ボクの名は
私、進藤素直は軽快にペンを走らせます。
ようやく書き終えた報告書を彼女に手渡したところで、眼鏡の男性店員が追加注文のハンバーグ二皿を手にやって来ました。しかし、彼女は報告書を眺めたまま、まるで興味を失ったかのようにそちらには一瞥もくれません。
注文を間違えたと思ったのでしょう。店員さんがおろおろし始めたので、私が代わりに二枚の皿を受け取りました。店員さんは私に会釈をしてから踵を返すと、「ゆりップルよき……」と謎の一言残して別のテーブルへと向かいました。
再び、食欲をくすぐるデミグラスソースの薫りが漂ってきます。私はごくりと喉を鳴らします。まるで、ドックフードを前に「待て」と命じられたワンちゃんのようです。
彼女は依然として報告書とにらめっこ中です。私の書いた丸っこい文字の上を、コバルトブルーの瞳が追っていきます。白く長くしなやかな指先が、時折、思い出したように紙面を撫でました。
「……うん、よく書けてるね。偉いよ、スナオ」
やがて全てに目を通し終わると、彼女は顔を上げてにっこりと微笑みました。そうやって褒めてもらえると、頑張ってペンを走らせた甲斐もあるというものです。
「スナオ、実際の『ベヒモス』はどんな風だった?」
「大きくてびっくりした。あと、カッコ良かったです」
「うんうん! ボクとしても、あの子はお気に入りだったんだ。なんといっても、勇者パーティ五人が揃って、最初に戦うボスを想定してたからね。創る方も気合いが入るというものさ。強さのバランスも、当時の勇者のレベルに合わせた丁度いい案配だったし……」
彼女は満足そうに何度も頷きます。
夢の中の住人なのだから、あのカッコいい牛さんは完全に私の脳内イメージの産物だと思うのですが……。
彼女はいつも、まるでそのモンスターが実在していて、自分もその姿形を知っているかのような口ぶりで話すのです。プロの作家さんって、そういうものなのでしょうか?
しばらく牛さんについて自慢げに語っていた彼女が、急に額に手を当てて息を吐き出します。「しかし……」と言い淀んでから、一呼吸置くようにジンジャーエールを口に含みました。ついでに私も炭酸の抜けたメロンソーダを一口。
「まさか、ザコ専用のリスポーン設定がオンになってたとは……。しかも、あの地域って低レベル冒険者しかいないから、ベヒモスが自動蘇生しちゃうと誰も対処できないんだよね。蘇生直後に気付いたから良かったものの……。あやうく周辺国が滅びるところだったよ!」
ははは、と彼女が自嘲気味に笑います。
「りすぽん」? 「じどうそせい」?
相変わらず、彼女の創作の設定は難しくてさっぱり分かりません。頭にクエスチョンマークを浮かべている私に気を遣ってか、彼女は別の話題を振ってくれます。
「そういえば……。ここに書いてある『三人の男性』っていうのは、どんな奴らだった?」
記憶の底を掘り返して、ざっと特徴を挙げてみます。折れた剣を持った厳つい顔のオジサン、神経質そうな顔のオジサン、あとチャラそうな若い男性。
同性の友達すらいない私にとって、コミュニケーションを取るにはあまりにもハードルが高すぎる人たちでした……。
「うーん、ただのモブ冒険者かな。ボクの管理リストにはない面々だね」
しかも、牛さんと戦ってる間に彼らの存在をすっかり忘れてしまったせいで、かなりしっかり独り言まで聞かれてしまったのです。チャラ男さんが声を掛けてきた時には、もう全身から火が吹き出そうなくらい恥ずかしかったです。
まぁ、夢の中の出来事ですから、だから何だと言われればそれまでなのですが……。
しかし、彼女は私の心中を察してか、「大丈夫だよ」と優しく落ち着いた声音で励ましてくれました。
