娘に甘いは女神の習い
「次、湯月」
「はい」
ふっくらした女の世界史教諭から、先週受けたテストの答案用紙を受け取る。おそるおそる右端の点数を見れば、そこには赤ペンで「62」の文字。決して良くはないだろうけど、まあ悪くはないと思う。
歴史科目があまり得意でないという自身の傾向を考えれば、それなりに健闘したとさえいえる。かといって、大手を振るって喜んでいいかといえば微妙だが。
普段は授業態度の良好な我がクラスだけれど、テスト返却のこの瞬間ばかりはそうも言ってられない。アタシよりも先に答案用紙を受け取ったクラスメイトたちは、悲喜交々入り交じった話し声を教室中に広げていた。ちょっとしたお祭り会場のよう。
「どうだったー……? ユズユズ」
着席するなり、振り返ったヤシマリが声を掛けてきた。「ん」と声に出して、彼女の方にその可もなく不可もない点数を見せる。
横目でそれをチラッと見た途端、ヤシマリは瞠目して大きく肩を落とした。
「歴女かよー……」
「いや、この点数でそれは名乗れねーわ。ヤシマリは?」
すでにポケットに仕舞えるサイズにまで折り畳まれていた彼女の答案用紙を広げてみれば、そこには目を覆いたくなるような素敵な数字が躍っていた。
なるほど。比較対象がこれなら、アタシが歴女を名乗れる日も近いかもしれない。
「ヤシマリちゃんが世界に羽ばたくのはまだ早い。まずは国内でトップを獲ってからだー!」
「いや、アンタ日本史も散々だったじゃん……」
絶望に打ちひしがれるヤシマリは放っておいて、二つ前の席の百木さんにも声を掛けてみる。
「百木さんはどうだった?」
「あっ、はい。87点でしたね」
「え、すごいね! かなり難しかったのに」
百木さんは特に恥ずかしがることもなく、わりと気軽に点数を教えてくれた。高得点を誇るでもなく淡々と。
余裕と謙虚さは自信の現れであり、素直に尊敬したくもなる。斜め後ろの席で満点自慢をしている兵頭とは大違いだ。アイツはあんなだから人望が薄いのだ。
さて、そんな百木さんの点数を聞いて、ヤシマリはいよいよ血の気を失った。
「モモッキー、歴史博士かよー……」
「え!? いえいえ。兵頭さんに比べたら、私なんかまだまだです」
「……だってさ、ヤシマリ。私が歴女で、百木さんが歴史博士なら、兵頭は何なのよ?」
「歴史文化遺産」
「人間やめたのかアイツは」
アタシたちのやり取りを聞いていた百木さんが、くすりと微笑んだ。
「本当に仲良しですね。お二人とも」
「えっ!? あ、いや、まーね……へへへ」
「羨ましいです」
赤面したヤシマリが何故か狼狽えるような反応を見せたので、アタシは首を傾げてしまう。百木さんとヤシマリはお互いに目配せしてから、二人にしか分からない秘密のやり取りでも交わしたかのように「ふふっ」と息を漏らした。
ははーん。これはもしかして、ひょっとして、ひょっとする……?
最近、ヤシマリと百木さんはとても仲が良いように見える。
というより、アタシと兵頭が進藤さんのお世話係を拝命していたせいで、二人との距離がちょっと空いていたせいもあるんだけど。二人とも、進藤さんに対してなんだか苦手意識を持ってそうなんだよね。
よくよく思い返してみると、ヤシマリって昔から男子に興味なさそうだった。
中学の頃、アタシがクラスメイトのイケてる男子の話とかすると、露骨にイヤそうな顔してたし。好きな人いるか聞いても「いるけど教えない」の一点張りだったし……。
色々あったおかげで、最近のアタシは女の子同士の恋愛も“アリ”なんじゃないかって思い始めているわけで。
元気なスポーツ少女のヤシマリと、優しい文系少女の百木さん。属性的にも真逆っぽいしイイ感じかも。アタシの脳内で、ファミレスのあのモサ眼鏡店員が「キマシタワー」って叫んでいる。
アタシがニヤニヤしているのに気付いたヤシマリが、「何? どったのユズユズ」と怪訝な顔で尋ねてきた。
「別にー。お気になさらず」と返すと、ますますヤシマリは複雑な表情になった。百木さんの方はこてりと可愛らしく小首を傾げている。
「……ねーねー、ユズユズ。今日さ、放課後遊びに行かない? 『テストお疲れ』会ってことでさ」
「この前の休みも二人で行ったでしょ。電車乗って服買いに」
「あれは『テスト終了お疲れ様』会だよ。今日のは『テスト結果残念だったね……まぁ、お疲れ……』会だよ。へへへっ」
「ひ、悲壮感が漂ってる……」
大体、放課後ってバスケ部はどうするのよ、と聞きかけてやめた。
以前ヤシマリが言っていたところによれば、バスケ部の顧問と鬼コーチは「文武両道」を運営方針の第一に掲げているらしく、学業の成績や生活態度にもかなり口うるさい方らしい。
