★ありきたりな英雄譚
僕は、夜の森を静かに走っている。
目の前を歩く三体のトロールを見失わないように、近付きすぎないように。
トロールたちの肩には、ぐったりとしたお父さんとお母さんが乗っている。二人ともポタポタと血を流しているようだ。村から連れて行かれる前、奴らに何度も叩かれたらしい。
僕はそれを見ていない。
コーエンおじさんの大きな身体に守られていたせいで、僕はそれを見れなかった。建物の外で、お父さんとお母さんが「痛い」って泣いてる声しか聞けなかった。
助けなきゃ。
村のみんなは何もしてくれない。
だから、僕が助けなきゃ。
マリー姉ちゃんも、長老たちも、テムも、お父さんも、お母さんも。
いつもテムたちと遊んでいたおかげで、真っ暗な夜の森でも迷わずに進めた。
今通ったのは、僕ら騎士団の「ちゅうとん地」。
これはテムの作った石の城。
あそこに転がってる立派な枝が「伝説のま剣」で、テムん家から持ってきた割れた鍋ブタが「ゆうしゃの盾」だ。
じわりと、涙が滲んでくる。
ここは僕たちの森だ。あんなモンスターなんかに、くれてやるものか。
◇
木々の隙間から見える冬の夜空に、小さな鳥が飛んでいた。
僕も空を飛べたなら、もっと簡単にお父さんたちを助けられるのに。
やがて、トロールたちは森の奥にある、小さな洞穴の前で立ち止まった。
あそこは、エリック兄ちゃんが前に教えてくれた「だんじょん」だ。大人たちには内緒だぞって、テムと三人で探検したんだった。でも結局、お父さんにバレていっぱい叱られたんだっけ。
あの中はかなり深くて、広々としている。きっと、あそこを住処にして村までやって来てるんだ。
僕は家から持ってきた大きなナイフを握りしめた。お父さんたちが森に狩りへ行くときに使う道具で、僕が触ろうとすると「危ないから」ってすっごい怒る。
だけど、みんなを助けるためだから、今日だけは許してね。
僕に背中を向けたトロールたちが、肩に担いでいたお父さんとお母さんを乱暴に地面に落とした。一体が、遊ぶようにお母さんの身体を蹴飛ばす。
「オ、オオオ、オオオオ!」
「オオオ!」
フクロウの鳴き声みたいな言葉を交わしたと思うと、奴ら三体が「オロロロ」なんて茶化したような声を上げ始めた。
とても腹が立った。やっつけなきゃって思った。
草むらの陰から飛び出した僕は、ナイフを構えてひた走る。
だけど、僕がこっそり近付いていたことすら、奴らはお見通しだったようだ。
『逃げてっ!!』
若い女の人の声が、どこからか聞こえた気がした。マリー姉ちゃんだろうか。
三体が一斉にこちらへと振り向いた。
その口元をニタァっと大きく歪めながら。
ナイフの刃先を向けたまま、僕は立ち止まってしまった。
震える全身は上手く動かせず、上下の奥歯が当たってカチカチと音を立てる。
間近で見るトロールは、やっぱりとても大きかった。
毛むくじゃらの拳が、小さな僕に向かって振り下ろされようとしている。
僕はぎゅっと目をつむって――。
「間一髪、ギリギリセーフ」
涼やかな声と共に、一陣の風が吹き抜けた……ように感じた。
規則的なリズムで鳴る心音が二つと、人肌の温もり。目を開ければ、そこには綺麗な女の人の顔があった。
いつのまにか、僕は知らないお姉さんの腕の中にいた。
トロールの攻撃が当たる寸前、飛び込んできたこの人が僕を救い出してくれたらしい。
キリリとした鋭い目、ツンと尖った耳。後ろで一つに束ねられた水色の髪が、馬の尻尾みたいに揺れている。どこか神秘的な雰囲気のただよう人で、僕は長老の家に飾ってあった女神様の像たちを思い出していた。
「指示に従って正解だった、かな。大丈夫か? 少年」
木々の葉に覆われた頭上では、さっきの鳥がまだ旋回を続けている。