「彼らに気の緩んだ姿を見せてしまったことは、まあ、災難だったと思うけど……。きっとまた『戦乙女伝承』の一説として、勝手に良い方向に解釈してくれるさ。本人たちとも二度と会うことはないだろうし」
そう言って彼女は報告書を大事そうに四つに折ると、スカートのポケットへとしまいました。そして、心底どうでもよさそうに「所詮、ただの脇役だからね」と付け加えます。
ちょっとだけ、夢の世界のオジサンたちのことが不憫になりました……。
「さて」と、彼女はようやく思い出したかのようにナイフとフォークを手に取ると、すっかり表面が冷めてしまったらしいハンバーグを丁寧に切り始めました。皿の上にとろりと流れ出たチーズが艶めかしいです。
どうやら、今日の仕事はこれでおしまいのようです。
スマホを確認すれば、時刻は十九時半過ぎになっていました。あまり帰りが遅いとお姉ちゃんを心配させてしまいます。
「……私、帰るね」
「うん。ありがとう、スナオ。またあの世界に危機が訪れたら、すぐに連絡するよ」
「うん? うん。ばいばい」
物騒な別れの言葉は聞き流し、スクールバッグを肩に担ぎます。そのまま席から立ち上がりかけて、思い止まりました。
――どうしても気になっていることがありました。
さらさらと落ちる長い髪を耳に掛けて、綺麗な所作で食事を愉しむ彼女。高貴さを感じさせるブロンドの髪とコバルトブルーの瞳。それとは対照的な、駅前のファミレスと古風なセーラー服。一様の絵画を思わせるそのアンバランスさに、私は息を呑みます。
初めて会った時、彼女は自分のことを「地に堕ちた哀れな神様」だと自称しました。もちろんただの冗談でしょう。それでも、今でもその言葉を信じてしまいそうになる自分がいます。あの時の寂しげな表情を、信じてしまいそうになる自分がいるのです。
ファミレスで会える女神様。
ダメだって分かっているのに、そんな彼女の優しさに私はいつも甘えてしまいます。頭が悪くて、間が悪くて、情けなくて、チョロい私の事を、彼女はいつまで構ってくれるのでしょうか。
お腹に手を当てて深呼吸をしてから、意を決して彼女の名前を呼びます。
「――ロキさん」
彼女こと、ロキさんは「どうしたの」と、不思議そうに首を傾げています。
気まずい沈黙が二人の間に流れました。
それでも、覚悟を決めねばなりません。私は口を開きます。
「……ハンバーグ、一口ちょうだい」
彼女は目をまん丸に見開いたかと思うと、すぐにふっと吹き出しました。お腹を押さえて、くつくつと声を殺して笑い始めます。
……やっぱり言わなければ良かった!
いつもそうです。ロキさんが美味しそうに食べる料理は、何でも美味しそうに見えてくるのです。彼女に「スナオも一口どうだい?」なんて甘く囁かれると、ついつい夕飯のことを忘れていっぱい食べてしまうのです。そして、家路の途中で後悔するのです……。
だから、今日こそは誘惑を断ち切ろうと決心していたのに……。
牛さんの夢を見てからずっと、「牛100%」というキャッチコピーが頭の片隅から離れません。もうどうしようもないほど、その味が気になって仕方がないのです!
「もう……。本当に可愛いなあ、スナオは」
らんらんと蒼く輝く瞳を細めて、ロキさんはイタズラっぽい笑みを浮かべました。
すでに切り分けてあった一口大のハンバーグにフォークを差すと、何のためらいもなく腕を伸ばして私の顔先へと向けます。
「はい、あーん」
「……あ、あーん」
彼女の手ずから、彼女のフォークで私の口にハンバーグが運ばれます。すでに冷め切っているはずなのに、なんだか妙に熱く感じて――。
本日三度目、耳まで真っ赤に染まってしまった顔を、私は両手で必死に隠しました。