狂信者の朝(1)
「よーよーよー。どうしたよー、ユズユズよー。湯月柚子さんよー」
教室の机で突っ伏していたアタシの肩を、前の席に座る八嶋真理がぽんぽん叩いた。めんどくささ全開で顔を上げると、彼女はにんまりと口角を上げる。
「なんだよなんだよー。男かー? 男にフラれたんかー?」
「いや、フラれてないから……。はぁ……」
「じゃあ、なんだよー。ユズユズ元気ないじゃんなー。アレの日かー? 重いのかー?」
「違うけど……。大丈夫だから、しばらくそっとしておいて」
だが、アタシの訴えもむなしく、彼女はさらに力強くアタシの肩を揺すり始めた。
「なんだよー。寂しい事言うなよー。私に寂しい思いさせんなよなー。なー。ほら、このヤシマリちゃんに何でも相談してみー?」
「う、ウザい……」
今朝の一件について、色々と心の整理が付くまで放っておいてほしかったんだけど……。
自己紹介文の長所と短所の欄に「とにかくよく喋る」という言葉が埋まりそうなのが、この八嶋真理というクラスメイトなのだ。
彼女とは中学の頃からの友人だ。
純粋で明るくノリが良い、クラスに一人は欲しいタイプ。アタシみたいに頑張って八方美人を演じてる風でもなく、根っからのムードメーカー気質で人懐っこい。
が、常に全身全霊で人付き合いにぶつかっていくようなそのスタイルは、時にプラスにもマイナスにも働く。彼女の頭の辞書には「暗い顔の人がいたら全力で助ける」としか書かれていないのだろう。「暗い顔の人がいたらそっとしておく」という項目はそもそも存在しないらしい。
「どうしたんだよー。心配になっちゃうだろー? 私泣いちゃうよー?」
「……分かった、分かったから。ちゃんと話すから!」
放っておくと、更にパワーアップしたウザ絡み―― いや、世話焼きを披露してくるに違いない。しょうがないので、きちんと起きて相手をする事にした。
ここは私立九世女子高等学校――通称クゼジョ――の、一年C組の教室。
今は一時限目の数学から解放されたばかりで、クラスメイトたちは思い切り羽を伸ばしている。あちこちで起こる話し声や笑い声のせいで、教室は少しうるさいくらいだ。アタシだって普段ならその騒がしさが気になる事もないし、むしろ自分もその中心にいるのに。
だけど、今日はそういう気分じゃない。
窓際の自席で頬杖を付いたまま、アタシは教室の中心へと顔を向けた。
わいわいと騒ぐクラスメイトたちには混ざらず、一人粛々と次の授業の準備をしている彼女。アタシの心がぐちゃぐちゃになってしまった、その原因。
――進藤素直さん。
彼女の側には誰も近寄らない、話し掛けない。まるで別世界から切り貼りしてきたかのように、そこだけがぽっかりと浮いている。
もちろん、イジメなどでは断じてない。彼女が特別嫌われているわけでもない。
内心では進藤さんと仲良くなりたいと思っている子も多いだろうし、アタシもその一人に含まれる。ヤシマリだってそうだろう。クラスの皆がそうだ。
……それでも、近付けない。声を掛けられない。
その姿はいつ見ても美しく気品に満ち溢れていて、遠くから眺めているだけでも心が吸い込まれそうになる。俗っぽさを一切感じさせない、神秘的な美少女。そんな彼女を前にすると、誰もが気後れしてしまう。自分なんかが声を掛けていいものかと、躊躇してしまう。
その上、進藤さん自身も常に近寄りがたいオーラを漂わせている。表情は変化に乏しく、受け答えもそっけない感じがする。クラスメイトの誰も、彼女が声を上げて笑う姿を見た事がないのではないだろうか。
それでも、進藤さんの事についてあれこれ悪口を言う人はいない。
