アイロン・マスカレード
私、進藤素直は今日から鉄仮面を被ります……。
私はもう二度と、感情を表に出さない事にします。無表情の仮面の下、笑顔を完全に封印するのです。
戒めです。私は今日、取り返しのつかない失敗を犯してしまったのです。
きっかけは、二時限目の始まる直前に届いた一通のショートメッセージでした。
発信者:『ロキさん』 本文『今日の放課後、いつもの場所で』
七日ぶり。そう、実に一週間ぶりのアルバイトのお誘いです。
教室で独りぼけーっとしていた頭は、このメッセージを目にした瞬間一気に覚醒しました。
内心ではずっと不安で仕方が無かったのです。もう二度と呼ばれないのではないかと。それが杞憂であったと分かった時の喜びたるや、私の脳内はてんやわんやのお祭り騒ぎ。
日中ずっと脳内はそんな様子で、勉強には全く身が入りません。なんなら授業中に突然踊り出したくなるくらい気分が高揚してました。それはもう、表情にもだだ漏れになってしまう程に。
自分でも無意識に、私は教室で満面の笑みを浮かべていたようです。
――これが全ての誤ちでした。
五時限目の授業中、事件は起きました。
まだ脳内祭りが絶賛開催中だった頃の事です。そわそわと心が落ち着かない私は、「早くファミレス行きたいなぁ」なんて思いながら教室の左側にあるガラス窓へと顔を向けました。といっても、私の座席は教室のど真ん中ですから、そこからでは青々とした五月晴れの空しか見えないのですが。
不幸なのは、私の左隣の席に座っていた中島さんです。
私と不意に目が合ってしまった彼女は、ひゅっと息を呑みました。それから、みるみる瞳を潤ませて啜り泣きを始めてしまったのです。
クラスメイトたちが異変に気付きます。さっきまで静かで平和だった教室が一転、騒然となりました。慌てた様子で教師が駆け寄ってきます。
中島さんは「こんな思いをするなら花に生まれたかった」と、嗚咽混じりに漏らしていました。
私はそこでようやく自分の愚かさに思い至ったのです。
中島さんは私の顔を正面から見た途端、堰を切ったように泣き始めてしまいました。つまり……。
私の笑顔は、見る人に恐怖心を抱かせる程、邪悪で禍々しい!
以前から、薄々気付いてはいたのです。ですから、常日頃からなるべく表情を一定に保つよう努力もしてきたのですが……。
とはいえ私も人間です。ふとした瞬間に、気を抜いてしまう事だってあります。特に誰かの手助けをした直後など、相手の無事な姿を見るとついつい口元が緩みがちなのです。貧血の女子を保健室のベッドまで運んだ時や、階段で足を滑らせた子を抱き止めた時など……。
これまでにも、私の笑顔を偶然目撃してしまった女の子たち、実に十分の九が悲鳴を上げていました。その場で腰を抜かしてへたり込んでしまう子や、過呼吸気味になってしまう子、叫び声を上げて逃げてしまう子までいたのです。
だというのに、私はロキさんのメッセージを受け取った後、かなり長い間ニヤニヤしっぱなしでした。善良なクラスメイトたちにとって、それはもう想像を絶する恐怖体験だったに違いありません。
そんな状況で、私はさも中島さんにターゲットを絞るかのように、彼女の方に満面の笑みを向けてしまったのです。
事の重大さに気付いた私は、すぐに「ごめんなさい」と謝りました。
ですが、もう手遅れだったのです。
私の謝罪を聞いた途端、中島さんはこの世の終わりのような顔を浮かべました。そしてとうとう、堰を切ったように大声で泣き始めてしまいました。
結局、彼女は駆け寄ってきた百木さんに支えられながら教室を出て、そのまま早退してしまいました。
――自分のニヤけ面の危険性を、私は今日改めて思い知ったのです。
今日からは鉄仮面を被るつもりで、表情筋を引き締めます。誰の良心を痛める事なく、機械のように過ごすのです。
そうした断固たる決意の下に、私は今日ファミレスを訪れたのです。訪れたのですが……。
◇
時刻は十六時過ぎ。場所はいつも通り、窓際のボックス席です。