『きっと、戦乙女様が救ってくださるわ』というお母さんの言葉が蘇った。
「ひょっとして、戦乙女様……?」
「……フィルティアだ。戦乙女のフィルティア。神様の命で、君を助けに来た」
そう名乗ってから、お姉さんは――フィルティア様はぎこちなく微笑んだ。
銀色に輝く鎧と、手にした青い剣が、夜の月明かりの中でもピカピカと光っていた。
「オ、オオオオ!!」
トロールたちの慌てふためく姿が、お姉さんの肩越しに見える。
僕を叩こうとしていたトロールの右腕は、何故かカチカチに凍り付いていた。次々と亀裂が入っていき、凍った部分が砕け散って消滅する。
「お願い、フィルティア様。お父さんとお母さんを助けて」
「……あとは、お姉さんに任せて。君はそこから動かないで」
「うん」
僕を地面に下ろしたフィルティア様が、ゆっくりと立ち上がる。僕に背中を向ける直前、チラリと見えたその横顔は、とても怒っているように見えた。
フィルティア様が、風を切るように右手の剣を振るった。すると、冬の朝のような冷たい風が吹いて、僕の頬を撫でる。
ピキピキと音を立てて、剣の刀身を薄い氷が覆っていく。
あれはきっと、本物の「ま剣」だ! 「氷のま剣」!
「はあああああッッ!!」
両手で剣を構えたフィルティア様が、目にも留まらぬ速さでトロールに向かっていく。
片腕のトロールの懐へ素早く潜り込むと、その胴体を真っ二つにする。
瞬く間に、一体のトロールをやっつけてしまった。
「オオオオオロロ」
一体のトロールが地面すれすれの高さで、腕を横薙ぎに振るう。鋭く伸びた爪が背の高い草を刈り取るも、フィルティア様は飛び上がってその攻撃を難なく回避した。
空中で身体を捻って、毛むくじゃらの頭部に蹴りを一撃加えてから着地。頭に一撃を受けたトロールがフラフラと後ろによろける。
「オ、オオ!!」
もう一体のトロールが慌てて伸ばしてきた腕を、今度は体勢を低くして躱す。そのまま下から斬り上げるようにして、フィルティア様が剣を振るった。
サクリと小気味の良い音を残して、その大きな腕を二本同時に切断した。
腕を失ってたたらを踏むトロールを見逃さず、首筋から胴に向かって斜めに斬り付ける。 小さな傷ならたちどころに治ってしまう奴らも、傷口を凍らされては治せないようだ。
斬られた部分からどんどん凍っていったトロールは、やがて、一個の大きな氷の塊になってしまった。
フィルティア様が靴先でコツリと軽く蹴りつけただけで、奴の凍った身体はバラバラに砕けて消えてしまった。
体勢を立て直した最後の一体が、フィルティア様に向かって突進してきた。
「これで決める!」
ニヤリと笑ったフィルティア様が、剣を水平に構える。氷に覆われた刀身が青く光り輝くと、先ほどまでとは比べ物ならないほど強い冷気の風が巻き起こった。
「『刺し貫く絶対零度』ッッ!!!」
叫びと共に真っ直ぐ突き出された剣先から、青い光が伸びる。
地面を凍らせながら真っ直ぐ伸びていったその光は、トロールの毛むくじゃらのお腹を貫いて、奴を一瞬で氷付けにしてしまった。
「……討伐完了」
フィルティア様は手元でくるりと剣を回転させると、まるで吸い込まれるように、音もなくその刃を鞘に収める。
巨大な氷柱となったトロールは、サラサラと氷の粒となって風の中に散っていった。
お父さん、トロールはいなくなったよ!
お母さん、戦乙女様が助けてくれたんだよ!
興奮を隠せないまま、僕は地面に横たわるお父さんとお母さんの側へと駆け寄った。
フィルティア様も、重たい足取りで近付いてくる。
夜空にはやっぱり一羽の黒い鳥が飛んでいて、僕たちのことを静かに見つめている。
溢れ出てくる涙を、僕は何度も服の袖で拭った。