★二人の冒険者
山の頂上にあたるその広い空間には、激しい戦いの痕が残されていた。
地面は割れ、崖はところどころ崩れており、岩壁には不自然な大穴まで空いている。そして、粉々に砕けたメイスらしき金属の破片と、十個以上転がっている大粒の魔石。
ゲヴァルトさんはそんな戦場の隅っこで、大の字になって寝転んでいた。
歩いて近付く俺に気付いた彼が、ゆっくりと上体を起こした。剥き出しのお腹にくっきりと残る殴打痕は、赤黒く変色を始めていた。
「ずいぶん、派手にやられましたね」
「あぁ。完敗だよ、カリス君。まだまだ足りなかった」
にこやかに――いつもよりも人間くさく――笑うゲヴァルトさんの横へ、俺も腰を下ろす。眼前にそびえる赤茶けた岩壁を見上げれば、その中腹あたりに、おそらく人型らしいヒビ割れが見て取れた。
見知ってはいた事だが、圧巻の破壊力である。
いや、むしろそんな一撃をもらってなお生きている、この神父様の規格外さを讃えるべきなのだろうか。本人は喜ばなそうだが。
ともあれ、彼の信仰における一つの到達点ともいえる「戦乙女様との一騎打ち」は叶ってしまったわけで。では、この先はどうするのだろうか。
「無論、巡礼の旅を続けつつ、一から鍛え直す。ロキ神からの啓示も頂戴したからな」
「啓示って、何です?」
「……『ただ真っ直ぐに、聖都を目指せ。そこに次の試練がある』と、戦乙女様はそのような事を仰られた」
「試練……」
「そうだ。私とカリス君、二人の試練に違いあるまい」
ごくり、と俺は喉を鳴らす。
やはり、このヨールに辿り着いたのは偶然ではなかった、という事か。
「カリス君、『冒険者』とは何だと思う?」
ゲヴァルトさんの些か唐突な問いかけに、俺は言葉を詰まらせてしまう。
二人の間に沈黙が流れる。質問の意図をはかりかねたまま、俺は自分の知っている事実だけをつらつらと述べた。
「冒険者とは……。ギルドに所属して、モンスター退治とか商人の護衛とか遺跡を探索して稼ぎを得る人たち。真っ当な仕事に縁が無い、社会からはみ出したろくでなしの穀潰し集団、です」
自分を卑下するつもりはなく、ただ客観的に思うところを言ったつもりだ。
すると、「正解だ」とゲヴァルトさんが頷く。
「だが、それはあくまで現代における冒険者の定義にすぎない。かつては、そうではなかったのだ。いいかね? 『冒険者』とは本来、戦いに身を置く聖職者の事を指す言葉だったのだ」
彼は懐から何かを取り出そうとして、自分の裸の胸をぺたぺたとまさぐった。そして、渋い顔を作る。カソックの上の部分は、グリフォンとの戦闘中に自分で破り捨てていたわけで。
「はい」と、俺は自分の背嚢に仕舞い込んでいた聖典を取り出して、彼に渡した。崩れ落ちた建物の瓦礫からこれを見つけ出すのには大層難儀した。
ゲヴァルトさんはふうと息を漏らしてから、受け取った聖典のページをパラパラと捲る。あるページを開くと、そこに記されていたある一節を指でなぞった。
「ここには、ロキ神が与えた天啓の一節に『危険を冒すのを厭わない者』と記されている。聖人たる者が備えるべき資質についての記述だが、これが語源に他ならない」
「……ということは、イグドラ教会の偉い人たちが、最初に『冒険者』と名乗った?」
今より遙か昔、大陸がまだ不安定だった頃。人々は度重なる戦争やモンスター被害に苦しんでいた。「教会の教義を広めるだけでは、実際に今困っている人々を救えない」という事実に心を痛めた敬虔な司祭たちは、自らの手で直接人を助ける道を選んだ。
すなわち、モンスター退治や薬草採集、開墾作業や旅人の護衛などの奉仕活動である。彼らはそんな自分たちを指す言葉として、聖典の「冒険者」を名乗り始めた。
やがて、その思想に共鳴する者が集まって、それが後のギルドとなったらしい。
身近な事のようで、案外知らないものだ。
「私は、その『冒険者』になりたかったのだ」
聖典を閉じたゲヴァルトさんが、ぽつりと呟く。彼はゆっくりと顔を上げて、日の沈みかけた暗い空を見つめた。その先にある、天上の神々の世界へと思いを馳せるように。
「父は司祭で、祖父は司教だった。代々、聖職者の家系だったのだ。そういう家に生まれた私もまた、幼い頃から神学を学んだ」
「立派なご家族だったんですね」
司教といえばイグドラ教の中でも教皇、枢機卿に次ぐ高位の存在だ。司祭とて、深い信心と教養や高潔さを備えた者、人々の導き手となるべき人物が選ばれるのだ。それを多数輩出してきた家系ともなれば、高潔な血筋と言わざるをえない。
だが、ゲヴァルトさんは首を横に振る。