相変わらず、私たち以外のお客さんがほとんど見当たりません。店内には女性アイドルの歌うアップナンバーが流れていますが、人気が少ないせいか妙に空回りして聞こえます。
対面には、怪訝な表情で私を見つめるロキさんがいます。
できれば、そんなに見つめないで欲しいです。
「ねえ、スナオ。今日は一体どうしたのかな? さっきからずっと、何かを我慢しているようにしか見えないんだけど……」
早速、決意の鉄仮面がプランプランと剥がれ掛かっています。緩みかかっている口元を必死で閉じます。が、それに抗うように口角がヒクヒク動いてしまいます。
それはそうでしょう。彼女から届いた短いメッセージだけであれだけニヤニヤできたのですから、本人を前にしたらこうなるのは明白です。
ですが、笑みを浮かべてはいけません。私の笑顔は凶器。今後もアルバイトを続ける為にも、彼女に不快感を与えそうな行動は避けねば。
いつクビになってもおかしくないのです。
「眉間には皺が寄りっぱなしだし、ずっと口角がヒクついてるし、目は泳いでいるし。これはこれでとても面白可愛いんだけど……」
「私、いつもドーリ……です……」
「なら、何か怒ってる? もしかして。この前、寝ているキミにキスしようとした事をまだ――」
「ち、違います!!」
自分でも頬や耳に朱が差したのを感じます。
ダメです。ロキさんの顔を真っ直ぐ見つめ続けるのは危険です。
彼女の美顔をできるだけ視界に入れないように、私はテーブルの上にある紙ナプキン束に視線を固定しました。ホルダーに収まる紙の枚数を数えながら落ち着きましょう……。かようにも情念を抑えねばならないところまで来ているのです。
そんな私の様子を不思議に思ったのでしょう。ロキさんはブルーの目を細めます。
「スナオ、ボクはとても寂しいよ。だから、ボクの目をちゃんと見て欲しい」
「む……ムリです……。ワタシ、ナプキン、かぞえてマース……」
「ボクは、いつもみたいに微笑むキミの顔が見たい」
「お、おご……。ワタシ、イツモどーり……デス」
カランと、コップの中の氷がやけに大きな音を立てました。なみなみと入っている冷たいメロンソーダと、妙に熱く感じるボックス席。コップの表面から汗が流れて、コースターに水たまりを作りました。
ロキさんは困ったように肩を竦めると、すっくと席から立ち上がります。
「ふむ……。前回の反省もあったし、キミに嫌われそうな行動は慎もうと思っていたが。こうなっては仕方ないか」
「?」
「いつものスナオに戻ってもらう為に、ボクは“魔術”を使う事にする」
「魔術?」と私が尋ねる間もなく、ロキさんはこちらの席へと回り込んできました。
革張りのソファーに片膝を立てて、ゆっくりと顔を近付けてきます。これってもしかして……。
――またキスしようとしてますっっっ!!!??!!?
即座に彼女の意図を看破した私は、咄嗟に顔と身体を彼女とは逆方向に背けました。
「……ふふっ。残念」
次に“くすぐり”を警戒した私は、脇をぴったり締め身体を固くして身構えます。対応は完璧です。ははは、これなら怖くありません。
……しかし、予想に反して手は伸びてきません。「あれ?」と思ったのも束の間。
「こっちががら空きだよ、スナオ」
後ろから悠然と顔を近付けてきた彼女は、私の耳たぶにちろりと舌を這わせました。
「んぴゃあっはぁっ!!!?」
甘くくすぐったい感覚が全身を駆け巡り、私は奇怪な鳴き声を発しながらその場で飛び上がりました。驚いて後ろを振り返れば、ロキさんがお腹を抱えてくつくつと笑っています。
「くくっ。ほら? いつもの可愛いスナオに戻った。ふふっ」
「うぅ……」
私は両手で顔を覆いました。鉄仮面はばきりと真っ二つに割れます。
無理です。限界です。彼女に嫌われないよう、今日はなるべく無表情で過ごそうとしてたのに……。
人気の少ない店内に、私の珍妙な声はよく響いたのでしょう。
いつもの眼鏡の男性店員が「なんとぉ!」と叫びながら、やや興奮気味にテーブルに駆け寄ってきました――。