寵愛の夕暮れ(2)
唐揚げの皿が満載に乗ったテーブルを挟んで、赤面するアタシは自称女神と向かい合っていた。進藤さんは未だソファーに身体を預けたまま、目を覚ます様子はない。
「くくっ……あぁ、おかしい。スナオ相手だと、こういうからかい方はできないからね。とても新鮮な気分だよ」
「こ、この邪神……!」
「何か言ったかい、ユズ? ああ、そうそう。一昨日の一回で悩みは晴れたのかな? 自分は異性愛者ではないのかもと、ついつい試しに女の人同士の――」
「あぁぁーーーっ!! わぁああーーーーっ!!!!」
ロキさんはアタシを指差しながら、くつくつと腹を抱えて笑っている。
さっきまでの仮面のように貼り付けた冷笑ではなく、それは心の底からの血の通った笑顔のように感じられた。
鋭い緊張感が和らいだのは良い事なのだが、ならオッケーとは素直に飲み下せない気分にもなる。
他人をからかって喜ぶ性質は、“生前”のロキ神由来なのだろうか。そういうのが積もり積もって他の神様たちを怒らせたのだとしたら、アタシは今日から全力でオーディン神を支持する。
……とりあえず、頭を切り替えよう。まだまだ聞きたい事は山ほどあるのだ。
アタシはゴホンと咳払いをした。
「あなたが神様なのは分かった。よく分かった。嫌というほど分かった。なら、人間の姿をした神様は、ロキさんの他にもいるの?」
「もちろん。顕現している神はボクだけじゃない。創作物経由で信仰を集めやすいという点で、特にこの国には多いね。“漫画の神様”とやらのおかげさ」
「じゃあやっぱり、進藤さんも――」
「いいや、この子は違う」
ロキさんはきっぱりと否定した。
それから、静かに眠り続ける進藤さんの髪の毛を撫で始める。まるでこの子は自分の物だ、と主張するかのように。
普通の人間である進藤さんと、神様であるロキさん。
ならば、二人の関係性は一体何なのだろう。
「アルバイトと雇用主、という事になるのかな。表向きは」
……なんだか含みのある言い方だ。
続きを促すようにじっと見つめると、ロキさんはやれやれと肩を竦めた。
「……事故で亡くなったこの子の母親とは、ちょっとした知り合いでね。それがきっかけで色々と面倒を見ている。もちろん、嫌々なんかじゃない。ボクはスナオの事を心から愛している。この世で一番大切な存在だよ」
とんでもなくストレートな表現が飛び出したのに、アタシはそれを気恥ずかしくは感じられなかった。あまりにも当たり前過ぎる事実を突き付けられたようで、深く深く真に迫る現実を見せられたようで。
だって、それはまるで――。
「次に聞きたいのは、どうしてスナオが起きないのか、かな?」
アタシの思考を切るように、ロキさんから話題を振ってきた。頷くアタシに向かって、彼女がぴんと指で何かを弾く。
綺麗な弧を描いてアタシの手の中に収まったのは、青色の透明なビー玉だった。
「中を覗いてごらん。そこに、答えがある」
ただのビー玉……ではないのだろうな。
今更からかわれているとも思えないので、アタシは素直に彼女の言葉に従った。ファミレスの店内照明に透かすように、二本の指で摘まんだそれを目の前に掲げてみる。
青一色なのかと思いきや、その中には緑と白の模様がいくつもあった。
不思議な事に全く手指を動かしていないのに、中の模様が回るようにどんどん動いていく。
――惑星だ。
青は海で、緑は陸地で、白は雲。地球のような惑星をぎゅっと凝縮した物、それがこのビー玉に写る映像の正体?
衛星からレンズで地上を眺めるように、景色はある一点を拡大していく。視界はとある大陸のとある山脈、その頂上付近へと吸い込まれるように近付いていった。そこでは時折、赤い光がピカピカと点いたり消えたりしていた。
さらに接近していく景色の中では、幾つもの影が忙しなく動いていて――。
「えっ……」
動き回る影の正体は、十体近いグリフォンと、それと真っ向から戦う女子高生の姿だった。
彼女が着ているのは、見慣れたクゼジョの制服。それから、銀色に輝く大きなグローブ。
ミディアムショートの黒い髪が揺れて、華奢な身体が躍動する。彼女の拳を勢いよく叩き付けられたグリフォンが、画面外に吹っ飛んでいった。
ビー玉の中で戦う女子と、対面のソファで目を閉じる女子の姿を、アタシは何度も見比べてしまった。
そんなアタシの狼狽ぶりを、ロキさんがにやつきながら眺めている。
見間違うはずもない。映像の中で戦っているのは、進藤さんだ……!
ヨール山、グリフォン、異世界、神様、アルバイト。全部が頭の中で繋がった。
「……異世界、転移……?」
「ご明察!」
ロキさんがぴっとアタシを指差した。心底、愉快そうに。
「これがスナオの仕事さ。精神体となって異世界へと赴き、ボクの代わりに管理業務を行う。トラブルシューター、あるいはデバッカーの方が正しいかもしれない」
思わず指を離してしまった“ビー玉”は、しかし重力に従う事なく、ロキさんの掌の上に向かってするりと飛んでいった。
彼女はそれを握り込むと、すぐに手を開く。まるで手品のように、そこにはもう何もなかった。
「もっとも、本人にはその自覚がなさそうなんだけどね……。まぁ、命を賭けたやり取りが出来るほど、肝の据わった子じゃないし。変に萎縮したり断られたりしても困るから、改めて確認するつもりもないんだけど」
「あっちの世界で……死んだら? どう……なるの?」
ようやく絞り出せたアタシの声は、どうしようもなく震えていた。
「もちろん、死が確定する」
ロキさんは特に気にする素振りもなく、進藤さんの肩を抱き寄せた。
「戻ってくるべき精神、つまりは魂が消滅するのだから、当然そうなるよね。とはいえ、この子は特別強いから。そんなに心配する必要はないよ? 実際、仕事は今日で六回目だし」
得体の知れない薄気味悪さが、アタシの全身を駆け巡っていた。
これは実感だ。
問答だけでは得られなかった、確かに輪郭のある実感。
目の前にいる相手が、常識の範囲から遙か逸脱した存在であるという実感。
神という実感。
「……なんで……?」
だけど、分からなかったのだ。理解できないから怖くなったのだ。
どうして。
自分にとって大切な存在なのに、どうして危険な真似をさせられるの?
「もちろん、ボクの愛は本物だとも。だからこそ、ボクの手元に置いておくのさ。スナオだってそれを望んでいるし、強くもなれる。そして、向こうの世界は秩序を取り戻す。こういうのを『一石四鳥』って言うんだろう」
「狂ってる……」
「そうかもね。だが、その先にしかハッピーエンドはない」
「真実を知ったら……きっと、進藤さんはあなたを軽蔑すると思う。それでも良いんですか?」
すっと目を細めた彼女は、進藤さんの前髪をさらさらと搔き分けると、おでこにそっと口づけをした。
それでも、眠り姫が目覚める事はない。
BGMで流れていたヘタクソなバラードが終わり、店内に一瞬の静寂が生まれる。
「……神が、そんな事気にすると思う?」