――何故なら、誰かが危機的な状況にある時、いつもその場で真っ先に動くのが彼女だからだ。
入学式の最中、貧血で倒れた子をお姫様抱っこで保健室まで運んだのから始まり。クラスメイトの顔目掛けて飛んできたボールを素手で弾いたり、街中でガラの悪い男性に絡まれていた子を助けたり、階段で足を踏み外した子を抱き止めたり……。
彼女はこの一ヶ月、少女漫画の「学園の王子」的な活躍を見せ続けた。
それだけでも女心をがっちり鷲掴みにしてくるのに、その上、誰かを助けた時にだけ見せる柔らかな表情がヤバい。普段が無愛想なだけに、その大きすぎるギャップに心を奪われてしまった女子がクラスに大勢いるのだ。わりと本気で、その気持ちが恋愛方面に発展しかけてる子もいる。
……つまり、進藤さんに安易に近付こうとすれば、彼女の狂信的なファンが黙っていないのである。彼女らの主導の下、我がクラスでは「進藤様に気安く話し掛けてはいけない」という暗黙のルールが制定・施行されている。
こうして、一年C組の教室の中に決して侵してはならない聖域が誕生した。
たぶん、進藤さん本人の与り知らないところで。
背筋をまっすぐ伸ばして椅子に座る彼女の姿は、今日も一葉の絵画のようで美しい。周囲の喧噪になどまるで興味がないかのように、二時限目の古典の教科書をぱらぱらと捲っている。
「……やっぱり綺麗だな……」
思わず呟きたくもなる。
間違いなく、この学年で一番の美人。いや、このクゼジョ全体で見てもトップに違いない。
彼女の前では、異性とか同性とか、そんな事は些末な問題のように感じられ――。
「ユーズユーズー!」
ヤシマリは横を向いたまま固まってたアタシの頭を両手で掴むと、強引に自分の方へ向きを変えた。凜々しい進藤さんの横顔から一転、見慣れたヤシマリのふくれっ面が視界に飛び込んでくる。
「ちゃんと私の相手して」
「ごめん。ちょっとトリップしてた……」
正直、危ないところだった。
今朝の事があったせいか、普段よりも吸い込まれやすくなってる。ヤシマリが現実に引き戻してくれなかったら、たぶんディープなところまで心が沈んでた……。
「シンドーさんと何かあったの?」
ヤシマリはアタシの視線の行き先に気付いたらしく、そう尋ねてきた。
バレちゃあしょうがないとばかりにアタシが頷くと、彼女は「ふーん……」と鼻を鳴らした。
「アレかー。みんなみたいに、シンドーさんにトキめいてるんだ。へー。ふーん。ラブかー。ラブなのかー。どうせラブなんでしょー?」
「違うから。違う。違う。そんなんじゃないから。違うから。アタシはノーマルだから。ていうか、知ってるでしょ?」
ヤシマリはなんだか不機嫌そうに唇を尖らせている。アタシが全力で否定すればするほど、彼女の中の疑念が膨らむようだった。
「ふーん。あーやしーい……」
しばらくヤシマリと二人で「ラブ」「違う」と不毛なラリーを繰り返していると、頭上から「朝からうるさいぞ、お前ら」と声が掛かった。
椅子に座ったまま見上げると、机の側にアッシュグレーの長髪をなびかせた長身の女子が立っていた。我らが一年C組のクラス委員長、兵頭枝織である。
「あ、聞いてよー! ヒョードル。ユズユズがさぁー……」
ヤシマリが言い終える前に、ヒョードルこと兵頭は彼女の口元を手で制した。
アタシとヤシマリの顔を交互に見てから「なるほど」と呟いて、赤いフレームの眼鏡をくいっと持ち上げる。
「痴話喧嘩だな!?」
「違う!」「それだよヒョードル!」
両手でバッテンを作って即否定するアタシと、指をパチンと鳴らして即肯定するヤシマリ。はてと首を傾げる兵頭。
三者三様、しばしの膠着状態。
遠くでカラスの鳴く声がはっきりと聞こえた。
女の子が増えた。