答案用紙の返却は今日、この世界史の授業で最後だ。
クラス担任の言によれば、本日の昼休みには学年掲示板にクラス順位が掲示されるとのこと。部活の顧問ともなれば、部員の成績はいち早く耳にしていることだろう。
……つまり、ヤシマリの命運は尽きたというわけだ。
「その、なんというか。残念だったね……まぁ、お疲れ。ヤシマリ」
「へへへっ、へへっ」
全てを察して同情を示すアタシに対し、ヤシマリはヘラヘラと感情のカラカラに渇いた笑いを放っている。長い付き合いだから分かるが、これは本当に切羽詰まったときのやつだ。
しょうがない。
どうせ明日には、顧問やコーチや両親にこっぴどく絞られるのだろうから。
アタシくらいは甘やかしてあげないと。それも親友としての務めだ。
「分かった、いいよ。『お疲れ』会。その浅はかな現実逃避に付き合ってやろう」
「! やったー。モモッキーはどう? 放課後空いてる?」
「はい、大丈夫です。私も、今日の活動はサボっちゃいます。ふふっ」
楽しそうに頷く百木さんだが、ゲーム部(?)は大丈夫なんだろうか。いや、なんとなく文化部ってゆるーいイメージがあるけれど。
でも、ヤシマリが嬉しそうだからいっか。そうだよね、好きな子と一緒に遊ぶ数少ないチャンスだもんね。親友として、ここはしっかりサポートしなきゃだ。
「ヒョードルも委員会ない日だよね、今日って」
「だったと思うよ。兵頭、部活も入ってないから空いてると思う」
チラリと教室後方へと顔を向ければ、未だに隣席の女子に満点自慢を繰り広げていた兵頭と目が合った。こちらの話が聞こえているはずもないが、なんだかウインクして親指をグッと立ててきたので、こちらも親指を立てて返す。意味は全くない。
「あとは、その……」
百木さんが口をもごもごと動かし、辺りを窺うように声を潜める。眼鏡の奥の瞳をすっと細めた。それきり続きを言わない百木さんに代わって、ヤシマリがその先を引き取った。
「えっと、そうだね。シンドーさんも……」
と、ヤシマリが言いかけたところで「んんっ」というわざとらしい咳払いが教壇から響いてきた。どうやら答案返却とお祭りタイムが終了したらしい。それを合図に、クラス内に広がっていた喧噪のボリュームが徐々に小さくなっていく。
アタシたちも相談はそれっきりに、姿勢を正して黒板の方へと椅子を向けた。
ふくよかな世界史教諭が、出題した設問について一つ一つ丁寧に解説を始める。
だけどアタシはといえば、ちょっぴり上の空でそれらを聞き流していた。
ヤシマリが進藤さんの名前を出しかけたことに、驚きと嬉しさと意外さとを同時に感じていたのだ。
まだ、二人の間には途方もないほどの距離がある。そのことを気にしているのは、アタシだけではないのかもしれない。さっきも、百木さんがヤシマリの背中を押したようだったし。
変な勘違いさえしなければ、進藤さんが誘いを断るとは思えない。彼女は臆病で思い込みが激しくて人見知りが過ぎるだけで、基本的には「友達百人できるかな」という高い目標を設定している(らしい)のだ。
ヤシマリと百木さんの二人と一挙に仲良くなるビックチャンスとくれば、きっと喜びと怯えで震えながら参加してくれることだろう。高速振動する彼女の姿が目に浮かぶ。
もっとも、懸念材料がないわけではない。
一つは、今日に限って異世界でトラブルが発生し、ロキさんの緊急呼び出しメッセージが届くこと。その場合、アタシもヤシマリとの約束を反故にして行かなくちゃだから、余計気まずいんだけど。
「結局、ロキさんの手の平の上か……」
世界史教諭の熱心な解説の中に、アタシのスケールだけはやたら大きい小さなぼやきを混ぜ込む。
あの女神、口では「スナオに友達がいっぱいできるといいね」なんて言いつつ、内心では絶対にそんなことは思っていない。
進藤さんの人間離れした能力を思えば、独占したくなるのも頷けるけれど。それにしたって、あの溺愛ぶりは甘すぎて胃もたれしそうなくらい重い。
アタシたちの放課後の予定を察知した上で、邪魔してきたりはしない……よね?
こればかりはないと信じたい。あの神に良心を求める方が間違っているような気もするけれど。
答えを求めて探るように、手慣れた仕草で教室の真ん中へと視線を泳がせてみる。そこにはいつもと変わらない、見慣れた固い表情そのままの進藤さんがいた。
だが、解説を真剣に聞いているのかと思えば、どうもそんな感じには見えない。どことなく落ち着きが無く、そわそわと身体を小さく前後に揺らしている。
もう一つの懸念材料があるとすれば、進藤さんがテストで赤点を取ってしまうことなんだけど。
……大丈夫かな、これ。