兵頭さんがみてる(1)
私、進藤素直は絶賛緊張中です。
「――つまり、ここの解には『in』が入る。分かったか?」
「にゃ、にゃるほどぉ~」
窓から覗く空はすでに暗く、壁掛け時計は五時半を指していました。
静かな図書室の奥、長机に並んで腰掛けるようにして、私と兵頭枝織さんの勉強会は続いています。
湯月さんがこの場を去ってから、かれこれ一時間半は経ったでしょうか。
兵頭さんは未だ粘り強く、私のテスト勉強に付き合ってくれています。そのおかげか英語については、淡く仄かで微かな光明が見えてきたような気がします。赤点回避も夢じゃない……かも。
それにしても、兵頭さんは本当に尊敬すべき方です。
今年の首席合格者ということで、学力はピカイチです。しかし、それを鼻に掛けるようなところはなく、私みたいなお馬鹿でも見捨てずに相手をしてくれます。もはや兵頭さん式個別指導塾だけが頼みの綱です。
運動も得意なようで、体育の時間も目覚ましい活躍をなさっています。個人競技には自信のある私ですが、チームプレーの必要な団体競技では全然敵いません。
どういうわけか、人望のない私がパスを出した途端、その場で敵味方入り乱れてボールの奪い合いが始まるからです。どうして?
入学式では新入生代表として堂々たる挨拶をなさっていましたし、クラスでは学級委員に自ら立候補し、みんなを引っ張るリーダーシップを発揮なさっています。
つい昨日も、どういった経緯かは分かりませんが、クラスのみなさんの注目を浴びていらっしゃいました。彼女が口を開けば、全員が一瞬で静かになります。まさにカリスマ。
そんな兵頭さんを私なんかが独り占めしていて、良いのでしょうか?
彼女のファンの子(間違いなくいるでしょう)から敵視されそうです。血走った目でにらみ付けられたり、避けられたりするかもしれません。あれ、それいつもと変わらないのでは……?
「――おい、進藤。ちゃんと聞いてるのか」
兵頭さんのことでぼーっと物思いに耽っていたところに、ご本人の綺麗なお顔がぬっと近付いてきました。眉根を寄せた彼女が、訝しむように私を見つめてきます。赤いフレームの眼鏡の奥では、彼女の金色の瞳が煌めいていました。
急に声を掛けられたこともあって、私はびっくんびっくん肩を跳ねさせてしまいます。
「ひょひゃいっ! 全然聞いてませぇん!」
「そこまで潔いと何も言えん」
兵頭さんは呆れたように頬杖を突いて、それからフッと微笑みました。
彼女は手にしていたシャーペンを開かれたままの教科書に挟んで、その表紙をぱたりと閉じてしまいます。
「……少し休憩にするか」
兵頭さんは自身の首の付け根へと手を回すと、コリをほぐすように指でマッサージし始めました。
ああ、まずい! あんなに真剣に教えてくださっていたのに!
私が集中できていなかったばかりに、兵頭塾まで退会になってしまう!
「教科書を一遍に復習ったからな、さすがに疲れた。な、進藤」
「!!? だ、大丈夫です。だから、見捨てないでくださぃ……」
「ん? いや、今さら見捨てたりはしないぞ」
簡単なマッサージを終えた兵頭さんは、ふぅと息を吐きます。少し考えるそぶりをみせてから、私の方へと身体を向けました。
「なら、そうだな……。私が疲れたから少し休ませてくれ、それなら良いだろう?」
「は、はい! じゃあ、な、何かお返しをします! えっと、えーっと……」
肩を揉む、背中を擦る、ノートで扇いで風を送る、焼きそばパン買ってくる、ゴマをする、靴を舐める、土下座する、そのまま椅子代わりになる……。
ど、どれが正解の行動か分かりません!
「いや、クラスメイトなんだから別に何も気にしないで――」
「あわわわわわ……あっ、か、肩を舐めます!!」
「だから、そんなに気を遣う必要――いや、肩舐めるのは気遣いなのか!?」
緊張と焦りのせいで、自分でも何を言ってるのか分かりません。
オロオロする私を見て、兵頭さんが軽く息を漏らします。
「まさか、進藤素直がこういう人間だったとは……。想像も付かなかったよ。むしろ、一ヶ月もよく擬態してこれたなと、感心したくもなる」
「げ、幻滅しましたか?」
「いいや。私は元々、お前の信者ではないからな。逆に、色々と得心がいった部分もある。こうしてお前とゆっくり話す機会を設けてくれた湯月には、後で感謝せねばなるまい」
そう呟くと兵頭さんは、おもむろに席を立ち上がります。
彼女のオシャレな眼鏡のレンズが、室内の蛍光灯の光を反射していました。
「喉が渇いたな。下の自販機まで、飲み物でも買いに行かないか?」