さんとその飼い犬に手持ちのコンビニパンたちを捧げ、「今後ともご贔屓に。ぐへへっ」と越後屋方式で顔を売る。打てる手はそれしかない!
もう覚悟を決めましょう!
お昼ご飯を抜くという、前代未聞にして一世一代の苦渋の決断。臥薪嘗胆で断腸の思いですが、こればかりは仕方ありません。
望む未来を手にするためなら私はっ、「ごはんは一日三食ちゃんと食べる」という世の理から外れることも厭いません!!
「湯月さん!」
「ん、どしたの」
「百木さんのワンちゃん……お犬様に献上するなら、カレーパンよりメロンパンですよねっっ!!???」
「えっ、はっ? う、うん。そうじゃない……? 全然わかんないけど。……えっ、犬?」
「ですよね! ありがとうございます!」
よし、不確定要素も排除。準備は万全。我ながら寸分の狂いもない完璧な「ぷらん」を構築できました。これぞまさしく学年12位の頭脳、その真骨頂ですね。冴え渡ってます。
「今日の私、最高にクールです!」
「いや、めちゃくちゃ顔真っ赤だよ!? 暑いよね? 大丈夫!?」
湯月さんの心配もよそに、狭い廊下で軽快にスキップを始めた私は、やはり暑さでおかしくなっていたのでしょう。
テスト結果も、友達関係も、想定以上に勢いよくゴロゴロ好転していたせいで、浮かれていたのもあるかもしれません。
……ですが、その坂を転がった先に落とし穴がないとは限りません。
伏線やフラグというものは、当人だけが見えない程度の露骨さで、張られたり立ったりしているものですから。
たとえば、スキップに夢中になっていた私が、ポケット中のスマホが震えたことに、全く気が付かなかったように――。
動いてないのに暑いよ~。