「立派なものか。人々が思うほど……いや思っている以上に、私の血は醜かった。口では教えを説きながら、その内心にあったのは留まる事のない権力欲。金や謀略でもって教皇の位を狙う……あれは化け物だ」
再び顔を戻した彼は、苦悶の表情を浮かべている。灰色の瞳が揺れた気がした。
「私はただ、純粋に祈りたかったのだ。救いを求める者に手を差し伸べたかった。だから、心身を鍛える目的でギルドの冒険者になった。だが……」
急に喉の渇きを覚えた俺は、腰に下げていた革の水筒をぐいと傾けた。中身は、今朝汲んだ川の水。すでに温くなっているはずなのに、身体の内側からチクチク刺されるような冷たさを何故か感じた。
投げるように水筒をゲヴァルトさんに渡すと、彼はその中身をぐいと飲み干す。汚れた腕で口元をぐいと拭ったせいで、彼の髭面はかえって汚くなってしまった。
「そこにも、私の求める『冒険者』はいなかった。はみ出し者でろくでなしの穀潰し集団、だったか。ほとんどがそれだ。金を稼ぐ事、高いランクを目指す事が第一で、依頼が無ければ人を助けない。金を用意できねば誰も救わない。……そこもまた、私の居場所ではなかった」
以前、俺から冒険者ランクを聞かれたゲヴァルトさんが、心底つまらなそうに顔をしかめた事を思い出した。
彼の着古したカソックの下には、鍛え抜かれた筋肉と無数の傷跡がある。人を助けたいという純粋な願いの為に、いくつもの修羅場をくぐり抜けてきた結果だろう。それこそ、誰も受領したがらないような、危険度の高いモンスター討伐依頼ばかりこなしてきたのかもしれない。
そうして得た「Aランク」という肩書きは、彼にとっては誇れるようなものでは無かったのではないか。
「だから冒険者を引退したんですね」
「……煩わしくなったんだ。その後は、生家とは縁の無い教区に身を寄せ、毎日真摯に祈りを捧げた。人々の平和と安息を、神に願い続けた。だが、私のそんな祈りもむなしく――」
ゲヴァルトさんは汚れた口元をにっと歪めると「魔神が復活するらしい」と呟いた。
……反応に困る。俺が苦笑いを浮かべたのを見ると、彼はひひひっと大層愉快そうに破顔した。
魔神。世界を絶望の淵へと叩き落とす、神話の怪物。モンスター増加の原因にして、勇者レイジ一行の最終討伐目標。帝都の学者様たちが言うには、そう遠くない未来に復活が迫っているそうだ。
底辺冒険者の自分とは全く関わりのない話。人々の希望たる勇者はすでに現れており、後は彼らに全部任せておけばいい。
世界の危機とやらを肌では感じつつも、俺はそんな風に感じていた。
だが、ゲヴァルトさんにとってはそうでなかったらしい。
「怯える人々を見た時、私は『戦わねば』と感じた。教会の選んだ勇者殿、というのも今ひとつ信用できなかったからな。それがこの旅を始めた、最初のきっかけだった」
「つまり、この旅の最終的な目的地は……」
「聖都へと赴き、大神殿で戦勝祈願をする。それから……、私は魔神復活の地と目される『北の最果て』を目指す」
「はは、は……」
ゲヴァルトさんはやおら立ち上がると、両腕を広げて、今にも夜へと染まりそうな空に向かって叫んだ。
「私たちは勇者ではないッッ! だが、戦乙女様に選ばれたのだ! 選ばれたのだ! ロキ神にとっての、“手数”の一つに選ばれたのだァッッ!!」
張り上げたゲヴァルトさんの声が、山間にこだましながら空に溶けていく。
そして、彼は俺に向かってぬっと手を差し伸べてきた。ごつごつとした、傷だらけの戦士の手を。
ゲヴァルトさんは、そこから先の言葉を紡がない。ただ、ほの暗い瞳にかすかな火を灯して、俺の顔をじっと見つめる。信頼と重責の籠もった、灰色の視線。
わずかばかりの逡巡を振り切って、俺はその大きな手を確かに掴んだ。
「……それでいい。共に『冒険者』となろう、カリス君。今度こそ、本物の――」
ゲヴァルトさんにぐいっと引っ張られて、俺は二本の足で大地に立った。
この二ヶ月あまりで、底辺冒険者としての俺の運命はすっかり書き換わってしまった。戦乙女様を巡る噂に振り回され、この信仰に篤すぎる神父に振り回され、勢いが付いたところで、今まさにロキ神の手で振り回されようとしている。
だが、悪くない気分だ。
こんな俺に何ができるのかは分からないが、それでも、全身全霊でもって果たさなければならない。
――そしていつか、寵愛を受けたこの人生に、誇らしい終着点を見付けるんだ。
夜空にはまばらに星が散らばっている。月よりは小さく頼りないけれど、夜闇に怯える人々の営みを、確かに照らしてくれる明かりたち。
「まるで俺たちみたいですね」と語る二つの声が、乾いたヨール山頂によく響いた。